第十八話(表)
――丘は戦場にならなかった
夜明けとともに、雨は弱まった。
雷返しの丘には、薄い霧だけが残っている。
桜花は丘の頂に立ち、濡れた外套の裾を払った。
視界の先──北嶺へ続く尾根に、敵影はない。
「……通った、か」
呟きは風に溶けた。
想定していた轟音も、正面衝突も、ここにはなかった。
戦場に仕立てたはずの丘は、ただの通過点のまま、静かに朝を迎えている。
矢上が背後から近づく。
「黒鋼軍、丘を包むようにして北嶺方面へ抜けました。
正面の圧は薄く、側面で流れを作った模様です」
「……やはり、選ばなかったか」
桜花は目を伏せ、短く息を吐いた。
胸に湧いたのは苛立ちではない。
むしろ、納得に近い感情だった。
黒鋼は、彼女が“戦場に変える”と見込んだ場所を、
意図的に戦場にしなかった。
「こちらの狙いを読んだ上で、さらに外してきた、ということだな」
「はい。
結果として、我が軍は丘に足止めされ、
敵主力は北嶺へ距離を稼ぎました」
敗北ではない。
だが、勝ちでもない。
桜花は地図を広げ、北嶺の線を指でなぞる。
「黒鋼は、衝突を避けることで“主導権”を取りに来ている。
こちらに決断を強いる形だ」
戦場を作らない、という選択。
それは、桜花の“踏み込ませる戦争”への、静かな拒否だった。
◇
丘を下り、本隊を再編する。
兵たちの顔には、戸惑いが浮かんでいた。
「……戦わずに終わった、のか」
「待っていたのに、来なかったな」
囁きが、あちこちで漏れる。
恐怖ではない。期待を外されたことによる、居心地の悪さだ。
桜花はその空気を感じ取り、馬上から声を張った。
「よく聞け!」
全員の視線が集まる。
「戦は、剣を交えた時だけに起きるものではない。
今日、ここで何も起きなかったのは──
黒鋼が、私たちを無視できなかった証拠だ」
ざわめきが止まる。
「丘を戦場にしなかったのは、
この場所に私が立っていると知っていたからだ。
敵は避けた。
それは、恐れではなく、警戒だ」
桜花は北嶺の方角を示す。
「つまり次は、もっと大きな場で来る。
正面からぶつかるか、
あるいは──さらに深く潜るか」
兵たちの背筋が伸びた。
「備えろ。
ここからが、本当の分かれ道だ」
◇
正午前、斥候が戻る。
「北嶺西側、敵軍の進路が二手に分かれています!」
「分岐地点は?」
「黒嶺尾根の中腹。
一部は尾根を越え、
一部は谷筋へ降りた模様です」
矢上が地図を覗き込む。
「兵力を分けた……?
危険な賭けです。どちらかが孤立する可能性が高い」
桜花は首を横に振った。
「賭けではない。
“誘い”だ」
黒鋼は、桜花に選択を迫っている。
どちらを追うか。
どちらを捨てるか。
「尾根を追えば、谷が抜ける。
谷を追えば、尾根が抜ける」
どちらも致命的ではない。
だが、どちらか一方を誤れば、
戦局全体が一段階、敵に傾く。
「……黒鋼」
桜花は小さく呟いた。
「お前は、戦場を作らずに、
“選択”そのものを戦場にしてきたな」
◇
夕刻。
桜花は、本隊を止めた。
全軍を集めるわけでも、即座に追撃するわけでもない。
あえて、止まる。
「桜花殿……?」
矢上が戸惑いを隠さずに問う。
「今、動けば、黒鋼の思う通りになる」
桜花は目を閉じ、短く考えた。
尾根。
谷。
どちらも“正解”に見える。
そして同時に、“罠”でもある。
「だから──」
彼女は、ゆっくりと目を開いた。
「第三の手を打つ」
矢上の息が止まる。
「第三の……?」
「尾根でも谷でもない。
黒鋼が“今は考慮していない場所”だ」
桜花は地図の端、細い線を指で叩いた。
「補給線だ」
一瞬、沈黙が落ちる。
「戦場を作らないなら、
戦場を支える“根”を断つ。
黒鋼が避け続けるなら──
私が、追わせる側に回る」
矢上は、静かに頷いた。
「……了解しました。
この戦、まだ形を変えられますね」
桜花は北嶺の空を見上げた。
雲はまだ低い。雷の気配も消えていない。
「雷は、落ちる場所を選ぶ。
だが──」
彼女は、刀の柄に手を置く。
「私は、雷そのものを動かす」
戦場にならなかった丘の向こうで、
次の局面が、静かに動き始めていた。




