第37話(表)
――退かない理由
街道は、もはや道ではなかった。
両側の山が迫り、空は細く切り取られている。
桜花は、馬を降りた。
この先は、速度よりも足裏の感覚がものを言う。
「……ここで、止まる」
矢上が、短く頷く。
「黒鋼軍、完全展開。
前にも、後ろにも、余地はありません」
「そうだろうな」
桜花は、剣を抜いたまま、前を見据える。
逃げ場がない。
だからこそ、ここに来た。
◇
兵たちの間に、緊張が走る。
誰もが分かっている。
ここから先は、
引けば壊れる。
進めば、血が出る。
桜花は、振り返らなかった。
振り返る必要がないからだ。
「……矢上」
「はっ」
「ここで退けば、
守ったものも、精算も、
すべて“意味のなかったこと”になる」
それは、戦術ではない。
覚悟の話だ。
◇
桜花は、一歩前に出た。
剣を構える。
だが、斬り込まない。
「黒鋼は、
ここを選んだ」
守るためでも、
勝つためでもない。
「決め切るためにだ」
◇
背後には、もう民はいない。
避難は完了している。
だからこそ――
ここでは、剣を振れる。
守る対象が消えた瞬間、
将は、戦の本質に向き合わされる。
「……退かない理由は、
もう十分だ」
◇
矢上が、低く言う。
「桜花殿。
この戦……
勝ち負けは――」
「分かっている」
桜花は、遮った。
「勝ち負けじゃない」
だが、続ける。
「終わらせ方だ」
◇
桜花は、剣先を僅かに下げた。
「黒鋼は、
ここで剣を抜いた」
それは、
精算を終えた将の剣。
「ならば私は、
ここで退かない」
それは、
選び続けてきた者の答えだ。
◇
風が、街道を抜けた。
雲が、ゆっくりと動く。
雷の気配が、
確実に近づいている。
桜花は、前を見据える。
「……来い、黒鋼」
挑発ではない。
祈りでもない。
互いに退かないと知った者同士の、
最後の呼びかけだ。
◇
ここで退けば、
これまでの選択は空になる。
ここで進めば、
誰かが倒れる。
だが――
退かない。
それが、
桜花がここに立つ理由だった。
戦は、
ついに“問い”を終え、
答えを求める段階へ入る。
剣は、もう迷わない。




