第31話(表)
――抜かざるを得ない瞬間
避難路の先で、空気が変わった。
風が止まり、音が吸い込まれるように消える。
桜花は、足を止めた。
剣を抜かないと決めて、ここまで来た。
だが――それでも。
「……矢上」
低く名を呼ぶ。
「前方、視界が開けません。
地形が……おかしい」
道は続いている。
だが、人の気配が途切れている。
逃げ切ったのではない。
行き止まったのだ。
◇
避難民の列が、自然と止まる。
「……将、前が」
誰かの声が震える。
桜花は、一歩前に出た。
剣は抜かない。
だが、視線は鋭く、前を射抜く。
道の先。
谷が細く絞られ、左右は崖。
その中央に――黒鋼軍の旗が、低く掲げられていた。
「……来たか」
黒鋼は、来た。
ではない。
待っていた。
◇
矢上が、歯を食いしばる。
「退路が……」
「分かっている」
桜花は、即答した。
背後には民。
前方には敵。
左右は崖。
ここは、
剣を抜かずに通れる場所ではない。
◇
桜花は、ゆっくりと息を吸った。
剣を抜かない理由は、
ここまでで、すべて使い切った。
恐怖で通さない。
威圧で道を開かない。
自分が先に立つ。
――それでも。
「……ここだな」
小さく呟く。
剣を抜かざるを得ない瞬間。
◇
桜花は、振り返った。
「下がれ」
短い命令。
「私が、ここを受ける」
避難民の目が集まる。
恐怖と、祈りと、覚悟。
「剣は、
守るために抜く」
その言葉に、迷いはなかった。
◇
桜花は、刀の柄に手をかけた。
ゆっくりと。
だが、確かに。
鞘走りの音が、静寂を裂く。
それは、戦場が完成する音だった。
◇
桜花は、前を見据える。
「……黒鋼」
名を呼ぶ声は、低く、真っ直ぐだ。
「私は、
ここまで剣を抜かなかった」
それは、誇りではない。
意地でもない。
「だが――
ここは、抜く」
◇
剣先が、地を指す。
風が戻り、雲が動く。
雷の気配が、はっきりと近づいていた。
桜花は、一歩踏み出す。
「ここから先は、
私が守る」
それは、宣言だった。
そして――
黒鋼に向けた、明確な答えだった。
戦は、
ついに“避けられない形”を取った。
剣を抜く理由は、
十分すぎるほど、積み上がっていた。
《雷哭ノ桜花戦記 ― 表裏双章 ―》は、
同じ話数を「表」と「裏」の二話で構成する戦記です。
表では桜花の視点から戦を描き、
裏では敵将・黒鋼の視点から、
同じ戦の別の意味と判断を描いています。
どちらが正しいかではなく、
それぞれが何を選び、何を背負ったのか。
戦を一方向ではなく、立体的に描くことを目的としています。




