空手の一番弟子が魔王子だと分かったのは、可愛らしいプロポーズから8年後でした ~白い結婚宣言をした夫とメイドの恋を後押しするためにも、再会した師弟で~
「カタリーナ。お前はアチュゼール伯爵家の恥晒しだ」
父はいつも通り、私への嫌悪感をあらわにした。
「15歳にもなって、未だに魔力が皆無とはな」
アチュゼール伯爵家は一族そろって強い魔力を持つことで知られる魔法使いの名家だ。
母も強魔力の有力貴族出身なのに、長女の私は魔力も使える魔法もゼロ。
年齢が上がるにつれてだんだんと疎まれるようになり、今では一族の恥扱いされている。
(でも平気)
私には15年よりずっと長い人生経験、それに心の支えがある。
「今日は屋敷に客が来るが、みっともない存在のお前を見られたくはない。目につかないようにしていろ」
「押忍」
私は動揺することなく返事をした。
「今、なんと言ったのだ?」
父が怪訝そうな顔をしている。
(いけない。つい───)
「なんでもありませんわ。父上のおっしゃる通りに致します」
「ふん」
父は鼻を鳴らして居室に戻って行った。
私も自分の部屋に向かって屋敷の廊下を進んだ。
途中にあるトレーニングルームをちらりと覗いてみた。
弟と妹が魔法の練習中だ。
その様子を、母と家庭教師が笑顔で見守っている。
「奥様。お二人とも英邁であられます。将来が楽しみでございますね」
「うふふ。当然よ。わたくしと旦那様の子ですもの」
何年か前までは私も同じように魔法の教育を受けていた。
だが全く上達しない私にあきれ果てて、母も家庭教師も匙を投げた。
そして魔法の教育から外されてしまった。
(でもいいの。好きなことに時間を割けるようになったから)
私は自分の部屋に戻るとバケットに着替えを入れた。
そして台所に行って食べ物や飲み物も詰めた。
食事を家族と別に取るように言われてから料理も自分で作ることにしているので、メイドたちは特に気にしている様子もない。
準備が終わると屋敷の裏山に向かった。
空手の稽古をするために───。
(転生前から、空手が心の支えだったわね)
前世で日本人女性だった私は、ストレスの多い会社で働いていた。
パワハラじみた言動をする上司。
クレーマーとしか思えない顧客。
何かを変えたくて空手を始めてみたのは正解だった。
嫌なことがあっても稽古で汗を流すと心が軽くなった。
子供の頃から空手を続けている人たちの腕にはまるで及ばなかったものの、なんとか初段を取って黒帯を締めることができた。
師範から指導もしてみないかと勧められて嬉しく思っていた頃───。
暴走トラックにはねられて、元の世界での私の人生は幕を閉じた。
だがカテリーナとして異世界転生することができた。
物心ついた頃には、前世の記憶を頼りに空手の稽古に励み始めた。
練習の記録を羊皮紙のノートにまとめたりもした。
そうしていると上達を実感できた。
幼少期からの努力は確実に体に身についている。
魔法についても努力したが、生まれついての素質がない限りスタートラインにさえ立てないようだった。
アチュゼール家の娘なのに魔力が皆無なのは異世界転生者であることが関係しているのかもしれないが、原因は不明だ。
魔法が使えないことについては運命を受け入れるしかない。
(でも空手は違うわ。努力次第で成長できるものね)
空手のことは家族には秘密にしている。
異世界の武道を理解できるとは考えにくい。
一族の恥晒し扱いされている私がやっていることであれば尚更だ。
裏山の練習場所に到着した。
林の中の木々がない平らで動きやすい場所だ。
脇の茂みでドレスから動きやすい服装に着替えた。
それを取り出したバケットを大きな切株の上に置くと、軽く肩を回して屈伸と伸脚をした。
「さてと」
私は目を閉じて黙想した。
こうしていると心気が浄化されていく気がする。
目を開けると、少し視界が澄んでいるようにも感じた。
「砕破! コオオォォ!」
私は型の名前を叫ぶと、息吹という呼吸法で肺から空気を吐き出した。
そして砕破の型を演じた。
襲ってくる相手を想定して防御や攻撃の動作を流れるように行う。
力の強弱。
技の緩急。
そして呼吸の調整。
気を付けなければならないポイントはいくらでもある。
どれだけ練習しても完成することはなく、新しい課題が見えてくる。
だから続けられる。
他にも何種類かの型を行っているうちに家族のことは気にならなくなった。
転生前も空手で社会のストレスに潰されずに耐えた。
周囲の圧力、押しを耐え忍ぶ。
(それが空手の『押忍』の精神よね)
押忍は一部の流派では挨拶や返事にもなっている。
「ふう」
一息入れることにした。
めったに人が来ない場所で静寂そのものだ。
練習仲間がいなくて寂しくなることもあったが、今は違う。
(三年前から、弟子と呼ぶべき存在がいるもの)
「カタリーナ様」
その弟子に名前を呼ばれた。
「来たのね。ヴァレンタイン」
「押忍」
ヴァレンタインが空手の挨拶をした。
銀髪で銀色の瞳の美少年だ。
私の3つ年下で今は12歳になっている。
「すぐに着替えます」
茂みから戻ってきたヴァレンタインは、貴族風のジャケット姿から動きやすい服装に変わっていた。
服を入れた包みは私と同じように切株に置いている。
「本日もご指導、宜しくお願い致します」
「押忍」
私は微笑みながら返事をした。
それから二人で稽古に励んだ。
準備体操に柔軟体操。
その場で突き蹴りなどの技を繰り出す基本稽古。
運足とともに技を繰り出す移動稽古。
型。
二人で同時に場合もあれば、私が見本を見せた後でヴァレンタイン一人にやらせて動きをチェックすることもある。
ヴァレンタインはいつも一生懸命稽古に打ち込んでいる。
だから上達が早いのだろう。
適度に休憩や水分補給を挟んで稽古を続けた。
組手も行っているが、安全に配慮して攻撃は寸止めか軽い接触に留めている。
「カタリーナ様には全然敵いません」
「私のほうが長く空手をやっているもの。それに体も私のほうが大きいし」
だがヴァレンタインは身長もどんどん伸びている。
きっと二年もしないうちに私の背を追い越すだろう。
そういった成長を想像するだけで笑みがこぼれてしまう。
「さあ。最後は正拳中段突き十本で締めるわよ! 気合い入れて!」
「押忍!」
再び基本稽古の正拳中段突きを十本放った。
「よし。今日も頑張っていたわね。あの技も良かったわ。でもこうするともっと───」
私は今日の稽古の感想を伝えてアドバイスをした。
ヴァレンタインは熱心に聞いている。
「それからくどいようだけど、空手に先手なし。もし空手を使うとしても相手に仕掛けられた場合だけ。相手に喧嘩を売るのに使うなんてもっての他よ」
空手の技術だけでなく武道精神についてもしっかりと教えるようにしている。
「押忍。空手は義の助け、技術より心術ですものね」
ヴァレンタインはこういった話も煙たがらない。
「ふふ。そういう素直な性格だから、ヴァレンタインは上達が早いのでしょうね」
「そんな」
ヴァレンタインは少しはにかんだ様子を見せた。
「さてと。本日の稽古はこれまで。お互いに礼! 押忍! ありがとうございました」
「押忍! ありがとうございました」
別々に茂みで着替えると二人で切株に腰掛けた。
「風邪を引かないように、ちゃんと汗を拭いた?」
「大丈夫です」
「うん。じゃあ栄養補給の時間よ。食べることだって体づくりのための大事な稽古なんだから。育ち盛りのあなたは特にそう」
「いつもありがとうございます」
私がバケットから取り出したパンやチーズなどを二人で食べ始めた。
(体を動かした後だとちょっとしたものでも美味しく感じるわ。ヴァレンタインと一緒だと特にそう)
そう思いながら、ちらりとヴァレンタインを見た。
食べる仕草は上品なものだ。
身なりも良く、貧しい家の子供でないことは確かだ。
だが詳しいことは知らない。
あまり知られたくないようだったので追及も避けてきた。
ヴァレンタインに最初に会ったのは三年前だ。
私が稽古をしていると、気弱そうな男の子が木の陰からこっそりと見ていた。
あなたもやってみる?
そう言うと無言でうなずいていた。
空手の返事は押忍よ。
オ、オスと、ヴァレンタインは恥ずかしそうに言った。
少し基本稽古を教えた後で訊ねた。
あなたはどこのお家の子?
ヴァレンタインは口を濁して、答えないまま帰っていった。
だがヴァレンタインは次の日もその次の日もやってきた。
この場所で待ち合わせるようになり、手取り足取り空手を教えた。
ヴァレンタインは乾いた砂が水に染み込むように教えたことを吸収していった。
私の中の印象も、気弱そうな男の子から利発な美少年へと変化していった。
しばらく経ったある日、少しだけ話してくれた。
ヴァレンタインも魔力がほとんどないという理由で親に疎まれているらしい。
そしていくら練習しても上達しない魔法と違って、空手は楽しいと笑顔を見せた。
ヴァレンタインが笑うのを見たのは、あの時が初めてだった気がする。
「魔力のことで悩んでいる子って結構多いのかしら。そういう子を集めて空手を教えてあげたいわね。ヴァレンタインの練習相手も増えるし」
「───押忍」
ヴァレンタインの押忍が少しためらいを含んでいるように聞こえたのが意外だったものの、食事が済んだので帰ることにした。
二人で山道を歩いて、いつも別れる場所までやってきた。
向かい合うと、ヴァレンタインの表情が曇っていることに気付いた。
「もしかして、練習でどこか痛めちゃった?」
「いえ、大丈夫です」
「でも気になるわ。元気が無さそうに見えるもの」
「───それは。いえ、何でもないです」
ヴァレンタインは何かを言い掛けたが、口をつぐんだ。
「何よ。気になるじゃない」
「───僕は、カタリーナ様と二人だけで練習を続けられたらと思っただけです」
ヴァレンタインはそう言うと、顔を赤くしてうつむいた。
(あら? そういうことなの?)
私は微笑ましい気持になった。
ヴァレンタインが意を決したように顔を上げた。
「僕は、僕は、カタリーナ様と結婚したいです!」
ヴァレンタインが顔を真っ赤にしている。
(あらあら。なんて可愛らしいプロポーズなのかしら)
思わず吹き出してしまいそうになるのを堪えた。
「だ、駄目でしょうか?」
(少年の淡い思いを否定するのも忍びないわね)
「ありがとう。そのプロポーズ、喜んでお受けするわ」
「本当ですか!?」
ヴァレンタインが顔を輝かせた。
「ええ。というわけで、誓いのキスをしましょう」
「そ、それは───」
私はたじろいでいるヴァレンタインに近づくと、滑らかな銀髪の前髪をそっとかき上げた。
「カ、カタリーナ様? あっ」
きれいな額にそっとキスをした。
「ずっと先のことだと思うけど、あなたと結婚できるのを楽しみに待っているわ」
耳元でそっと囁いて一歩離れた。
真っ赤なっているヴァレンタインと見つめ合っているうちに、私の方にもだんだんと照れが込み上げてきてしまった。
(こちらの世界では当たり前の風習なのだけど、日本人の感覚だと───)
「あ、明日もちゃんと稽古に来なさいよね!」
私はヴァレンタインに背を向けて屋敷に向かって早足で歩いた。
「ふふ」
夜になって自分の部屋で机に向かっていると、笑みがこぼれてしまった。
ヴァレンタインの可愛すぎるプロポーズについての思い出し笑いだ。
私とヴァレンタインが本当に結婚するということはまずないだろう。
この時代の貴族は政略結婚が当たり前だ。
(だけどヴァレンタインが特別な存在なのは間違いないわ。私の一番弟子なのだから)
「さてと。あと少しね」
私は羊皮紙にペンを走らせた。
これは練習の記録ではない。
だいぶ前から書き続けている空手の教材テキストだ。
技や型などをできる限り詳しく、イラストも混ぜて分かり易いように書いてある。
心構えや武道精神なども含めて私の空手の知識を書き連ねてきたもので本一冊ほどの分量になっている。
「よし、完成っと」
私はペンを置いて肩を軽く叩いた。
(ヴァレンタイン、きっと喜ぶわよね。空手が大好きなんだもの)
これはヴァレンタインへの贈り物だ。
明日渡すのを楽しみにしながら床に就いた。
翌日、羊皮紙を紐でまとめた空手の教材テキストを持って稽古に向かった。
裏山の待ち合わせの場所で待っていたものの、なぜかヴァレンタインは現れなかった。
さらに翌日も同じだった。
(もしかして何かあったのかしら)
心配になったが、どこに住んでいるのか知らないので様子を確かめることもできない。
仕方がないので屋敷に戻ることにした。
「カタリーナ様」
「あっ、ヴァレンタイン」
いつもの別れる場所まで行ったとき、ヴァレンタインが走ってきた。
姿を見た途端に嬉しくなった。
「もう。昨日今日と稽古に来なかったから心配したのよ」
「すみません」
うつむいたヴァレンタインの額に、包帯が分厚く巻かれていることに気付いた。
「その頭の包帯───。怪我をしてしまったのね。大丈夫?」
「いえ。怪我ではないのですが───」
ヴァレンタインが顔をしかめて唇を固く結んだ。
何か様子が変だ。
「ねえ、どうかしたの?」
「───僕はもう、稽古には来られません」
「ええっ」
「実は親の都合で、引っ越さなければなってしまいました」
ヴァレンタインが無念そうに首を横に振った。
「───引っ越しは、いつ?」
「今日です」
そう聞いた瞬間、足元が崩れたような錯覚に襲われた。
「そんな」
「本当はもう出発する時間なのですが、せめてカタリーナ様にお別れを言いたくて───」
ヴァレンタインが姿勢を正した。
「三年間、カタリーナ様に空手の指導をして頂いて本当に幸せでした。ありがとう、ございました」
ヴァレンタインが一礼した。
「私もヴァレンタインと稽古ができて楽しかったわ」
「僕も楽しかったです。もっとカタリーナ様に空手を教えて欲しかったな」
「本当に残念。寂しくなるわね」
私は胸が締め付けられるような思いになんとか耐えた。
「あっ、そうだわ」
私は荷物から空手の教材テキストを取り出した。
「これは?」
「空手についてできる限り詳しく書いたものよ。持っていって」
ヴァレンタインに教材テキストを渡した。
「あなたは頭も筋もいい。それを見ながら練習すれば、一人でも上達するから。ね?」
「ありがとう、ございます。空手は絶対に続けます。カタリーナ様との繋がりだと思って」
「ふふ。そうね。師弟というだけでなくて、婚約者同士ですものね」
二人で見つめ合った。
三年間の思い出が胸に去来する。
「もう、行かないと」
「分かったわ。でも、ちょっとテキストを置いてくれる?」
「あ、はい」
私も荷物を置いた。
「最後は正拳中段突き十本で締めるわよ」
私が構えを取るとヴァレンタインもそれに倣った。
「気合い入れて!」
「押忍!」
向かい合って正拳中段突きを繰り出した。
私が号令を掛けてヴァレンタインが気合を発する。
十本目が終った。
二人での最後の稽古が終わってしまった。
「元気でね。またいつか会いましょう。さあ、行きなさい」
「押忍」
ヴァレンタインが走り出した。
背中を向ける直前、目には涙が光っていた。
「あなたは自慢の一番弟子よ」
ヴァレンタインの後ろ姿を見つめる私の頬にも、涙が伝った。
◇◆◇◆◇
あれから八年が経過して私は23歳になった。
(ヴァレンタインも20歳。美少年だったから、きっとイケメンになっているはずよね)
ヴァレンタインのことを思い出さなかった日はない。
一人で稽古をするときも、ヴァレンタインもどこかで空手を続けてくれているかもしないということが励みになっている。
その日の稽古を終えて裏山から屋敷に戻ることにした。
屋敷の庭から馬車が駆け出して行くのが見えた。
それを父母が見送っている。
屋敷に入ると父の居室に呼ばれた。
「カタリーナ。お前の縁談がまとまったぞ」
父の話によると、先ほどの馬車にはフォルジェ公爵家の縁談を進める担当官が乗っていたらしい。
フォルジェ公爵家はかつて魔王軍を撃退した魔導剣士を祖先に持つ、アチュゼール伯爵家以上の魔法名家だ。
そのフォルジェ公爵家の三男、ニコラスとの縁談が舞い込んできたらしい。
「お前と同じ23歳だ。これまでなぜか結婚を渋っておったらしいが、業を煮やしたフォルジェ公爵は無理にでも妻を娶らせるつもりだ。担当官が我が家にも来たので二つ返事で引き受けたぞ」
「わかりました」
勝手だという思いもあるが抗議しても無駄だろう。
貴族の政略結婚は当たり前だし、この世界では23歳の結婚は遅いくらいだ。
「担当官には鼻薬を嗅がせておいた」
鼻薬。つまり賄賂だ。
「それでお前の魔力が皆無なことを伏せてもらった。あとは上手くやれ。離縁されたとしてもお前に帰る家は無い。里帰りも不要だ」
やはり家族からは微塵も愛されてはいない。
魔力を持たないせいで。
それはアチュゼール伯爵家以上の魔法の名家であるフォルジェ公爵家でも同じかもしれない。
(もし追い出されてしまったら、何か職を探して自分の力で生きて行こう)
転生前は社会人だったのだからきっと大丈夫だ。
そして空手を続ける。
そう思って淡々と稽古をしながら嫁ぐ日を待った。
(ヴァレンタインがプロポーズしてくれた時の方がずっと嬉しかったわね)
稽古が終って別れた場所が差し掛かるたびに、あの可愛らしいプロポーズのことを思い出した。
一か月後、私は迎えの馬車に乗っていた。
家族からは別れの挨拶もほとんど無かった。
馬車の外には御者以外に、六人ほどの馬に乗った護衛がいる。
中には私以外に二人だ。
一人は中年男で、この結婚の担当官だ。
いかにも小役人という感じで、賄賂を受け取ってもおかしくなさそうな雰囲気だった。
もう一人は女性だ。
私よりいくつか年上で、どこか愁いを含んだ目をしていた。
「エルマと申します。カタリーナ様のお世話を仰せつかっております」
「よろしくお願いします」
「少し長い旅になりますがご辛抱ください。安全のため、道中で身分を明かしたりなさいませぬよう」
アチュゼール伯爵家領からフォルジェ公爵家領までは二週間ほどかかる。
しかも行先は領地の中枢都市ではない。
フォルジェ公爵家は祖先が魔王軍を撃退して以降、国境の警備を任されている武門ともいうべき家柄だ。
華美を嫌い質実剛健を美徳とする家風から、結婚式も行わないことは前もって聞いている。
強い魔力を誇る公爵の身内たちは、魔王軍領に対して防衛線を張るように設置された各城塞に配置されているのだという。
私が嫁ぐニコラスもそのうちの一つに司令官として駐在しているらしい。
向かっている城塞には二百人ほどの兵士が常駐しており、食事の用意や雑務に従事するメイドが十名ほどいるそうだ。
馬車を護衛しているのはそこの兵士で、エルマはメイドのうちの一人らしい。
日中は馬車で進んで夜は宿に泊まりながら城塞を目指した。
女性のエルマには色々と話を振ってみたが、礼儀正しいながらも言うことが事務的でどこか素っ気なく感じた。
だが特に問題なく到着した。
御者に言われて馬車の外を見ると、夕暮れの草原の中に城塞が見えていた。
「あら?」
城塞から兵士たちが出てきたようだった。
城壁より少し前で馬車が止まったので降りた。
向かい合わせで二列に並んでいる兵士の間を進む。
「よくぞいらして下さいました」
「どうぞお幸せに」
兵士たちが次々に言った。
開いた門の前に軍服姿の青年が立っていた。
「ニコラスだ。カタリーナだね?」
「はい。お出迎え、恐れ入ります」
「都市ではないので、大した歓迎もできなくて済まない」
「滅相もありません」
ニコラスは物腰の柔らかい好青年だと感じた。
「せめてこれをどうぞ」
「それっ」
十人ほどのメイドらしき女性たちがフラワーシャワーを浴びせてくれた。
(良いところに嫁いだのかもしれないわ)
心が温かくなり、不安は軽くなった。
「長旅で疲れているだろう。屋敷へ案内する。だが少しだけ待ってくれ」
ニコラスはそう言うと、兵士の列の外の馬車に近づいた。
御者や護衛の労をねぎらっているようだ。
エルマとは特に長く話しているようだった。
それから城壁に入って兵士の宿舎などとは別の小ぶりの屋敷に向かった。
ニコラスと数人のメイドが一緒だ。
エルマは二週間働き詰めだったからか来ないらしい。
屋敷に入るとほどなく夕食となった。
食事をしながらニコラスと話をした。
今日は私の歓迎のために少し豪勢な料理にしてくれたが、普段はニコラスも兵士たちと同じものを食べているそうだ。
ただし兵士たちのように食堂ではなく、この屋敷で食事を取るようにしているらしい。
兵士たちがくつろげるようにするための配慮だそうだ。
宿舎ではなくこの屋敷で寝泊りしているのも同じ理由らしい。
ニコラスは家を持たないまま20歳でここに派遣されてからこの屋敷で暮らしを続けているそうだ。
ちなみに他の兄弟は中枢都市にも屋敷を持っていてそこに家族を住まわせているらしい。
「いずれ都市に私の屋敷を構えることになると思うが、まだ準備中だ。だがここでの暮らしは不便だろうし、カタリーナには両親の屋敷で暮らしてもらうよう取り計らっても構わないが」
「いいえ。私もここで暮らしたいですわ」
この城塞の雰囲気は嫌いではない。
(それに舅や姑と暮らす上に夫が不在なんて、結構な罰ゲームだし)
中枢都市に行って挨拶をするのもしばらくしてからということになった。
父親のフォルジェ公爵からも、魔王軍に対する備えを優先するよう言われているらしい。
武門の家柄というのは本当のようだ。
食事が済むとニコラスの後で湯浴みをしてネグリジェに着替えた。
手伝ってくれたメイドたちも女性用の宿舎に帰って行った。
(いよいよだわ)
結婚初夜───。
会ったばかりの男と閨を共にすることは抵抗があるが、ニコラスはいい夫になりそうに見える。
だからこそ伝えなければならないことがある。
魔力が皆無だという真実を。
暗い屋敷の廊下を歩いてニコラスの寝室のドアをノックした。
「どうぞ」
中に入るとガウン姿のニコラスがベッドに腰掛けていた。
私が近づくとニコラスが立ち上がった。
「言わなければいけないことがある」
私もそのつもりだったが、機先を制された。
「カタリーナ。君を愛することはない。だから白い結婚にして欲しい」
ニコラスの口から発せられた内容は予想外のものだった。
(いいえ、そうでもないかも。転生前に読んでいた小説だと、初夜にそういうことを言われるのって定番だったから)
私は妙なノスタルジーを覚えていた。
(いけない。懐かしがっている場合ではないわ)
私は我に返った。
「そのようにおっしゃるのは、わたくしに魔力が皆無であることを察知されたからですか?」
ニコラスは強力な魔力の持ち主だと聞いている。
相手が魔力を持っていないことも察知できるかもしれない。
ニコラスが意外そうな顔をした後で私を見つめていきた。
その瞳が、一瞬魔力で光ったようだった。
「どうやら魔力が無いというのは本当らしいね」
魔力が無いことを見極めたようだ。
「父は強い魔力を持った有力貴族の令嬢との結婚以外は認めないと言っていたのだが、担当官は調べなかったのかな」
「申し訳ございません。わたくしの父が袖の下を渡して担当官殿を丸め込んで、魔力があると虚偽の報告を───」
「そうだったんだね」
特に怒っている様子が無いことに、ひとまず胸を撫で下ろした。
だが───。
「わたくしなど愛せませんよね。魔力を持たない子が生まれてくることも望まれないでしょうし」
魔力は遺伝の要素が大きいとされている。
「いや。それは関係がない。原因は全て私にある。とにかく寝室は別に用意してあるから」
ニコラスはベッド脇のサイドテーブルに置かれた呼び鈴を鳴らした。
すぐにノック音がした。
「入ってくれ。エルマ」
「失礼いたします」
ドアが開いてエルマが入ってきた。
「エルマ。カタリーナを寝室に案内してくれるかい?」
私は少しためらいつつも、エルマに続いて寝室を出た。
「廊下は少し暗いですね」
エルマが右手を上に向けて光の玉を発生させた。
魔力の光で廊下が明るくなった。
「エルマも魔法を使えるのね。凄いわ」
「ある程度は」
エルマはこちらを見もしないで淡々と言うと廊下を進み始めた。
「君を愛することはない、白い結婚にして欲しいですって。魔力を持たない私なんて、遠くないうちに離縁かしらね」
案内してもらった寝室のベッドの前で自虐的に呟いた。
「心配いりませんわ。ニコラス様はお優しい方ですもの」
エルマがどこか寂しそうに笑った。
「カタリーナ様の要望はできる限り叶えてあげたいと言っておられました。白い結婚のことだけでなく、娯楽の少ない場所で暮らさせてしまうことにもなるからと」
エルマが出て行くと、ベッドに横になって考えた。
ニコラスは私に会う前から白い結婚にするつもりだったらしい。
つまり私が魔力を持っていないこととは関係が無いというのは本当だ。
そして君を愛することはないということは───。
(きっと誰か愛する人がいるのね)
それなら白い結婚を受け入れよう。
(それよりも、私の要望をできる限り叶えて下さると言うなら───)
私はワクワクしながら眠りに落ちた。
◇◆◇◆◇
「最後は正拳中段突き十本で締めます! 気合い入れて!」
「押忍!」
私が指令台から呼びかけると、百人近い兵士たちが叫んだ。
暗くなった訓練用の広場に私の号令と兵士たちの気合が響く。
「本日の稽古はこれまで! お互いに礼! 押忍! ありがとうございました!」
「押忍! ありがとうございました!」
私は指令台を降りた。
兵士たちは充実している様子だ。
嫁いでから三ヶ月が経ち、夜の日課として空手の稽古はすっかり定着したようだ。
ニコラスが受け入れてくれるという要望に対し、私は空手の稽古をしたいと申し出た。
それだけでなく、希望者を募って空手を教える許可を取った。
この城塞の兵士たちは、国境を接した魔王軍に備えるべく昼は訓練や巡回任務を行っている。
だが夜は暇を持て余していた。
娯楽は少なく、中枢都市まで数日掛かるので帰ることができるのは二か月に一度程度だからだ。
空手の稽古を始めると、どんどん参加者が増えて行った。
今ではほぼ全ての兵士が日替わりで稽古を行うようになっている。
「なんだかまた魔力が上がったようです」
「俺も。前は魔法を使えるレベルじゃなかったのに。カタリーナ様が教えて下さった空手のおかげです」
兵士からそんなことを言われるようにもなった。
どうも空手の呼吸法や型の稽古には魔力を強める作用があるらしい。
(でも長年空手を続けている私の魔力がゼロのままということからすると、ある程度は資質も必要というかしらね)
兵士たちと少し話してから屋敷に戻った。
「ただいま戻りました」
「お帰り。カタリーナ。お疲れ様」
「いえいえ。好きでやっていることですもの。楽しいですわ」
ニコラスは微笑みながらうなずいたが、何やら神妙な顔つきになった。
「どうかなさいましたの?」
「どうやら魔王が後継者の魔王子を決定したようでね」
魔王には数多くの子息がおり、その者たちは魔王子と呼ばれている。
親譲りの強力な魔法の使い手たちで、額には魔力の結集した赤い角が生えているらしい。
「魔王軍とは国境を挟んで直接的な戦争は起こらない状態が維持されているけれど、その魔王子が後継者に決定したことでどう転ぶか───」
ニコラスは温厚な性格で、魔王軍との争いを望んではいない。
「後継者になった魔王子について、何か情報は?」
「どうも元々は魔王に疎んじられていたらしい。ほとんど魔力を持たないという理由でね。戦闘は期待できそうにないと判断されて密偵に仕上げるべく人間に紛れ込んで生活させられていたようだ」
魔力がほとんどないという理由で親に疎まれているということに、少し共感を覚えてしまった。
「それなのに魔王の後継者に?」
「人間に紛れ込んで生活をしているうちに魔力が開花して額に赤い角も生えたらしい。それで魔王の元に呼び戻されたそうだ」
(あら? 何かが引っかかっているわ。でもどうしてかしら?)
気掛かりの正体が分からなかった。
「ではお休み」
寝室は別々のままだ。
一人ベッドに入っても気掛かりの正体がつかめずにモヤモヤとしたままだったが、やがて眠りに落ちた。
翌朝はいつも通り早起きして食堂に行った。
「カタリーナ様、おはようございます」
「みんな、おはよう」
メイドたちに挨拶をした。
「さあ。朝食を作りましょうか」
兵士たちの食事を作る手伝いをする許可も取っている。
嫁ぐ前も料理は自分で作っていたので苦ではない。
メイドたちとの距離も縮まっている。
全員が中年から初老の女性たちだ。
エルマだけが随分と若いと思っていたが、聞いたところによると35歳らしく、見た目よりだいぶ年齢は上だった。
そしてエルマは他のメイドたちとは楽しそうに話しているのに、私に対してだけは何か構えているようだった。
昼食の提供が済むと食堂の裏でメイドたちにも空手を教えているが、エルマだけは参加しようとしない。
(何か嫌われるようなことをしてしまったのかしら)
だがエルマは担当官たちと馬車で迎えに来た時から素っ気なかった。
そうなると理由が分からない。
ちなみにあの担当官は私が嫁いだ翌日には城塞から中枢都市に戻っていったが、別の任務で賄賂を受け取ったことが発覚して罷免されたらしい。
それだけではなく国外追放処分にされたそうだ。
なかなか厳しい処分だ。
私の結婚に影響が無かったことは幸いだった。
(嫁ぐ前よりずっと幸せなのは間違いないもの)
兵士たちは空手を教えることで慕ってくれるようになった。
メイドたちとの仕事や稽古も楽しい。
昼過ぎのメイドたちへの空手の指導が終ったので、一度屋敷に戻ることにした。
屋敷に入ろうとしたとき、微かに物音が聞こえた。
(中からじゃなくて、こっちからだったかしら?)
足音を忍ばせてそっと屋敷の角を曲がると───。
木の下で、ニコラスとエルマが肩を寄せて座っていた。
体を絡めているわけでもないのに二人とも幸せそうな様子だ。
(あら。そういうことだったのね)
私は邪魔にならないようそっとその場から離れた。
ニコラスはエルマを愛している。
だから私に白い結婚を宣言した。
エルマはあらかじめそのことを聞いていたのだろうが、それでも私がニコラスと同じ屋根の下で暮らすことが面白いはずはない。
だから私に対して構えた態度を取っていた。
理由さえ分かれば不満はない。
(ニコラスは23歳でエルマは35歳。なかなかの年の差カップルね。愛し合っているなら応援してあげたいわ)
だが仮に私がニコラスと離縁したとしてもエルマが妻になれるというものでもない。
フォルジェ公爵は強い魔力を持った有力貴族の娘しか息子の妻として認めないと言っているらしい。
庶民のエルマとの結婚は絶対に認めないだろう。
エルマのほうが12歳も年長なら尚更だ。
見てしまったことは誰にも言わないことにして、数日が経過した。
その日は城塞に荷馬車がやって来た。
定期的に手紙や荷物が届けられることになっている。
「カタリーナ様。手紙です」
「わたくし宛? 誰からかしら?」
実家からは追放されたも同然で、心当たりはない。
屋敷に戻って手紙の封を切った。
何気なく手紙の差出人の名前を見たとき───。
「嘘」
私は目を疑った。
翌日、私は城塞の外へと出た。
門番にはちょっと散歩に行くと言ってある。
少し草原を歩いて先の丘を登ると小さな林が見えた。
あそこに───。
私は丘を下って林に入った。
「カタリーナ様」
男の声が聞こえて振り返った。
貴族風のジャケット姿の長身の美青年がいた。
なめらかな銀髪。
銀色の瞳。
少年時代の面影がある。
「───ヴァレンタインなの?」
「はい。間違いなくカタリーナ様の空手の一番弟子、ヴァレンタインです」
美青年、ヴァレンタインが微笑んだ。
とてつもない喜びが込み上げてきた。
「ヴァレンタイン!」
思わず抱き着いていた。
背中にヴァレンタインの手がそっと回された。
胸に顔を寄せながら、私は泣き叫んでいた。
しばらくしてから私は体を離して手の甲で涙を拭った。
「それにしても大きくなったわね。あの頃もどんどん背が伸びていたもの」
「はい」
「体も相当鍛えたでしょう?」
「カタリーナ様と別れてから八年間、空手の稽古は欠かしませんでした。きっとカタリーナ様も、稽古をしているだろうと思って」
「うん。私も同じことを思っていたわ」
ヴァレンタインが私と同じ気持ちで空手を続けてくれていたと知って、嬉しさは更に増した。
「だけど、どうしてこんな場所に手紙で呼び出したりしたの? 城塞にいることが分かっているのなら、訪ねてきてくれれば良かったのに」
「そうは行きません」
ヴァレンタインの表情が曇った。
「あら? どうして」
「なぜなら、僕は魔王子だからです」
ヴァレンタインが言った瞬間、梢が風にざわめいた。
「───嘘よ。魔王子の額には魔力の結集した赤い角が生えているそうだけど、ヴァレンタインのおでこにそんなもの無いじゃない」
だがヴァレンタインは首を横に振って、右手を額にかざした。
「あっ」
ヴァレンタインの額が光り、親指ほどの大きさの赤い角が出現した。
「魔力で見えないようにも出来ますが、この通り額には赤い角が生えています。僕は紛れもなく魔王子です」
理解が追いつかなかった。
「でも子供の頃のあなたに、角は無かったはずよ」
「魔力がほとんど無かったからです。そのせいで魔王である父に疎まれて、密偵に育て上げるべく、付き添いの者と一緒に人間に溶け込んで暮らすことを命じられました」
ニコラスが言っていた話だ。
「ですがカタリーナ様に空手の指導をしていただいた三年間で、僕の魔力は少しずつ強化されていました。後から分かったことですが、空手の呼吸法や型には魔力を高める作用があります」
空手が魔力を高めるということも兵士たちが話していた。
「そして魔力が高まった結果、僕の額から角が生えました。それを見た付き添いの者が僕を魔王軍領に連れ戻すことを決めました。角はまだ小さかったので、包帯で隠してカタリーナ様にお別れの挨拶に行きました」
覚えている。
あのときヴァレンタインは額に分厚く包帯を巻いていたが、怪我ではないと言っていた。
それに魔力がほとんどないことで親に疎まれていることは話してくれたが、住んでいる家のことなどは言おうとしなかった。
(あれは魔王子ということを隠すためだったの? それに───)
「あの、少し聞いてもいいかしら?」
「なんなりと」
「最近になって、魔王が密偵に育てるはずだった魔王子を後継者に決定したと聞いたのだけど、もしかして───」
「僕のことです。僕はやがて魔王になります」
体を衝撃が走り抜けた。
「わ、私がちょっと空手を教えた近所の子が、次期魔王!?」
「だからこそです。僕はカタリーナ様と別れてからも空手の修行に励みました。空手によって魔力を高め続けて、他の魔王子を凌駕するほどに強化しました。そして後継者に名乗り出て選ばれました」
(な、なんてことなの)
恐ろしいことになってしまった。
「安心なさって下さい。カタリーナ様」
ヴァレンタインが優しい声で言った。
「僕は出来る限り人間との関係を良好に保ちたいと考えています。少なくとも魔王軍側から侵略することはありません。カタリーナ様は人間なのですから。それに教えられました。空手に先手なしと」
「───覚えていてくれたの?」
「もちろんです。別れるときにもらった書物も擦り切れるくらいに読み返しています」
嬉しさが再び込み上げてきた。
「僕が魔王の後継者を目指した理由の一つは、人間との平和を保つため。そしてもう一つは───」
ヴァレンタインが口をつぐんで寂しそうな笑みを浮かべた。
「どうしたの? もう一つの理由はなあに?」
「───あの。プロポーズのことは、覚えてくれていますか?」
「ええ。OKもしたわね。ふふ」
「子供に対して言ったことだと成長してから分かりました。でもそのときは、このまま人間に溶け込んで生活していればカタリーナ様と結婚できると信じていました」
ヴァレンタインはそう言うと、額の赤い角に触れた。
「ですが額に誓いのキスをして頂いたその日のうちに、角が生えました。タイミングは偶然でしょうけれど」
そういえば額にそっとキスをした。
「とにかく、私はカタリーナ様と添い遂げるためには、魔王軍で上り詰めるしかないと思いました」
「私と添い遂げるために、魔王軍で上り詰める?」
「魔王の後継者に選ばれさえすれば、人間を妻に迎えると言っても周囲は反対できませんから。魔王の後継者を目指したもう理由の一つがそれです。そのためにずっと努力を続けていました」
胸の奥がトクンと音がした。
「ですがカタリーナ様は結婚されたと聞きました」
「その通りだけど───」
「少し遅かったようですね」
ヴァレンタインが、触ったら壊れてしまいそうな笑顔を見せた。
そして顔を逸らすと、つまむ形にした指を口に当てて笛のような音を出した。
どこからともなく角が二本ある黒い馬が走って来た。
「できればこのバイコーンにカタリーナ様を乗せて連れ去りたい。ですがカタリーナ様の幸せを壊したくはありません。どうかお幸せに」
ヴァレンタインはそう言って馬に乗ろうとしたが───。
「ちょっと待って」
ヴァレンタインが動きを止めた。
「今すぐという訳には行かないけれど、準備が済んだら連れて行って」
私はヴァレンタインの手を取った。
「プロポーズ、OKしてしまったんだもの」
「ですが───」
ヴァレンタインは困惑気味だ。
「結婚したと言っても白い結婚なの。それに夫には相思相愛の12歳年上の女性がいてね」
私の頭にはニコラスとエルマを結び付けるある構想が浮かんでいた。
◇◆◇◆◇
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拝啓カタリーナ様
エルマです。
以前に嫉妬のあまり素っ気ない態度を取ってしまったことを改めてお詫びいたします。
お元気でお過ごしでしょうか?
私はニコラス様と夫婦として幸せに暮らしております。
全てはカタリーナ様のおかげです。
それにしてもあのときは驚きました。
魔王子ヴァレンタイン様と添い遂げることにしたとおっしゃったばかりか、カタリーナ様に成りすますよう私に指示なさるなんて。
遠く離れた実家とは縁は切れているし、結婚の担当官は国外追放。
私の顔を知っている城塞の人だけ。
城塞の兵士やメイドたちは空手の指導のときに全員説得した。
エルマは見た目が若いし、魔力もあるから大丈夫だと。
最初は不安でしたが、上手くいきました。
ニコラス様のお父様やお母様にも一度お会いしましたが、私のことをカタリーナ様と信じて疑っておりません。
城塞のみんなはこれからも秘密を守ると言ってくれています。
そして空手に励んでおります。
ニコラス様も。
私も始めてみたら楽しかったです。
ですが今はお腹の子に障らないよう、激しい運動は自粛しております。
ところで魔王軍領での暮らしはいかがでしょう?
カタリーナ様のことですもの。
きっと空手を続けていますよね。
ヴァレンタイン様と一緒に。
この手紙は、教えて頂いた召喚術を使って呼び出した使い魔に渡します。
ちゃんと届きますように。
お二人の幸せを願って、筆を置きます。
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読み終えたとき、エルマからの手紙がそよ風に少し揺れた。
ここは魔王軍領に存在している大きな広場だ。
人間を魔族に置き換えさえすれば何も違わない。
晴天の休日の広場では子供たちがはしゃぎまわり、大人たちはゆったりと散歩を楽しんでいる。
平和そのものだ。
私も広場の片隅のベンチにのんびりと寝そべっている。
枕にしているのはヴァレンタインの膝だ。
ヴァレンタインがそれまで読んでいた擦り切れた空手のテキストを置いて、私の顔を見下ろしてきた。
魔力で角を隠しているので、誰も魔王子とは気付いていない。
「カタリーナ。使い魔が運んできた手紙には何て書いてあったんだい?」
「エルマがおめでたですって」
「へえ。そうなんだ」
ヴァレンタインが微笑んだ。
「君と一緒だね」
そう言って大きくなっている私のお腹にそっと触れた。
「子供が生まれて落ち着いたら、また一緒に稽古しよう」
「そのつもりよ。それに強制はしないけれど、子供にも空手を教えたいわ」
「そうだね。武道精神は学んで欲しいな。人間と争いを起こさないためにも」
そのためにちょっとした構想がある。
「できればこの子だけじゃなくて、人間の子供も、魔族の子供も、魔力を持っている子もいない子も、みんな集めて空手を教えたいわ」
ヴァレンタインが目を細めた。
「君は強欲な女性だなあ。それは最高の贅沢だよ」
「押忍」
私は肯定の意味で押忍と呟いた。