第23話(表)
――雷は、消えた場所を追う
夜明けの谷は、静かすぎた。
あれほど濃密だった戦の気配が、嘘のように消えている。
桜花は、崖上から谷底を見下ろしていた。
焚き火の跡。
踏み荒らされた地面。
そ
「……消えたな」
矢上が、慎重に周囲を確認する。
「黒鋼軍、完全に離脱しています。
追撃の痕跡も薄い。
これは……撤退というより」
「戦場を捨てた」
桜花は、はっきりと言った。
敗走ではない。
混乱からの逃走でもない。
あれは、意思を持った離脱だ。
「黒鋼は、ここを“雷が落ちた場所”として固定させたくなかった」
矢上が唇を引き結ぶ。
「……つまり、
このまま追えば、また外される」
「そうだ」
桜花は、谷に背を向けた。
「黒鋼は、戦場を点で捉えない。
線でも、面でもなく――
流れとして捉えている」
雷を落とせば、そこを離れる。
ならば、次に雷を落とすには、
“落とさざるを得ない流れ”を作るしかない。
◇
本隊を再集結させ、軍議が開かれた。
「黒鋼軍は、北嶺奥へ進路を取っています」
「補給線を再構築しつつ、
主力の速度を保っています」
報告が続く。
どれも“止まっていない”という事実を示していた。
矢上が問う。
「このまま、消耗戦を続けますか?」
「いいや」
桜花は、即座に首を振った。
「それでは、永遠に追いかけっこだ。
黒鋼の土俵になる」
彼女は、地図の奥――
北嶺を越えた先を指した。
「黒鋼が、必ず“立ち止まらざるを得ない場所”がある」
「……それは?」
「人だ」
一瞬、沈黙が落ちた。
「兵ではない。
民でもない。
だが――」
桜花の指が、地図の一点に止まる。
「この先にある集落群。
街道と補給路が交わる、要衝だ」
黒鋼は、無差別に踏み潰す男ではない。
だが、軍を通す以上、
“そこを無視できない場所”が必ず生まれる。
「黒鋼は、戦場を捨て続けられる。
だが――」
桜花の声が、低く締まる。
「守るものが絡めば、
戦場を捨てる自由は失われる」
◇
矢上が、慎重に言う。
「……民を、盾にするおつもりですか?」
「違う」
桜花は、即座に否定した。
「私は、守る。
黒鋼が、どう動くかを見せてもらう」
彼女は、拳を握る。
「ここで民を守れば、
黒鋼は“避ける”か、“踏み込む”か、
どちらかを選ばねばならない」
そして、どちらを選んでも――
戦場は、そこに固定される。
◇
夕刻、進軍開始。
桜花軍は、速度を上げた。
追うためではない。
先に立つためだ。
「雷は、追っても落ちない」
桜花は、馬上で呟く。
「だが――
待つ場所を選べば、必ず落ちる」
遠く、北嶺の向こうに雲が集まり始めている。
雷の気配が、再び濃くなる。
次の戦場は、
誰かが守らねばならない場所。
そこは、
黒鋼が戦場を捨て続ける限り、
必ず辿り着く“終点”だった。
桜花は、前を見据える。
「……行こう」
次は、逃げ場のない一点。
雷が、落ちると知りながら、
立たねばならない場所へ。
第四部は、
最終局面への収束を、はっきりと描き始めていた。




