池田ヶ丘市、三ノ宮
雨音に反して車内は重たい沈黙が支配している。花岡署の車はうまくまいたところだ。
「ここで止めてくれ。夜分ご苦労さん」
杉本が車の停車を命じたのは、池田ヶ丘市のなんでもない路上であった。
その先には池田ヶ丘市三ノ宮と言う、外国人居住区が密集しているエリアが広がっている。
後部座席の少女、マリアの棲家もそこなのではないかと、ある程度田沢は想像していたが、
居住区に入る前に車を停車させられた。
「……家まで行きますよ。この辺りは治安も良くない」
杉本は、少し間を置いて、運転中の田沢の顔を覗き込んだ。
「ついてくるな…… ……って言ってるんだよ。汲み取れ」
「なんでですか?」
田沢が食い下がると、杉本は舌打ちをして面倒臭そうに助手席のシートにもたれた。
外国人居住区に入った瞬間に、田沢は違和感を覚えた。
この辺りで、夜中に人が多いのは珍しいことではないが、誰もが殺気だっていた。
なんというか……パトカーで来ていたら暴動が起きていそうな空気感に感じたのだ。
ここには、フィリピンからの違法移民が5割、韓国から3割、残りの2割に日本人が暮らしている。
同じ日本とは思えない独特な空気感で、この区域のみで異国の文化で生活が賄われていても不思議ではなかった。
昭和後期に、ニュータウン開発という名目でこの辺りにもマンションがたくさん建てられたが、
高度成長期と呼ばれた昭和の中期から後期には反社会性力がこの辺りの土地を仕切っていたために、
反社会勢力と繋がりの強い工場経営者がフィリピンから安い賃金で雇える労働者を大量に移民させた。
その名残が今も根強く残っている区域だ。
マリアが住んでいたのは、築50年以上のマンションの一室で、最上階でも無いのに部屋には天井から雨が漏っており、
家中水浸しだった。
床に敷かれたカーペットからはカビの匂いが漂っていた。
床を猫ほどの大きさのネズミが這っていった。
インフラも……機能しているのか怪しかった。とりあえず雨でショートしているからなのか、
電気がいきていないようなので、田沢は懐中電灯をつけて室内に入っていった。おおよそ、裸足で上がるのも憚られる環境だった。
杉本は革靴のまま家に上がり込んだので田沢は驚いたが、マリアも靴を脱がずに、家に上がっていった。
マリアは、キッチンの戸棚からマッチの箱を取り出して、ガスランプに火を灯した。
……
田沢の方は、懐中電灯で部屋をあちこち物色したが、探しているものが出てこない。
おそらくタガログ語であれこれ書いてある本や、メモや、何かの契約書は見つかったのだが、『肝心なもの』が無いのだ。
「おい」
田沢の背中に杉本が声をぶつけた。
「令状が出てない家を勝手に漁ってるお前は、犯罪者だぞ」
「仕方ないでしょう。家主は亡くなってるんだから」
「お前が探してるものなら、『ねえ』よ」
「……はい?」
「その子の保険証とかマイナンバーとか、そう言ったものを探してるんだろ?どうせ」
マリアは、キッチンからビスケットを取り出して皿に盛った。田沢たちをもてなそうとしているのだろうか。
「……『お姉さん』が持ってると?」
「ちげえよ。そもそも、無いんだよ」
田沢は、さっきから杉本が何を言ってるのかが解らなかった。
「住民票も池田ヶ丘にはない。その子は『隣』から来たんだ。元々な」
「なんで知ってるんですか?」
「自分で調べろよ。知らないのはお前だけだぜ」
杉本は、マリアが差し出したビスケットを一枚受け取って。
「ありがとな。なんかあったら、おじちゃんに電話するんだぞ。いいな。約束できるな」
と、マリアの頭を撫でた。そして田沢の尻を膝で蹴り、
「帰るぞ」
と促した。
雨漏りのしているマンションの外に出ると、この辺りの住民数名が、
田沢の車を取り囲んでいたが、
杉本の顔を見ると安心したのか、あたりに散らばっていった。
帰りの車で、坂の下には花岡市が見えた。駅を中心に宝石のような、華やかな夜景が広がっていた。