『存在しない子』
「住民票も池田ヶ丘にはない。その子は『隣』から来たんだ。元々な」
マリアの生い立ちについて、杉本はそういった。
家に戻った田沢は、もう一度、『花岡市』で起きたとされるここ10年の資料を眺めていた。
田沢の足元で、犬が丸くなって寝ていた。
「……これか?」
田沢は、資料の一枚を拾い上げた。確かに、この家を出る前に一度見たものだ。
2018年6月30日:
◦発生:学校近くの歩道で、制服姿のフィリピン系少女が失踪。
◦罪名:行方不明事案。
◦対処:捜査後、「家庭の事情で転居」と発表。
◦備考:母親親は「■■■■■■■」と■■に訴えるも、捜査打ち切り。
資料には『制服姿のフィリピン系少女』と書いてある。年齢からして7年も前にマリアが何かしらの制服を着て、一人で隣町まで逃げてきた……とは考えづらい。
想像するにこれは、マリアの『姉』もしくは……『母』がマリアを連れて池田ヶ丘市の外国人居住区に逃げてきた、と考える方が自然だ。
それと……ここに書いてある『母親』と書いてあるということは、遺体はマリアの『姉』なのだろうか。
いずれにしても、この二人に関わりの深い親族が、『花岡市』に居ることになる。
花岡市……。過去10年で犯罪発生率が0件、住みたい街NO1のユートピア。
彼女はなぜ、花岡市から逃げてきたのか。
逃げてきただけならまだしも、逃げた先が、『あそこ』だったのだろうか……
田沢にはどうしても腑に落ちなかった。池田ヶ丘の『臭さ』は、よく理解している。肌に残って、こびりついて落ちない『臭さ』は。
まさに天国と地獄。10人いたら10人、住めるなら花岡市に住みたいと答えるはずである。
それがたとえ親子喧嘩による失踪だとしても、心を変えて花岡市に帰っていくのが普通である。
マリア達は、そうしなかった。花岡市を逃げて、こんな吹き溜まりのような場所に留まることを決めたのだ。それはなぜなんだろう……?
もう一つ、確かに池田ヶ丘の不法移民は、正式な『戸籍』並びに『住民票』を持たない。
だから皆、反社会性力の用意した偽装住民票を手に入れるのだ。
それはもちろん、仕事をするためでもあるが、子供なら学校に通わないといけない。
もし杉本の言っていることが本当で、マリアが偽装した戸籍すら持っていないということなら、
彼女は法律の上ではこの世に存在していないということになる。
市の境で放置され続ける遺体。存在しない少女。秘匿され、もみ消された失踪事件……。
ここ数日で見た全ての景色が、田沢にとって立ち並ぶ二つの街の『気持ち悪さ』の根底があるような気がした。
翌朝、田沢は車に乗り、外国人居住区を目指した。マリアの家だ。
相変わらず雨が降っている。
田沢は、後部座席に、長い艶やかな黒髪を見つけた。おそらくマリアのものだ。
田沢は手袋をしてそれをつまみあげ、ビニール袋に入れた。
マリアの家に着くと、建物からは水が流れ出ていた。
この町は水はけも悪いようで、そこら中小さな川と小さな滝ができている。
ひびだらけのコンクリート、腐ったマット、錆びた銅線。
全てが昭和から何も手をつけられておらず、取り残されたのではないかと思わせる景色だった。
マリアの家をノックするが、誰も出ない。
「池田ヶ丘署の田沢です!」
そう名乗ると、部屋の中からアジア系の外国人が出てきて、不審そうに田沢を睨んだ。
「……池田ヶ丘署の者です……」
田沢が警察手帳を見せると、男は扉を開けた。
マリアは窓際のテーブルに腰掛け、コーンフレークを食べていた。
「やあ」
「……」
田沢がエリーに話しかけても、エリーは動じずにコーンフレークを口に運んでいる。
「少し話をしないかい? 」
田沢はエリーの向かいの席に座る。
先ほどの男は、二人の後で、棚の中のものをひっくり返したり、何かを探しているようである。
まるで昨日の自分を見ているようだった。
「……あれが君のお父さん?」
「違うよ。エミリオおじさん」
どうやら知らない人間ではないようだ。
「……君のお父さんは? 仕事に行ってるのかな?」
窓の外では、雨の中、野良犬がカラスに紛れて骨に齧り付いている。
男達が忙しなく走り回っている。
「お父さんは、いないの」
ということは、マリアと逃げてきた『彼女』は、こちらに来ても誰の力も借りずに生きてきたということだろうか。
田沢は胸が苦しくなった。
「……7年前、君がこの街にきた時だけど……」
田沢のこの言葉をきっかけにしたかのように、途端に外が騒がしくなった。
数人の男が騒いでいる。思わず田沢は窓の外を見た。
雨の霧に紛れて……パトカーの音がする。
田沢が外に出ると、パトカーを住民が押しとどめて、進ませないようにしているようだ。
パトカーのボンネットには『花02』と書いてあった……
田沢がパトカーに駆け寄る。
「どういうことだ!? なんで花岡署がここに!?」
すると中にいる警察官が窓を開けて、冷たく答えた。
「お前達には関係ない。こいつらをどかせろ」
「ここは池田ヶ丘市だ。僕が関係ないわけがないだろう! 令状は? 見せてみろ」
「お前に見せる義務はない」
すると……
「まあまあまあまあ」
パトカーにもう一人、日本人が近づいてきた。杉本だった……。
「はるばるこんなとこまでご苦労さん。誰を検挙しにきたって?」
「……お前に話す義務はないと言っている」
「冷たいねえ。ところで……その子は『本当に存在している子なのかな?』」
杉本が言うと、花岡署警察は一瞬バツの悪そうな顔をした。
「『存在しない子』は検挙できないよね。それとも何かい? 人攫いでもするかい? 天下の花岡署さんが」
花岡署の警官は、窓を閉める前に、田沢に向けて言い放った。
「よその問題に首を突っ込む前に、足元を清潔にしておけ」
パトカーはわざと田沢と杉本の足に泥をかけて去っていった。
「……おい田沢」
無機質に喋る杉本は、田沢を見ていなかった。パトカーの方をずっと見ていた。
「なんですか。手をひけと言ってもひきませんよ」
「……馬鹿野郎。逆だ」
「逆?」
「マリアはしばらくお前が匿え」
「え……」
「嫌とは言わせんぞ。それともその程度の覚悟でここまできたわけじゃねえよなあ?」
「杉本さん……マリアって子はなんなんですか? と言うよりか、この事件は一体なんなんですか?」
「それ以上何も聞くな。…… ……田沢。お前はまだ若い。
大人しく業務に徹してれば俺が都内に帰してやるから」
「見損なわないでください!! 僕は本当のことが知りたいんです!!」
すると、杉本は初めて田沢を見た。
怒りと寂しさが混ざった、悲しい顔だった。
「この街に骨を埋めるには、お前は若すぎる」
それから、杉本はまた黙り込んでしまった。雨脚は、また強くなっていった。