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セプテンバー・コール・アップ  作者: ヒポポクロス
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22 エルヴィス・ホールトン

 町の外れにある教会の中で、エルヴィス・ホールトンは香炉を磨いていた。


 エルヴィスはプロテスタントである。

 だから、正教会やカトリックが用いるようなが香炉を使うことはないが、エルヴィス自身は薫り高い煙の持つ神聖さを信じていたので、使うことにしている。


──神が寛大であるのなら、このくらいの揺らぎは赦されるはずだ


 エルヴィス自身は熱心な信奉者ではあるが、細かく規律を守ることよりも、自由であることのほうが重要だと思っている。

 その信念を持ったのは彼自身の経験によるものだが、その信念というものすらも、どこか空虚に感じていた。


 香炉の蓋をみがき終わったエルヴィスは、自らの着ていた黒いスーツの襟元をまっすぐになるように直すと、入り口の扉の鍵を開けた。


「やあ、エルヴィスさん」


 近くに住む人が朝の挨拶をしてくれた。

 信念のない、たしかな善意によって織りなされるこの言葉が、エルヴィスは好きだ。


「どうも。今から空きますから、自由にお使いください」


 善意を投げかければ、善意が返ってくるはずだと、エルヴィスは信じている。


──・──・──・──


 チェッカーズ時代のエルヴィスは、ものを言わない性格をしていた。


 しかし、それはいけ好かないという感じではない。


 チェッカーズの中で頭が切れる人間といえば、マット・テイラー、ロールス・エイブラムス、ハリー・ボルドウィンあたりの名前が挙がることが常だった。

 エルヴィスもその3人と同じように評価されることが多いが、タイプが違う。


 マットは肝が据わっていて明るいし、ロールスは激しい気性を持っている。

 ハリーは、博識というよりも賢い。


 その中で、エルヴィスは静かな印象を人々に与えていた。


 それは、普段の態度からでもわかる。

 常に何らかの本を読んでいるし、瓶底メガネをかけている。


 街で偶然出会ったとして、野球選手だとわかる人はいないかもしれない。そういう風貌を持っている。


 何かをしているとき、誰かに話しかけられたとしよう。

 多くの人は少し不機嫌さを感じながら

「なに?」

とこたえるかもしれないが、エルヴィスはそんな不機嫌さを微塵も出さずに

「どうしたんだ?」

と、目線を向けながら柔らかい口調でこたえる。そういう人間だ。


 そのことは、野球をやめ、牧師となった今でも変わらない。

 子供たちの相手をするのにも、引きずられもせず、引きずりもせず、ただにっこりと笑って座っていられるのが、エルヴィス・ホールトンの美点である。


 そして、彼は戦争があってから、戦死者の鎮魂を忘れたことはない。


 戦争が終わった1936年10月6日。それから毎年、慰霊碑のある地に行って、十字を切っている。

 それは自分のためでもあるということを、どこか冷静なエルヴィスは感じている。


──・──・──・──


 エルヴィスは、薄暗い教会の中で十字架をなでていた。

──この想いは、彼らに届くことはあるんだろうか

 そういったことを、考えている。


 マットも、ロールスも、ハリーも、みんな、戦場で散っていった。

 知っている顔が、全員死んだわけじゃない。それでも

──ひとりになってしまったな

という思いは、エルヴィスが抱えている寂しさの一端である。


 エルヴィスは、死後の世界を信じている。

 きっと、安らかに暮らせる楽園があると想っている。


 それでも、彼らはその楽園に行けているのか、と問われると、本当にそんな場所があるのだろうか、と思うことのほうが多い。


 それでもなお、そんな場所があるのだと信じ続けている。

 それは彼らが、せめて今は幸せであってほしいと願う心からに過ぎない。


 遠くから、声が聞こえてくる。

「牧師さん、牧師さん」

 それは、自分を求めている声だった。


 ふと重たい感情がのしかかって、夢うつつとしたエルヴィスが、その声の主が自分の横にいることを気づくのは

「どうしたんです?ぼうっとして」

と言われるまで、相当にかかった。


「ああ、どうしましたか?」

 現実に引き戻されたエルヴィスは、声の方向に向かって微笑みを向ける。


「よかった、実は、外で子供がけんかをしていましてね」

「それは大変だ。すぐに行きましょう」


 エルヴィスは教会を出て、その人の案内のもと、その場所に向かっていった。

 椅子の上に、十字架のネックレスを忘れて。


──・──・──・──


 この時代に人々が忘れていったものは何だろう、とエルヴィスは考えていることがある。


 人々は口々に

「道徳を忘れてしまった」

と言う。

 そして同時に、

「それを取り戻したのだ」

とも言っている。


 だが、エルヴィスはそういう人々とは違ったことを思っている。

──記憶を、忘れていったんだ

 それが、エルヴィスの持っている答えだった。


 何か争いを起こすとき、道義心が無いからこそ、争うという。

 でも、そうではないとエルヴィスは思う。


 むしろ、道義心こそが、争いを起こすのだと思っている。

 何か正しいことがある。そして、それに反することがある。


 人は、それが許せない。だから不満を抱き、時に怒る。

 怒ると、自分を操れなくなる。そして、相手を責める。


 これが連鎖することが争いなのだと、エルヴィスは思っている。


 道義だとか、道徳だとか、そういうとあたかも温かい響きに聞こえたりする。

 だが本当は、真っ赤な怒りに彩られているものだ。


 そう考えるに至ったエルヴィスは、疲れ切っていた。


 チームメイトが死に、監督も死に、知っている顔が少なくなったスタジアムで野球をする。

 そんなことを数年間やっていた時のことである。


 自分が好きだった野球への情熱が、その数年のうちにどんどんと少なくなった。

 そしてしまいには

──もう、野球はこりごりだ

と、思うようになった。


 それは、エルヴィス自身が野球を愛せなくなった、ということではなかった。

 ただ

──あの頃を思い出すのが辛い

という心が、野球というものに乗りうつってしまったのである。


 エルヴィスは野球をやめて、聖書を勉強し始めた。

 前にも娯楽の一環として読んだことはあった。

 だが、こんどは娯楽としてではなく、一種の哲学書として読んだ。


 エルヴィスは世の中に対する疑念に疲れた自分を、癒したかったのかもしれない。


 文言をつまんで自分のものにしていこうとした。

 そして、その言葉を使って自分の弱った心を補っていった。


 そうしていく内に、エルヴィスは

──これで学んだことを、人のために使えないだろうか

と考えた。


 エルヴィスは戦争で得た経験を経て、怒りではなく、やさしさで人を導いていきたいと思った。


──それができるのは、小さなコミュニティだけだ

 そういうことを、エルヴィスは知っている。


──やさしくありたいのなら、大それたことはしてはいけない。

 そう思ったエルヴィスは、牧師を志して、いちばん近くの神学部がある大学へと通った。


 エルヴィスは4年間の課程を修了し、空き家となっている一軒家を買った。

 内部を改装し、十字架のモニュメントを屋根に立てて、そこを教会とした。


 しばらくは、閑散としていた。寄付も集まらず、こまごまとした内職と、選手時代の貯金とでなんとか生活を成り立たせた。


 質素に暮らしたが、困窮はしていない。

 むしろ足りないくらいが丁度良い、というのは、宗教者としての性格と、もともとそういった生活を苦にしないエルヴィスの性格によるものだった。


 最初に門戸をたたいたのはひとりの主婦だった。

 戦争で、夫を亡くしたらしい。


 エルヴィスは、こころよく来訪者を受け入れた。

 親身になって話し相手になると、その主婦は喜んでくれた。


「疲れたら、ここに来てください。話し相手になります」

 エルヴィスは、神のお導きを、とは敢えて言わなかった。


 銃弾によって倒れた人々の身内は、そう言ってしまうと神を恨んでしまうと思ったからだ。

 そういう心は、エルヴィスもよくわかっている。


 そういった意味で、エルヴィスは謙虚だった。

 神を過大にあらわさなかった。

 そしてそのことは、近隣の人にむしろ教会への信頼というものを強めさせた。


 エルヴィスは人々と会話をするとき、端々に少しだけ聖書の言葉を使った。

 それが良いアクセントになっていたらしい。


 そういったこともあって、堰を切ったように人々がエルヴィスの教会を頼りにするようになった。

 時には小間使いのように使われたこともあったが、エルヴィスは、むしろ人との気を遣わない繋がりができているような気がして、嬉しかった。


──・──・──・──


 エルヴィスは今日もまた、教会で祈りをささげている。

 今日は19日。ロールスの月命日だ。


──私は、いつまで生きるんだろうな。

 ふと、そんなことを思う。


 エルヴィスも60歳に近づいて、昔を懐かしむことは増えた。

 そんな時に思い出すのは、厄介さがありながらも、にぎやかなチェッカーズのロッカールームだ。


 人々に頼られる立場である以上、思い出にふけってしまうのもいけない。

 それでも、ひとりになる時間があるとつい、そうなる。


──この前のように、ならないようにしなければ

 エルヴィスは、声を掛けられていたことに気が付かなかった時のことを思い出した。


──あの人に悪いことをしてしまった

 という思いがある。

 いくらなんでも、自己中心的過ぎた。その行動を自戒せずにはいられない。


 昼と夕方のちょうど間。午後3時ごろに子供たちが入ってきた。


「エルヴィスさん、お話を聞かせてください」

 これは、いつものことである。

 暇を持て余した子供たちが、エルヴィスに寓話の類を話してくれるようにと、せがむのだ。


「良いだろう。そこに座りなさい」

 エルヴィスは自分の横に、子供たちを座らせると、柔らかい口調で話を始めた。


 子供たちは、純粋な目をエルヴィスにむけている。

 何もかもを吸い込んでしまいそうな目だった。


 ひとつ、話を終えたエルヴィスに、子供たちのうちのひとりが、

「エルヴィスさん、あの…」

と、目を輝かせながら話しかけてきた。


 エルヴィスは心からの笑顔を浮かべながら

「どうした?なんでも言ってごらんなさい」

と応えた。


「戦争の時のこと、聞かせてもらえませんか?」


 エルヴィスは、自分の心が凍ったのが分かった。


──・──・──・──


 人に進んで話したい事か否かといえば、話したくはない。

 苦悶しているからなのか、臆病だからなのか。


 エルヴィスはその子供に、

「少し、時間をくれないかな」

と言ったが、それは深く思考するためではなく、自分を慰めるためである。


 エルヴィスは戦時において、通信兵をしていた。

 人が目の前で死ぬということはなかったが、それでも毎日、

「○○地区で○○が死亡」

という通信が来ることに、大きな苦しみがあった。


 耳を塞ぎたいとも思ったが、それをすると、今度は誰が苦しむだろう?

──彼らの家族が苦しむ

 だから、エルヴィスは受け入れた。


 彼らが死んでしまうということも、苦しみである。

 だが、彼らが死んだと知らないことのほうが、もっと苦しい。


 エルヴィスは、遺族たちが感情の行き場をなくして、彷徨さまようことをいちばんに恐れた。


──そうなってはいけない

 エルヴィスは、自分が真実を伝えることを拒んではいけないと、その役割を全うしていた。


 ところがある日の通信。

「○○地区でロールス・エイブラムスが死亡」

という通報が電報で入った。


──ロールス・エイブラムス…?

 知っている名前だったが、もしかしたら、同名の別人かもしれない。

 こわばった手で、

「背格好は」

 と、電報を送ると

「5.84フィート、136.7ポンド、白人、茶髪、ブラウンの目、鼻短し」

と、返ってきた。


 136.7ポンドは記憶にあるロールスの体重より軽いが、他はすべて、自分が覚えている姿に当てはまった。

──そんな

 あの強情なロールスが死んでしまったことが信じられない。


 ショックを受けながら、エルヴィスは電報を本土へと送った。


──・──・──・──


「エルヴィスさん、ごめんなさい」

 先日、戦争について聞いてきた子供が、そう言って謝ってきた。


「なんで、謝るの?」

 エルヴィスがそう聞くと、

「お母さんに、エルヴィスさんに戦争のことを聞く、って言ったら怒られた」

と、その子供は答えた。


 その子供の母親のやさしさが、エルヴィスにはわかる。

 人には、触れられたくないことがひとつやふたつ、あるものだ。

 そのことを、この母親は知ってくれている。


 それでも、エルヴィスは

「謝ることなんてない。私は君たちのその心を、さえぎることはできない」

と言って、その子の頭を撫でた。


 その子を含めて5人の子供が、教会の中に入ってきていた。

 エルヴィスは、その子供たちを最前列の長椅子に座らせると、自らは一人掛けの椅子をその前に持ってきて置き、ゆっくりと腰を掛けた。


「エルヴィスさん。今日はどんなお話をしてくれるの」

「戦争の時のお話をしようかな」

「えっ、良いの?」

「自分を責めてはいけないよ。私と君との、約束なんだから。約束を破ることはできない」

「ありがとう。エルヴィスさん」

「こちらこそ。私も忘れ物を取り戻せそうな、そんな気がするんだ」

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