第二十話(表)
――雷は、形を持たない
夜が明けても、空は晴れなかった。
雲は低く、風は一定せず、戦場の輪郭そのものが曖昧になっている。
桜花は小高い尾根に立ち、眼下を流れる霧を見下ろしていた。
補給中継地への一撃は効いた。
だが、黒鋼は止まらない。
「……流したか」
矢上が隣で地図を畳む。
「はい。補給線は再構築されています。
固定点を持たず、巡回型に切り替えたようです。
守りを固める気配はありません」
「守らない、という守りだな」
桜花は短く息を吐いた。
黒鋼は“正解”を避け続けている。
断てば引く。守れば止まる。
そのどちらにも入らない構造へ、自らを変えた。
「……厄介だ」
だが、その声に苛立ちはなかった。
むしろ、冷静な評価があった。
「黒鋼は、血管を分散させた。
ならば次に効くのは──血ではない」
矢上が首を傾げる。
「血でなければ……?」
「意思だ」
◇
桜花は部隊をさらに分けた。
正規兵ではない。
軽装の機動兵、地理に明るい者、伝令役に長けた者。
「敵を斬るな」
集められた者たちに、はっきりと告げる。
「見るな。
追うな。
ただ、現れろ」
兵たちが戸惑う。
「現れる……とは?」
「敵の進路の“外側”に立て。
尾根の向こう、谷の出口、
次に“行けそうに見える場所”だ」
桜花は地図の縁を指でなぞる。
「黒鋼は、戦場を作らない。
だからこそ、次に進める“余地”を常に探している。
その余地に、私たちが“いる”と示せ」
戦わず、斬らず、壊さない。
ただ、可能性を潰す。
「敵に撃たれても、深追いするな。
目的は撃ち合いではない。
判断を鈍らせることだ」
理解が、兵たちの表情に広がっていく。
◇
昼過ぎ、最初の報が入った。
「敵先遣、谷筋で進路変更。
理由は不明ですが、
前方に我が兵の姿を確認したとのことです」
「よし」
桜花は頷いた。
「次」
「尾根越え部隊、足を止めています。
包囲を警戒している様子です」
「よし」
戦っていない。
だが、進んでいない。
黒鋼の軍は、少しずつ、確実に“遅れて”いる。
◇
夕刻、霧が再び濃くなる。
桜花は、静かに刀を抜いた。
斬るためではない。
自分の意志を確かめるためだ。
「……黒鋼」
小さく名を呼ぶ。
「お前は、迷いを工程に組み込むと言ったな。
ならば私は──
工程そのものを、曖昧にする」
進めるのか。
避けるのか。
攻めるのか。
どれも“正しい”。
だからこそ、選べない。
それが、今の黒鋼軍に起きている。
◇
夜。
散開した小隊から、断続的に報が入る。
「敵、こちらを主力と誤認した模様です」
「別方向へ回り込みを開始しています」
「進軍速度、明らかに低下しています」
矢上が静かに言った。
「……戦っていないのに、
戦っているよりも効いていますね」
「雷は、形を持たない」
桜花は答えた。
「落ちると決めた瞬間に、
初めて形になる」
彼女は北嶺の方角を見た。
遠く、焚き火の列が揺れている。
「黒鋼は、まだ前に進める。
だが、どこへ進むべきかが曖昧になり始めている」
それでいい。
完全な停止は狙わない。
ただ、次の一手を“重く”する。
◇
深夜、風が変わった。
霧が一瞬、切れる。
その隙間で、遠雷が光った。
桜花は、わずかに目を細める。
「……来るな」
呟きとは裏腹に、心は静かだった。
黒鋼は、このまま曖昧さを受け入れる男ではない。
いずれ、強引に形を作る。
その時こそが、
次の“本当の戦場”。
「雷は、形を持たない。
だが──」
刀を収め、桜花は踵を返す。
「形を持たせられた瞬間、
必ず、そこへ落ちる」
霧の向こうで、戦は次の段階へと進み始めていた。




