第十七話(表)
――雷は、進路を選ばない
風裂谷を抜けた空気は、重く湿っていた。
戦の匂いが、谷の外まで染み出している。
桜花は馬を進めながら、背後を一度だけ振り返った。
岩壁に刻まれた血痕、倒れ伏した影縫いの骸、そして生き残った斥候たちの姿。
救えた命は多くはない。それでも、“全滅”という最悪だけは回避できた。
「……矢上」
「はっ」
「斥候を本隊へ合流させろ。治療と休養を最優先。
彼らは、よく持ちこたえた」
「承知しました」
矢上の声には、抑えきれない安堵が混じっていた。
だが、桜花は安らいではいない。
風裂谷での戦いは、救出戦であると同時に、はっきりとした“宣告”だった。
黒鋼はすでに北嶺を見据え、戦を動かし始めている。
影縫いは、その前触れに過ぎない。
「……来るな」
桜花は空を見上げる。
雲の切れ間で、雷光がわずかに瞬いた。
嫌でも理解できる。
黒鋼は、こちらの動きを織り込んだ上で“主戦場”を選び直している。
つまり次は──
小競り合いでは終わらない。
◇
本隊へ戻る途中、伝令が駆けてきた。
「桜花様! 北嶺方面より急報です!」
「申せ」
「黒鋼軍、西側斜面に大規模展開。
明朝にも、黒嶺尾根を突破する構えとのこと!」
その場の空気が、一気に張り詰めた。
西側斜面は傾斜が緩く、大軍が一気に雪崩れ込める地形だ。
そこを抜かれれば、防衛線は瓦解する。
矢上が歯を食いしばる。
「やはり……本命は北嶺突破。
影縫いは陽動だった可能性が高いですね」
「いや」
桜花は首を横に振った。
「陽動ではない。
黒鋼は、二つを同時に成立させる男だ」
影縫いで内部を削り、
本隊で正面を叩き潰す。
どちらか一方が失敗しても、もう一方で勝ちを拾う。
それが黒鋼の戦争だ。
「全軍に通達。進路を変更する」
矢上が目を見開く。
「北嶺へ、直行なさるのですか?」
「違う」
桜花は地図を広げ、指先で一点を叩いた。
「黒嶺尾根の南側、雷返しの丘。
黒鋼は、あそこを“通過点”としてしか見ていない。
だが、私はあそこを“戦場”に変える」
雷返しの丘。
風が乱れ、雷が落ちやすい地形。
視界も悪く、隊列が乱れやすい。
正攻法では、使いづらい場所だ。
だが──
「黒鋼が選ぶのは、勝てる場所。
私が選ぶのは、勝ちを奪える場所だ」
矢上は一瞬、言葉を失ったあと、深く息を吐いた。
「……承知しました。
桜花殿が“そこ”を選ぶなら、我らは従います」
◇
夕刻、雷返しの丘。
低い雲が流れ、風が唸りを上げている。
草は湿り、足元はぬかるみ、遠くの視界は白く霞んでいた。
「ここで迎え撃つ、か」
兵の一人が、呟くように言った。
不安がないと言えば嘘になる。
桜花は馬から降り、丘の頂に立つ。
濡れた髪が風に揺れ、外套が大きくはためいた。
「恐れるな」
その声は、風を切って届いた。
「ここは確かに戦いにくい。
だが、だからこそ黒鋼は油断する」
桜花は兵たちを見渡す。
「我らは、正面から力でねじ伏せる軍ではない。
雷のように、落ちる場所を選び、
一瞬で戦の形を変える軍だ」
雷鳴が、まるで呼応するかのように轟いた。
「黒鋼は強い。
あの男が率いる軍は、正面衝突ではこちらを上回る。
だが──」
桜花は、刀の柄に手を置いた。
「私は、あの男の“読み”を知っている。
そして、あの男はまだ知らない。
私が、退かないと決めた時の戦場を」
兵たちの眼に、火が戻る。
恐怖の奥に、覚悟が灯る。
「ここで止める。
北嶺へは行かせない。
たとえこの丘が焼け落ちようと──
黒鋼の進路は、私が断つ」
◇
夜が訪れ、雨が降り始めた。
雷返しの丘は、闇と水に包まれる。
その中で、桜花はひとり、丘の端に立っていた。
遠く、北嶺の方向に、かすかな松明の列が見える。
黒鋼軍だ。
距離は、まだある。
だが、確実に近づいている。
「……来るな、黒鋼」
小さく呟きながらも、桜花の心は揺れていなかった。
恐れも、迷いもない。
ただ、静かな決意があるだけだ。
雷光が走り、闇が一瞬、白く裂ける。
その光の中で、桜花の姿は揺るがず、まっすぐ前を向いていた。
物語が彼女を戦場に立たせたのではない。
彼女が、戦場を選んだのだ。
雷返しの丘に、再び雷が落ちる。
それは、次の激突の合図だった。




