Mr E
田沢が、池田ヶ丘市三ノ宮に到着した頃には、雪は激しい雨に変わっていた。
現場は、田沢が想像していた通り閑散としており、
刑事も最小限の人数しか動員されていなかった。
『吉住会』と言う言葉を聞いてからこうなることはわかっていた。
それは昭和初期から池田ヶ丘市を本拠地とする反社会組織で、
池田ヶ丘市を実効支配しており、土地のほとんどを管理している。
一時、警察側の暴力団追放運動が盛んだった時期には勢力を縮小していたが、
30年前から警察とのパワーバランスが上書きされ、
ここ10年は警察にまで口を出せる立場になっていた。
そんな土地、現代では池田ヶ丘くらいではないだろうか。
池田ヶ丘で『吉住会』が介入している事件は、池田ヶ丘市警ではもれなく『H事案』と片づけられる。
『不幸・不運な事案』の略である。犯罪だとしても、不幸・不運で片付けられてしまうのだ。
池田ヶ丘ではそこまで警察機能が腐敗していた。いや、はっきり言ってナメられていた。
田沢にしても『H事案』に関わるのは初めてではない。が、
出向命令が出たのは、『セルジオが消されたのはお前のせいだぞ』と言う杉本からの警告なのかもしれない。
セルジオのクリニックに到着した。車から降りるなり雨に濡れないようにフードを深く被り、大きな傘を広げた。
彼の遺体は、中庭のビニールハウスの中だった。
杉本の報告通り、セルジオは後ろから背中に一発。後頭部に一発。
セルジオの銃傷からして、9mmより大きい。
おそらくはM1911A1コルトガバメントのコピー品を用いたのだろう。
それらはフィリピンを中心に出回っている。
まごうことなき、『H事案』である。
田沢は目を伏せた。
「おせえじゃねえかよ」
後ろから杉本の声がした。
「……犯人は?」
「まだいるよ」
「え?」
『H事案』において、犯人は大概見て見ぬふりをされる。よって、犯人が確保されていることというのは珍しいのだ。
この街では……。
「お前に会いたいんだそうだ」
田沢は冷や水をかけられたような感覚を覚えた。
理由は二つある。一つは恐ろしく面倒なことになる予感がしたこと、
もう一つ、自分が関わった問題は、それくらい根の深い問題であることがわかったのだ。
「……じゃ、俺はいくから」
「どこにですか。僕に丸投げですか? それともまた上から『何もするな』って言われてるんですか?」
「両方だ。……俺はこう見えて忙しいんでね
……忠告しとくが田沢。勝手に動くなよ」
「自信ありませんね」
「いいから。……俺がなんとかするから……」
田沢はため息をついた。杉本が『なんとかする』と言って、なんとかなったことはないのだ。
「なんとかするなら、マリアをまともな生活に戻してくださいよ」
「…… ……あの子は諦めろ」
「はい?」
それからは、杉本は何も言わず去っていった。
『犯人』は、セルジオのオフィスに座っていた。
彼もまた、日本人とアジア系移民の中間の顔をしており、
セルジオの返り血を浴びたままにしていた。
田沢がオフィスに入ると、『犯人』は田沢の顔をまじまじと見た。
しかし、どこか目の焦点があってないような印象だった。
「……お前(田沢)がMr E か。」
「誰だお前は」
田沢は目の前の男をどこかで見たことがあった。しかし似たような顔を見すぎていて、誰もが同じように見えた。
「お前と一緒だよ」
男に言われて田沢がため息をつく。
「その冗談が笑えるのは、俺の同僚のサボタージュ警察くらいだ」
「冗談じゃないさ。同じ『駒』と言ってるんだ」
「……俺には冗談にしか聞こえないな」
「将棋を知っているか? 将棋には定石がある。
お前が動いた結果が、俺が動いた結果と言う意味だ」
「……『Mr E』って何だ。」
「早いとこなんとかしないといけない奴(Emergency)のことをそう呼ぶ。
今や俺もお前もMr Eだ」
男の顔は、どこか達観していた。人を殺した後の顔とは違う顔に田沢には見えた。
田沢は目の前の男のことをようやく思い出した。以前、マリアの家に上がり込んで、資料やら何やらを漁っていた男だった。
名前は確か……『エミリオおじさん』
「……警告をどうも」
「お前のせいでセルジオは死んだ。……お前のせいで俺も死ぬ。
どうせ死ぬなら死ぬ原因になる奴の顔を見ておきたかったんだ」
「どこに住んでようが人はいつか死ぬよ」
田沢が言い捨てると、エミリオは初めて笑みを浮かべた。
まるで田沢が自分の立場を全く理解していないのを心底呆れているような顔だった。
「それはどうかな。お前がいなければ死ぬのは二人だけでよかったはずだったのに」
「……誰と誰だ」
田沢が表情を険しくすると、エミリオは鏡のように田沢と同じ表情を作った。
「自分で見にいけ。お前の同僚のサボタージュ警官はセルジオにまだ何もしてないだろ」
田沢は、フードもかぶらずに雨にぬれてビニールハウスへ走っていった。
『死ぬのは二人だけ』の意味が、田沢は直感でローサ・デラクレスの事を指していると思った。
市境と同じように、セルジオの死体は適当に転がされていた。
セルジオの右手には……田沢が渡した、マリア、デラクルスの髪の毛が入ったビニール袋、そして、
一枚の紙が握られていた。
田沢は手袋をつけて、紙をセルジオの手から離し、開いてみる。
DNAの鑑定結果だと思っていたが、そうではなかった。
「……『妊娠届け?』」
田沢は『妊婦氏名欄』を見た。そこには『Rosa de la Cruz』と書いてある。
世帯主は空欄になっている。
気になったのは出産予定日が、未来の日付になっている事だ。
つまり、ローサ・デラクルスは刺殺された時、妊娠していたことになる。
田沢は、血まみれの妊娠届出書を持ってエミリオの元に走った。
そしてドアを開くなり……
「なぜこれをセルジオが!?」
エミリオは、生気の抜けた顔のまま田沢の足元を見ていた。
「答えろ! ローサはお腹の子の父親のDNAを鑑定しにここにきたんだろう!?
お前がセルジオを殺した理由は!?
ローサの夫は誰だ!!」
田沢に詰められてもエミリオは視線を床から外さなかった。
「ローサか…… 可哀想な子だよ。
家族がいるなら、ずっと一緒に暮らしたかったろうに。
例え愛がなくてもな……」
「なんのことだ……」
「……」
「おい答えろ!!」
するとエミリオはようやく顔を持ち上げ右手でピストルの形を作って、田沢に向けた。
「……いい犬飼ってるな。お巡りさん」
そして、
「バーン」
と、引き金を引いき、次は自分のこめかみに当てて、
「バーン」
エミリオは笑い出した。
そして、コルトを取り出して、自分の下顎に銃口を押し当てた。
「おい!!」
咄嗟に田沢は止めようとしたが、エミリオの方が早かった。
田沢にエミリオの血が降りかかる。
田沢は血まみれの体も気にせず車に走り、
家まで飛ばした。確実にスピード違反だ。
そんなことも考えられないくらい、頭は真っ白になっていた。
家に入る前から嫌な予感があった。
オートロックがかけられている柵が、破壊されている。
そして、窓が破られていた。
部屋に上がっても、
いつものように駆け寄ってくる姿がない。
「ジャスキィ? ……ジャスキィ?」
田沢はいつもの声で呼んでみた。物音がしない。
部屋の電気をつける。
『いい犬飼ってるな。お巡りさん』
田沢はエミリオが言っていた言葉を思い出した。
そして、嫌なことを想像した。
「マリア?………マリア!?」
叫んでも、応えは返ってこなかった。
……マリアは連れ去られたようだ。
この街を牛耳っている反社会勢力に……。
割られた窓の前に、ジャスキィは倒れていた。その小さな体は、田沢が見たこともないほど血に染まっていた。牙をむき出しにしたまま、誰かに向かって飛びかかろうとした姿勢のまま、冷たくなっていた。
まるで、『守ろうとしたもの』がそこにあったことを証明するように。
「……ジャスキィ……」
田沢の声が震えている。声を出すと、涙がこぼれそうだった。それをこらえようとして、歯を食いしばった。
代わりに、こぶしを固めた。そして、壁を殴りつけた。
「僕がサボタージュ警察? ……思い知らせてやる……!!」