2 ロラン・バークライ
野球でキャッチャーが務める役割は、「ピッチングの壁」だけではない。
ピッチャーには意外と我の強いやつが多い。だから、キャッチャーはそういうやつらを支えられる人間のほうが、適任だ。
ロラン・バークライはそういう行為が上手かった。
どんなにピッチャーが激高しようとも、どんなにピッチャーが項垂れようとも、それをなだめることが随分と上手かった。
例えば、戦前のチェッカーズの中で、ジャスティン・ラッセルというピッチャーは、感覚に鋭いものがあるせいか、極端に憶病だった。リスの足音がすると、足がすくむようなやつだった。
そういうやつは、チームに迷惑をかけていると思うと、とたんに背を縮こまらせて謝ってくる。
普通だったら、
「そんな臆病者は放っておけ」
とか、
「言いたいことを言ってみろ、この知恵遅れ!」
とかいうのが普通なのかもしれない。
しかし、ロランはそうは言わなかった。
「ジャスティン、俺に任せろ」
とだけ言う。
例えば、上手くいかないでヤケになっている奴がいたとする。
そういうやつには
「うるせえんだよ!」
と言わずに
「お前のことを知りたい」
と言う。
そういう優しさを持っていたロランは、しかしその社会性が仇になった。
「ロラン。あなたってば、家族のことは何も考えてくれないじゃない!」
というリリーの声は、いまもことあるごとに、ロランの頭の中に反響を続けている。
そのきっかけは、ひとつのことにしぼれない。
ただ、ロランは確かに、家族よりも周りの他人に優しさをふりまいた。
周りの人に苦しむ人がいたら手を伸ばそうとしたが、それは逆に、家族へ伸ばす手を減らしてしまった。
その不満がリリーの中に溜まっていき、そしてついに、ロランの35歳の誕生日に、ラルフと一緒に家から出ていかれてしまった。
テーブルの上には冷えた丸鳥のオーブン焼きが置かれたままになった。
焦げるほどに焼かれたのに、冷めるのは一瞬。それを象徴しているのだ。
ロランは、そう思っている。
それから2週間に1度、ロランはリリーとラルフに会っている。
ロランは自分の息子に会えるのが楽しみで仕方がなかった、というわけではない。
むしろ、家から出て行ってしまったのは、ラルフが自分のことを嫌っていたからだ、と思うことがあったからである。
彼にはひとかたならぬ愛情を与えていた。自分の話せることは、ほとんど話したつもりだ。
それでも、家族をつなぎ留めることはできなかった。
考えれば考えるほど、自分のもとから家族が離れた理由がわからなかった。
自分は愛する、ということを教えてきたつもりだった。
──リリーも、ラルフも、自分を認めてくれていたじゃないか
だからこそ、急な脱出劇にロランはしどろもどろとしていた。
シーズン中、その疑問が頭の中にかけめぐって、不振に陥った。
控えの捕手だったデイブ・リンデンにスターティングオーダーの座を奪われることもあった。
BAは.200に届かず、完全に、打線のストッパーになってしまった。
ロランは悶えるような感覚に打ち震えた。
家族が離れていった。
そして、家のことをチームに持ち込んで、迷惑をかけてしまった。
医者に掛かって治してもらうことではないだろう。
かといって、教会の懺悔室で手を組んでみても、変わることはないかもしれない。
1927年のストーブリーグ期間。
ロランは気が気でなかった。
──・──・──・──
1928年の3月、戦争が始まった。
ロランの周りの人間は、兵として連れていかれることは、最初のうちはなかった。
しかし、戦争が始まってから少し経って、まず身体的に優れた人から優先的に徴兵されることになった。
ロラン・バークライも、そういったリストに乗った人間の一人だった。
ロランは最初、戦争というものに身を投じることは考えたこともない。
しかし、これに参加しなければ、この国に危険が訪れる──
そう思うと、ロランは積極的に参加する意思を示した。
周りの人間にも、
「俺は行く。この国を守るんだ」
と勇壮な言葉を言って家を後にしたが、その内心は、とうぜん恐怖もあった。
兵士としてある程度の基礎を叩き込まれ、肩にライフルと軍需物資を背負ったロランは、そのまま西方へと送り込まれた。
敵国との戦闘が絶え間なく起こる前線というより、そこから少し後方の抑えとして、ロランは働いた。
塹壕を掘り、拠点となりそうな地を確保し、時には遭遇した敵の兵士と戦う。
ロランは、その行動に才能を発揮した。
もともと足腰が強かったロランは、土木の作業に向いていたし、目がよくて、安全そうな場所はすぐに見当がついた。
そしてなにより、射撃の腕が抜群だった。
頭を狙えば頭に当たる、そういう技を、ロランは使えた。
部隊内で、ロラン・バークライへの評価は
「元キャッチャー」
ではなく、
「スナイパー」
へと変わり、ロランもその声にこたえるように、襲ってきた敵の兵士を撃ち抜いた。
ロランは西方の戦線で、50人以上を撃った。
スコープのない銃で、弾を外すことなく命中させて見せた。
そのことは上官もよく知っていて、ロランに褒賞をよく与えていた。
時には妬まれそうにもなったが、彼の戦績が、そういった声を黙らせた。
しかし、ロランはこれを嬉しがらなかった。
家族のことが脳裏をよぎったからだ。
いくらスナイパーとして戦地で活躍しても、リリーとラルフの耳には届かないだろう。
それなら、彼らの近くで、キャッチャーとして活躍できたほうが良いじゃないか。
ロランはふと、そんなことを思った。
それでも、この軍事的に有能な人材を、軍隊は手放してはくれない。
ロランは、今度は南へと飛ばされた。
そこは、西の敵国と手を組んだ東方の国が、軍を駐屯させていると噂された土地だった。
国のためなら、己の身を砕く覚悟はできていた。
蒸し暑い気候と、歩きにくい地形とが混じって、ロランは消耗した。
それに長くいると、腹を下したり、高熱を出したりする。
戦闘はほとんどなかったが、それでも、へとへとになるような魔力が、この土地にはあった。
そんな状態に陥っても、敵と遭遇した時のロランは強かった。
向かってくる敵をなにも言わずに撃ってしまうだけの、洗練されたスナイパーとしての感覚が彼には芽生えていた。
結局、この土地に滞在している5か月の間に、ロランは18人を撃った。
戦闘自体は少なかったが、それでもいち兵士の挙げる戦果としては十分すぎるものだった。
「ロラン。お前の活躍は目覚ましい」
と、上官に褒められた。
だが、ロランにとってはさほど嬉しくない。いま心の中にあるのは
──ラルフ、リリー。無事でいてくれているか。早く会いたい
という帰郷の心だけだった。
それからまた1か月。
ロランのいる部隊に帰還命令が出された。
ロランにとって、これほど嬉しい話はない。彼は誰よりも早く、地面に置いていた物資をザックに詰め込み、すぐに行動できる準備を整えた。
ただ、すぐに帰りたくても、この土地の複雑で、うだるような暑さが邪魔をした。
木々が密集していて航空機が使えず、車両を使うにも湿地が多すぎる。だから、歩いていくしかなかった。
日に10km進めれば、相当進めたといっても良い。そんな日が続いて、6日目に、やっと輸送車両が使える目途の立つ場所が、近くにあることを知った。
──もうすぐだ
ロランはそう思った。心が少しだけ緩んだ時、草のこすれる音がした。
大きな発砲音。ロランの後ろにいる兵が、倒れた。
「敵だ!」
ロランのいる部隊20人ばかりは、すぐに戦闘態勢をとったが、敵の姿が見えない。
それでも、ロランの部隊は1人、また1人と倒れていく。
どこから敵の銃弾が来ているのかもわからないまま、ロランは機関銃の音を聞いた。
ロランは、胸と肩を撃ち抜かれて死んだ。
──・──・──・──
リリーは新しく契約したアパートメントの一室で、荷解きをしていた。
狭い部屋の中で2人分の荷物を解くと、すぐに床がいっぱいになってしまう。
そんな新しい生活の始まりは、リリーにとって、安堵も、不安もあった。
リリーとロランはミドルスクールの時から知りあっていた。
その時に歴史の話をして、お互いにそれを楽しいと感じていた。
リリーは大学に入ったが、ロランはハイスクールを卒業してから、すぐにプロの野球選手になったことは、リリーも知っていた。
数年がたって、大学を卒業する間近になり、リリーはミドルスクール時代の同級生の集まりに参加してみると、そこにはハイスクール時代から比べて大きくなったロランが立っていた。
リリーは懐かしさを感じて、ロランに話しかけてみると、ちっとも変っていない。
その時、リリーはロランを
──素敵だ
と思っていたのに気が付き、ロランからのアプローチもあって、付き合い始めた。
そして結婚をして、子供に恵まれて、
──これからも幸せが続きますように
と強く願った。
リリーは子供のラルフに広い世界を見せたいと思っていた。
そのためには、自分の国だけを見ていても始まらない。
もともと大学で文化人類学を学んでいたリリーは、そう思っている。
しかし、その一方でロランは愛国者だった。この国が一番だと言ってはばからなかった。
リリーは、そんなロランが疎ましい部分があった。
だから、ロランの持っている保守的な思考を嫌っている部分もあった。
──それでも、子供に押し付けないのなら
そう思っていた。
ところが、ラルフが4歳になったころ、ロランはラルフに
「この国がどれだけ素晴らしいか知っているか」
と、話しかけているのを見た。
リリーは内心動揺したが、それでも、周りの人に感謝できることを教えているのだと、その口から
──変なことを吹き込まないで
と言いそうになったのを飲み込んだ。
それから後、バークライ一家は平穏な時間を過ごしていたが、ラルフの自己がハッキリとしてきた6歳の秋、シーズン終わりに
「ラルフ、こんなのを買ってきたぞ」
と、両腕にたくさんの本を抱えて帰ってきた。
その正体が、リリーにはわからなかったが、少し経ってから表紙のタイトルを見てみると
「この国の自叙伝」
「この国の人が持つ、仁徳と勇気」
などといった文言があるのを見て、リリーは心の奥が冷たくなるのを感じた。
──この人に子供を預けていちゃいけない
そう思った。
それ以降、リリーはなるべく、ロランの近くにラルフを置かないように抱き寄せた。
ロランの持っている”魔の手”から、ラルフを守ろうとした。
それでも、家族である以上、近くにいることは避けられない。
そのうち、リリーは疲弊した。
そして、ロランが35歳を迎えるころ、ついに
──この人と一緒にいられない
と考えて、ラルフと共に家を出ていくことを決意した。
リリーはロランにその態度を改めてほしいと思った。
だから、ロランの35歳の誕生日に、家を出ていくことにした。
冷めたチキンだけを残して。
リリーはそのあと、ラルフが大きくなるまでロランとは会わないつもりだったが、ラルフが許してはくれなかった。
リリーはラルフが悲しそうにしているのが耐えられず、お互いの家族と話し合って、2週間に1度、ロランと会わせることにした。
リリーが連れ添って会うたびに、必ずロランは以前に買ってきていた本を、ラルフに読ませていた。
本当はやめてほしい。でも、ラルフはとても楽しそうにしている。
そのことが、リリーには複雑な感情を呼び起こした。
3人が、お互いのことを想っていたのは嘘ではない。
現に、リリーはロランのことを嫌いになった、という訳ではなかった。
それでも、リリーの中には憎しみに似た感情があった。
ある日、ラルフが
「ママ、聞いて!」
と、チェッカーズの試合を中継しているラジオを聞かせに来たことがある。
その試合では、ロランが活躍した。
何度も、英雄のように発せられるロラン・バークライという名前に、リリーの体が思わず反応した。
ラジオをラルフの手から奪うと、そのスイッチを切ってしまったのである。
ラルフはショックを受けた顔をして
「なんで?」
とだけ聞いてきた。
リリーも、自分がなぜ、そんなことをしたのかわからず
「ごめんなさい、私は…」
と、口籠るしかできなかった。
そのまま、世情は戦争に突入した。
リリーは恐怖した。自分たちが戦渦に巻き込まれて、銃弾を浴びることになるのではないか、と。
しかしその心配に反して、自分たちの住む地域は、毎日のように戦況のニュースが流れる以外は、何も変化がなかった。
いや、それ以外にも変化はあった。
愛国者たちが、戦争の勝利を願ったパレードをし始めたのである。
リリーにとっては、これがうるさくて仕方がなかった。
ただその文言を聞くぐらいであれば、多少うっとうしく感じるくらいしか反応はしなかっただろう。
しかし、リリーの夫であるロランが愛国者であったから、自分のプライベートな苦しみにずけずけと触られているような感覚があって、それが不快でたまらなかった。
──どうしてこんなことをやるのかしら
リリーはむしろ、こんな国なんて戦争に負けてしまえば良い、とさえ思った。
──・──・──・──
戦争が始まってから少し経って、リリーはロランからこう言われた。
──俺は軍の一員として、戦地に行こうと思う
リリーは少なからず、ショックを受けた。
「ラルフはどうなるの」
最初に出てきた言葉はそれだった。その言葉に、ロランはどんよりとした顔をしながら
──それでも、国のためにはいかなきゃならない
といった。
──けっきょく、私たちのことは考えてはくれないのね
リリーは冷たい視線を向けたが、ロランはラルフのほうを見ていて、その目線に気が付いていないようだった。
そして、ロランは出征した。リリーはその一報を、ラジオの音声で聞いていた。
行ってくれてせいせいする。そう思いたかったが、どうにも、何かがつっかえて、そう思うことができなかった。
──3年は長い
そう思った。ロランが出征してからの年数である。
リリーはその間、ラルフを懸命に育てた。
女手ひとつで育てようとするのはかなり大変かと思ったが、彼女の父母も、それにロランの父母も
──迷惑をかけた
といって、ロランに内緒でこっそりと助けてくれた。それに、もう縁のないはずの、ロランの元チームメイトの夫人会も。
リリーはそういった人の温かさに触れながら、ラルフを育てた。
ラルフは、もう12歳になろうとしている。
戦地からは度々、ロラン・バークライを称える文章が届いていた。
その文章によると、部隊の作戦の成功に多大な貢献をしているらしい。
リリーにとっては、
──そんなこと、どうだっていい
というのが、正直な感想だった。
ただ無事で、ラルフともう一度会ってほしい。そんなことを、この3年で思うようになっていた。
そんなことを思いながら過ごしていた、1933年の春。
「ロラン・バークライの冥福を祈ります」
という文章が書かれた手紙が届いた。
──ロランが死んだ
そのことが、リリーには信じられなかった。
──ラルフはどうなるのよ?
と思うと同時に
──私はどうなるのよ!
と、自分をかわいがるような心があった。
リリーは
──そんなことじゃいけない
と思っていたが、それでも、湧き上がってくる言葉に嘘はないようだった。
──もしかしたら、うそをつき続けてきたのは私だったの?
リリーはそう思った。