第33話(表)
――選ばなかった代償
避難路の最後の一団が、分岐点を越えた。
人の声は遠のき、残ったのは、踏み固められた土と静けさだけだ。
桜花は、剣を収めなかった。
抜いたまま、だが振らずに、そこに立っている。
「……通ったな」
矢上が、小さく息を吐く。
「はい。
怪我人も、取り残しもありません」
「そうか」
短い言葉だった。
だが、その裏にある緊張が、まだ解けていない。
◇
桜花は、剣をゆっくりと鞘に戻した。
鞘走りの音はなく、ただ静かに刃が収まる。
「終わった……わけじゃない」
それは、独り言に近い。
ここで戦わなかった。
勝ちもしなかった。
だが、負けてもいない。
――だからこそ。
◇
矢上が、地図を広げる。
「黒鋼軍、
分岐点から後退を開始しています。
ですが……」
「ですが?」
「主力ではありません。
一部の部隊が、別方向へ」
桜花の視線が、地図に落ちる。
「……来たか」
◇
それは、避難路から外れた場所だった。
小さな橋。
水源へ続く細道。
人は少ないが、失えば困る場所。
「黒鋼は、
ここで剣を交えなかった代わりに、
代償を“別の形”で取りに来る」
矢上が、唇を噛む。
「……選ばなかった代償、ですね」
「そうだ」
桜花は、否定しない。
戦わなかったことは、
“何も失わなかった”という意味ではない。
◇
桜花は、本隊に命じた。
「分岐点の守りは維持する。
だが、
別働で小隊を出す」
矢上が顔を上げる。
「迎撃、ですか」
「違う」
桜花は、はっきり言った。
「取り戻しに行く」
◇
剣を抜かなかった選択。
剣を振らなかった一手。
それは、正しさではない。
誇りでもない。
ただ――
責任を伴う選択だ。
◇
桜花は、馬に飛び乗った。
「黒鋼は、
私が“ここを選ばなかった”と読んだ」
だから、
そこを突く。
「ならば私は、
選ばなかった代償からも、
目を逸らさない」
◇
風が、再び強く吹いた。
雲が、分岐点の上で流れる。
戦は、
剣を交えなかったことで、
より複雑になった。
勝たなかった代わりに、
守れたものがある。
だが同時に、
守り切れなかったものも、
確かに生まれている。
◇
桜花は、前を見据えた。
「……行くぞ」
それは、追撃ではない。
報復でもない。
選ばなかった代償を、
引き受けに行くための進軍だ。
戦は、
再び動き出した。
今度は――
勝つためではなく、
失わないために。
《雷哭ノ桜花戦記 ― 表裏双章 ―》は、
同じ話数を「表」と「裏」の二話で構成する戦記です。
表では桜花の視点から戦を描き、
裏では敵将・黒鋼の視点から、
同じ戦の別の意味と判断を描いています。
どちらが正しいかではなく、
それぞれが何を選び、何を背負ったのか。
戦を一方向ではなく、立体的に描くことを目的としています。




