7話 影風谷最深部 ― 蒼光の悲鳴
影風谷に入ってから、
時間の感覚が曖昧になっていた。
湿った霧が視界を奪い、
足元の岩が時おり悲鳴を上げるように鳴る。
谷の底から吹き上がる風は、
冷たく鋭く……どこか“呼吸”をしているようだった。
鷹守が前方で手を上げた。
「止まれ。
……敵の気配が濃い」
その言葉と同時に、
霧の中で赤い光が点滅した。
明朱が息を飲む。
「模造眼……! 黒鋼の装兵よ!」
次の瞬間――
ズガッ!!
霧を裂いて、鋼の装兵が飛び出した。
伊吹が反射的に剣を抜く。
「くそっ……来た!」
鷹守が叫ぶ。
「構えろ!」
だが、朔夜は剣を抜いたその瞬間、
“違和感”を感じていた。
(動きが……鈍い?)
装兵の突進は速いはずだ。
しかし今は、わずかに左へ逸れている。
伊吹が剣を振り下ろす。
しかし装兵はなぜか、
攻撃の瞬間に体勢を崩した。
「……え?」
伊吹は驚き、斬撃が空を裂く。
装兵は霧へ転がり落ちるだけで、反撃してこない。
鷹守が眉を寄せた。
「妙だ……本気で殺しに来ていない……?」
明朱も札を構えながら呟く。
「攻撃の軌道が不自然……
まるで“わざと外してる”みたい」
朔夜の胸が痛む。
(蓮……
お前がやっているのか?)
風の流れ、敵の配置、攻撃の癖……
全てが“生かす”方向にずらされている。
それは、蓮にしかできない芸当だった。
◆ “誘導”という名の迎撃
装兵は次々現れたが――
どの個体も、明らかに“致命の一歩”を欠いていた。
伊吹は肩で息をしながら言う。
「天城参謀……
これ、どう考えても……攻撃してきてませんよね」
「……ああ」
朔夜は周囲の気配を読み取るように目を閉じた。
(殺意が薄い。
迎撃ではなく“誘導”。
この道へ……導いている)
鷹守が刀を払って霧を裂く。
「ならば――導きに乗るか?」
朔夜は深く頷いた。
「ここまで来たら……蓮の“読み”と向き合う。
それが最短ルートだ」
明朱が、胸の前で符を握りしめる。
「蓮さん……私たちを助けてるの……?」
朔夜の胸が刺されるように痛んだ。
(助けている……
だがむしろ……
“自分を追い詰めている”)
蓮は黒鋼の兵だ。
裏切れば命はない。
その上、夕凪を守ろうとしている。
(蓮……
どれほど苦しかったんだ)
答えは霧の中に沈んだままだ。
◆ 谷の奥――“悲鳴”
その時だった。
谷の最奥から――
蒼い閃光が走った。
空気が震え、岩壁が共鳴する。
ズン……ッ!!
明朱が顔を上げる。
「この魔導反応……!
夕凪ちゃんの力よ!」
伊吹が息を呑む。
「今の……悲鳴じゃなかったか!?」
朔夜の心臓が握り潰されるように痛んだ。
(夕凪……!)
胸元の札が熱を帯びる。
幼い妹の声が、確かに聞こえた。
『……お兄……ちゃん……』
「――夕凪!!」
朔夜は走り出していた。
鷹守がすぐ追う。
「天城! 危険だ、待て!」
明朱も叫ぶ。
「敵の迎撃が本格化するわよ!」
しかし朔夜には、
もう立ち止まる理由がなかった。
風が、明らかに“夕凪へ”向かって吹いている。
(蓮も……同じ方向へ導いている)
谷は深く、暗い。
だが奥から響く悲鳴は、
あまりに鮮明に“朔夜を呼んでいた”。
◆ そして――“彼”の気配が目前に
岩場を越えた瞬間。
風が爆ぜた。
ザァァ――ッ!!
朔夜は止まった。
目の前の霧の揺れ方が、
“人が立っている”それだったからだ。
鷹守が剣を構えた。
「敵か!?」
明朱は札を構え、伊吹は息を呑む。
朔夜だけが、動けなかった。
(違う――
この気配は……)
霧が風で裂ける。
黒い外套の裾が、わずかに揺れた。
姿はまだ見えない。
声もない。
だが――
気配だけで分かる。
刃向蓮が……そこにいる。
朔夜の全身に電流が走った。
(蓮……
やっと……)
次の瞬間、谷の奥で鋼の声が響いた。
ガギィン!!
装兵の剣が岩に刺さる音――
蓮が引きつけていた迎撃隊が暴走し始めた証。
霧の奥から、蓮の声はまだ聞こえない。
だが朔夜は、まっすぐ前を見つめた。
「……蓮。
俺は行く。
どれだけ道を歪められても――
お前ごと、夕凪を取り戻す」
その言葉を飲み込むように、
谷の風が蒼く脈動した。
影風谷の底で――
ついに、
“二人の道”が交差しようとしていた。




