3話 影風谷への道 ― 山脈に潜む読み
帝都を離れて三日。
蒼風調査隊は、帝国領の端にある“境界山脈”へと差しかかった。
山風は冷たい。
昨日よりも、ずっと。
鷹守が前方で手を上げる。
「足を止めろ。空気が変わった」
朔夜も同じものを感じていた。
昨日までの乾いた風とは違う、湿り気と鉄の匂い。
(……黒鋼の気配だ)
静かに息を吐き、隊の列を整える。
山岳地帯は桜花帝国と黒鋼連邦の境。
両国の探り合いが最も激しい地域で、
偵察隊が何度も消えた過酷な土地でもあった。
伊吹が険しい表情で周囲を見渡す。
「ここ、嫌な地形だな……。大岩と断崖で見通しが悪すぎる。
敵が潜んでてくださいって言ってるようなもんだ」
明朱が目を細め、掌で空気を探る。
「魔導流も乱れてる……。
蒼光の影響、まだ残ってるわね」
朔夜は頷き、地図を広げた。
「予定どおり“影風谷”へ向かう。
ただしルートは変更する。黒鋼は必ず、王道の谷道を監視してくる」
鷹守がわずかに笑った。
「つまり、天城参謀お得意の“裏道”か」
「読まれても問題ない裏道だ」
その言い方に、伊吹と明朱が顔を見合わせた。
伊吹が苦笑しながら言う。
「“問題ない”って……
相手、黒鋼の読み手ですよ? 朔夜の行動なんて、まるごと筒抜けじゃないですか」
朔夜の胸の奥が、ひどく痛んだ。
伊吹は何も知らない。
知らないから、今の言葉を冗談めかして言える。
(蓮……
お前は今、どこにいる?
本当に……読んでいるのか)
昨日から朔夜は、奇妙な感覚を覚えていた。
行軍中、ふとした瞬間、
背後から“誰かの呼気”が届いたような錯覚があった。
蒼光の残響。
夕凪の声。
蓮の気配。
それが胸の奥で、微かに揺れている。
鷹守が低い声で言う。
「天城。
気を張りすぎるなよ。
お前の読みは鋭いが、“個人的なもの”が入りすぎると危うい」
「……分かっています」
口ではそう言いながら、
朔夜は胸元の札――夕凪の《鍵紋》を握りしめた。
(待っていろ。
夕凪も、蓮も――
必ず俺が辿り着く)
◆ 影風谷手前 ― “気配”との遭遇
昼過ぎ、隊は細い尾根道に出た。
切り立った崖を挟むように、
山風が強く吹き抜けていく。
鷹守が立ち止まり、手で合図する。
「全員、伏せろ」
朔夜は即座に岩陰へ身を滑り込ませた。
数秒後。
視界の遥か先を、黒い影が走った。
遠すぎて姿は見えない。
だが朔夜には、
その“動き”だけで分かった。
(……これは……)
伊吹が低く呟く。
「黒鋼の偵察獣……? いや、動きが違うな」
明朱も首を振る。
「魔導波が薄い……けど“質”が違う。
これ、ただの獣じゃない。読み手か……?」
朔夜の喉がひりつく。
影は一瞬だけ尾根の向こうで止まり、
山風の中に溶けるように消えた。
(蓮……?)
答えは、風の中に落ちていた。
ヒュウ、と吹き抜ける風。
その風に紛れて、
ほんの、ほんの一瞬。
――朔夜。
声にならない声が響いた気がした。
朔夜は無意識に立ち上がりかける。
「天城! 手を出すな!」
鷹守が腕を掴んで引き止めた。
朔夜の心臓は、まるで戦場の太鼓のように打っていた。
(……やっぱり。
蓮が、来たんだ)
それは希望ではなく、恐れでもなく。
ただ“確信”だった。
黒鋼は、こちらの行動を読んでいる。
そして――
蓮が、その先頭にいる。
◆ 夜営 ― 不穏な月と蒼風
夕刻、調査隊は山脈の小さな窪地で野営した。
焚き火の影が揺れる中、
鷹守が周囲の見張りに立ち、
明朱が魔導索を張り巡らせ、
伊吹が装備の確認を続けている。
朔夜は火を見つめながら、胸の奥のざわつきを抑えていた。
(蓮……
どうして……ここに来る)
蓮が迎撃に来るということは、
黒鋼は“夕凪を移送する”準備に入ったということだ。
つまり――時間がない。
「天城」
鷹守が焚き火の向こう側から声をかけた。
「気配の正体、何か思い当たることがあるんじゃないのか?」
朔夜はわずかに息を止めた。
「……可能性があるだけです」
鷹守はそれ以上追及しなかった。
ただ静かに頷き、
「明日の夜明けまでに、影風谷へ入る。
そこで黒鋼の迎撃が本格化するはずだ。
気を引き締めていけよ」
「……分かっています」
その時だった。
谷の奥から、
まるで山そのものが唸り声を上げたような“低い音”が響いた。
伊吹が跳ねるように立ち上がる。
「……何だ!? 魔導爆発か!?」
明朱の顔が蒼白になる。
「違う……これは“呼び声”。
《扉》の反応だわ……!」
朔夜は立ち上がり、
山の暗闇を凝視した。
影風谷の向こう――
黒鋼の深層区画方向から、
もう一度、低い“呼吸”のような音が響く。
(夕凪……
蓮……!)
次の瞬間、
山風が蒼く揺らいだ。
まるで、
誰かが道の向こうで
探しているように。
朔夜は拳を握った。
(明日……必ず辿り着く)
その決意を包むように、
夜空に、細い蒼光が一筋だけ走った。
黒鋼が――動き始めた。




