10話 蒼の心臓 ― 結界の中へ
結界の裂け目へ踏み込んだ瞬間、
朔夜は胸が締め付けられるような違和感に襲われた。
足元が揺れる。
空気が重い。
視界が歪む。
まるで“水の中”に沈んでいくような感覚。
「……っ、これは……」
明朱が朔夜の腕を掴んだ。
「精神干渉よ!
蒼光が意識を引っ張ってくる――
気をしっかり保って!」
伊吹は刀を構えたまま辺りを見回す。
「くそ……この空間……普通じゃねぇ……」
鷹守の声が低く響く。
「おそらく――
ここは巫女の精神をもとに構築された“領域”だ。
踏み込んだ者は、巫女の心に触れる」
朔夜の胸が大きく震えた。
(夕凪……
お前の“心”が……これを生み出しているのか)
蒼光がゆっくり渦を巻く。
光粒が舞い、周囲の景色がぐにゃりと歪む。
霧とも霞ともつかないものが立ち込め――
やがて、その中に形が生まれ始めた。
花。
桜に似ているが、蒼白に透ける光の花。
その花が散り落ちながら、
朔夜の足元へ降り積もった。
明朱が囁く。
「……これ……夕凪ちゃんの心象風景……?」
鷹守が頷く。
「恐怖、孤独、記憶……全てが混ざっておる。
結界が限界に近い証拠だ」
朔夜は息を呑んだ。
その時――
風のように、声が響いた。
『……お兄……ちゃん……』
朔夜は全身が震えた。
「夕凪!!
どこだ!!」
光が揺れ、花弁が舞い上がる。
その先に、影のような少女の輪郭が現れた。
蒼く揺れる髪。
泣きそうな瞳。
腕を抱きしめるような姿勢。
――夕凪だ。
だが、まだ遠い。
輪郭が揺れ、完全には姿を結ばない。
『……こわいよ……
お兄ちゃん……』
朔夜は駆け出した。
「夕凪!!」
伊吹と明朱が後ろから叫ぶ。
「天城さん!!
早まっちゃダメ!!」
「精神領域で走ると意識が引っ張られるわ!!」
しかし朔夜は止まれなかった。
(夕凪が……怯えてる……!
俺が行かなきゃ……!!)
本能が叫ぶ。
“手を伸ばせ”。
“必ず届く”。
花の海をかき分け、
朔夜は夕凪の姿に向かって進む。
だがその時――
谷の外側から、轟音が響いた。
ドォォォン!!
鷹守が振り返る。
「……黒鋼の連中が結界に侵入を試みている!!」
明朱が叫ぶ。
「ダメ!
一気に結界が崩れたら、夕凪ちゃんの精神が……!」
朔夜の足が止まる。
そのわずかな静寂の間に、
夕凪の影が弱々しく揺れた。
『……こないで……
こわい……
こわいよ……』
朔夜の胸が刺すように痛む。
(――違う。
夕凪は俺を拒んでいるんじゃない。
“自分を壊すもの”が近づいているから怯えてるんだ)
朔夜は拳を握る。
「夕凪……
待ってろ。
必ず行く」
その時、鷹守が朔夜の肩を掴んだ。
「天城! 行くぞ!
黒鋼が侵入すれば、巫女は一瞬で引き裂かれる!」
朔夜は鷹守の目を見た。
その瞳には、
“これから起こる最悪”を予測する鋭さと恐怖があった。
(黒鋼が来る――
宗六が――
夕凪を奪うつもりだ)
朔夜の胸に、怒りと焦りが同時に燃え上がる。
(蓮……
こっちは俺が行く。
お前は後ろを守れ)
朔夜は呼吸を整え、
結界の奥へ再び歩き出した。
蒼光をかき分けるたび、
夕凪の影が少しずつ近づく。
『……お兄……ちゃん……
たす……け……』
朔夜は涙を堪えながら叫んだ。
「夕凪――!!
今行く!!」
光の花が舞い、
視界が一気に開ける。
その奥に、
蒼い柱の中心――
夕凪の“本当の姿”が、
光の中でうずくまっていた。
その腕は細く、
肩は震えていた。
朔夜の喉が詰まる。
(夕凪……!
こんな……)
手を伸ばした。
指先が――
彼女の影に触れようとしたその瞬間。
背後で轟音が響いた。
黒鋼の術式が結界に侵入。
谷が震え、光が乱れる。
伊吹が叫ぶ。
「敵だ!
影機関が結界内に踏み込んできた!!」
鷹守が刀を構える。
「天城!! 時間がない!!
夕凪を――掴め!!」
朔夜は叫んだ。
「わかってる!!」
でも。
手はまだ――届かない。
蒼光の中で、
夕凪の泣き顔が揺れる。
『……お兄……ちゃん……!!』
朔夜は叫び返した。
「夕凪――ッ!!!」
(つづく)




