4話 影風谷前夜 ― 読み合う影
夜の山脈は、帝都とは別の世界のように静かだった。
蒼風調査隊が影風谷手前の窪地に野営を張ってから数時間。
焚き火の赤い火点が、断崖の黒に吸い込まれていく。
朔夜は、少し離れた岩陰に立ち、
山の奥――黒鋼の領地側を睨んでいた。
(……風の音が違う)
谷を抜けて吹く冷たい風に、
微かだが意志のようなものが混じっている。
明朱が背後から近づいてきた。
「天城参謀。
まだ眠らないの?」
朔夜は頷いた。
「……眠れる空気じゃない」
明朱は空を見上げた。
雲が薄く流れ、月がゆらりと揺れる。
「魔導波……まだ揺れてる。
あの蒼光の余波よ。
“何か”が呼吸してるみたいに」
(扉……そして夕凪)
朔夜は胸の札を指先で押さえた。
「明日、影風谷に入る。
黒鋼は……必ず迎撃してくる」
「ええ。
その“気配”が、もう谷全体に満ちてるわ」
明朱は眉を寄せ、谷の先を見つめた。
「ただ……一つ気になるの。
監視網の一部が、逆に“薄い”」
朔夜は振り返った。
「薄い?」
「普通なら、罠だと考える。
でも……あそこだけ異様に静かすぎる。
魔導波も弱くて……まるで“通れ”って言ってるみたいに」
胸がひどく痛んだ。
(蓮……お前が、そこを……?)
言いかけたところで、
鷹守と伊吹が戻ってきた。
「天城参謀、尾根を一周してきた」
鷹守が言う。
「黒鋼の気配が濃い地点がいくつかある。
だが……ひとつだけ“不自然に”薄い尾根筋がある」
伊吹も地図を広げながら言った。
「普通なら、罠。
でもあそこだけ、風の流れが違うんですよ。
通れば……たぶん敵と正面衝突しない」
鷹守が朔夜を見た。
「どうする。行くか?
それとも避けるか?」
朔夜は目を閉じ、深呼吸をひとつ。
あの蒼風の“向き”。
明朱が感じた魔導波の隙。
鷹守の読み。
伊吹の勘。
そして――
さっきの風に混じった、誰かの気配。
(蓮……
お前が、導いたのか)
「……行く」
朔夜は迷わず言った。
「その尾根筋を使う。
黒鋼が罠を仕掛けていない保証はないが……
そこを通ることでしか、“本流”に辿り着けない気がする」
鷹守は短く頷いた。
「了解。準備に入る」
伊吹が焚き火に薪をくべながら息を吐く。
「天城参謀……
さっきからずっと、険しい顔してますよ」
朔夜は苦笑した。
「……そんな顔をしているつもりはないが」
「いや、してます」
伊吹は断言する。
「多分……誰かを思ってる顔だ。
守りてぇ誰かがいる時の顔だ」
朔夜の返答は、火の音に吸い込まれた。
明朱は焚き火越しに言った。
「天城。
あなたは“鍵”に関わる中心人物。
あなたが迷えば……隊も、風向きも揺れる。
だから言うわ。
何があっても、あなたは前だけ見なさい」
朔夜は静かに目を閉じた。
(前だけ……
でもその前には……
蓮と夕凪がいる)
胸の札が微かに熱を帯びた。
夕凪の声が、風の中で囁いたような気がした。
『……お兄ちゃん……』
(行く。
絶対に、辿り着く)
◆ 深夜 ― “読み”の共鳴
夜も深くなり、隊が仮眠に入った頃。
朔夜はひとり、尾根の端に立っていた。
星が薄く瞬き、山の暗闇が息づく。
その時だった。
ヒュウ――
冷たい蒼風が吹き抜けた。
肩が震える。
次の瞬間、胸の奥が強く引かれた。
(……来る)
何が、とは言えない。
だが確かに分かる。
“誰かがこちらに向かっている”。
鷹守が背後から近づいてきた。
「天城。
……気付いたか?」
「……ああ」
「黒鋼の迎撃隊が動いてる。
数は多くないが、間違いなく精鋭だ」
朔夜は尾根筋を見つめた。
谷底から立ち上る風に、
ほんの一瞬、黒い影が混じった気がした。
(蓮……来るのか)
鷹守が低く言った。
「読み合いの勝負だ。
どっちが風を掴めるか、だな」
朔夜は深く息を吸った。
胸元の札が微かに震える。
(蓮……
お前がそこにいるなら、
俺は――)
「明日の夜明け。影風谷へ進入する」
朔夜は言った。
「黒鋼との最初の衝突は……必ず避けられない。
でも……俺たちが先に“風”を掴む」
蒼風が尾根を滑り抜けていく。
まるで、
誰かの気配を運ぶように。
朔夜は夜の闇に向かって呟いた。
「……蓮。
会いに行くぞ」
その声を、山風だけが静かにさらっていった。
影風谷の闇が、
ゆっくりと目を覚まし始めていた。




