17 デイブ・リンデン
ガッツがある。
そのことは、デイブ・リンデンにとって誇るべきアイデンティティだった。
アイデンティティが倒れることがない、というのは人々が共通して持っている認識で、だから、そのことに自信をもって生きてきた。
それが、あっけなく倒れてしまったのはいつからだっただろう。
デイブ・リンデンはときどき、牛舎でそんなことを思う。
──・──・──・──
1920年代。クロークハッチ・チェッカーズのキャッチャーは2人が牽引していた。
多くの試合でスターティング・ラインアップに名を連ねていたのがロラン・バークライ。そして、その控えか、あるいは癖のあるピッチャーに充てられていたのがデイブ・リンデンだった。
デイブはとにかく負けん気が強かった。
例えば、1924年の6月23日。
デイブはデッドボールを受けてベンチに下がったロランに代わって、5イニング目からボールを受けた。
2アウト2.3塁。スコアは4‐3。
打席に立ったのは8番バッターで、ヒットは期待できない。その代わり、意表を突いてくるかもしれない。
その緊張感が走った中、3球目。フェアゾーンに飛んだ。
サードの真正面に飛んだ。素早い処理。ホームに送球される。デイブは捕球し、タックルに備えた。
三塁から向かってくるランナーに向く。
ランナーが、ホームベースではなくデイブのほうへと走ってきた。
──故意だ
そう思ったときには、すでに体は宙に浮いていた。
次の瞬間、デイブはかんかんに怒った。
アウトになったのかどうかは問題じゃない。故意にタックルしてきたのが許せなかった。
「ふざけんなこの下衆野郎!」
大きな声がスタジアムの中に響いた。
突っ込んできたランナーとデイブは胸ぐらを掴みあい、デイブなんかは相手の頬にエルボーを一発、食らわせた。
両チームのチームメイトたちも、触発された選手と、けんかを止めようとした選手とでもみくちゃになった。
試合は中断。
デイブ・リンデンと相手の三塁ランナーは、退場。それに加えて2週間の出場停止処分になった。
「デイブ。感情を抑えられなかったのか」
監督のゲイリー・マクドナルドが、言葉に怒気をふくませながら、それでも優しい口調でデイブにきいた。
「俺は許せなかったんです。わざとケガさせに来るような奴が、のさばっていて良いんですか!」
デイブは怒鳴った。
「デイブ!」
ゲイリーはそれを抑え込むように、怒鳴り返した。
「もっとチームのことを考えて行動しろ。殴り返すのに必要な一瞬と、誰かに必要とされる2週間。どっちがお前にとって大事なんだ。よく考えておけ」
デイブはうなだれた。
結局、それからの2週間は、デイブにとってもっとも憂鬱な野球をしていた。
練習をしていても、体が浮ついて、うまく動かすことができなかった。
──いま、チームに俺がいたのなら
チェッカーズは、デイブが抜けてから連敗した。
自分が抜けたせいなのかもしれない。チームは自分ひとりで成り立っているわけではないが、それでも、そう考えずにはいられない。
1924年の7月は、いつもより暑かった。
──・──・──・──
それからは、心を熱しすぎないように生きた。
ただ、自分に備わったガッツは失っていない。
キャッチャーは接触が多い。そのせいで怪我も多かった。
幾度となく骨折に見舞われたりもしたが、そんなものは彼にとって関係ない。
とにかく、デイブはチームメイトとして試合に出続けた。
これが、彼にとってのアイデンティティーの発露だった。
そのおかげで、3年以上にわたってデイブは、チームの上層部が思っていた以上の成績を出した。
たくさんの衝撃に負けることなく、むしろ、それを弾き返すように体を張り続けた。
デイブは自分を誇れるようになった。
このまま、チェッカーズの一員として一生を過ごしたい。
叱ってくれたゲイリー・マクドナルドの顔を思い浮かべながら、そんなことを夢想した。
ところがある日から、チェッカーズの名簿にデイブの名前は記されなくなった。
1928年4月20日。
この日は戦争が始まってから丁度ひと月がたったころだった。
デイブはアスリートとして徴集されたのである。
このころは、一般人からすれば戦争が8年半も続くと思っていないから、送り出しは朗らかなものだった。
むしろ、戦争に出れば、そののち軍隊奉仕者として年金が支給される。
デイブも
──きっと良いことが起こってくれるだろう。
そう思った。
デイブはあらかたの訓練を終えて、砲兵として前線に行くことになった。
その重火器の大小にかかわらず、相手方に榴弾を打ち込んで、けん制するのが彼の仕事である。
デイブは小型の迫撃砲を脇に抱えて、日夜、戦場を駆け回った。
昼、突撃を敢行してくる敵兵の間に榴弾を落とし、夜になると多少の睡眠をはさみながら移動して、新たな場所から、また迫撃砲を打ち込む。
これを支給を受けつつも、気が遠くなるほど繰り返すのが戦場の日常だった。
体は疲弊し、1回ずつ太陽が昇るたびに、自分の頬がこけていくのが分かった。
それに、思っていたよりもずっと、戦地は辛かった。
必ず、毎日1人が死んでいく。必ず、毎日5人が負傷する。
怖いと思った。恐怖にさいなまれた。
ただ、戦地にいる以上は、これから逃れることができないのは、デイブも知っている。
デイブにはガッツがあった。
恐怖に打ち勝とうとすることができて、それを行動に移せるガッツがあった。
自分の心を強くしようとする心で、デイブは人よりもたくさんの榴弾を敵に撃ち込んだ。
それが、みんなを助けるのだと、そういう風にも思っていた。
ただ、その行為は己を蝕むらしかった。
デイブはある日、周りの兵士の会話が聞こえないことに気が付いた。
最初は、砲撃の音に慣れすぎて、周りの音が小さく聞こえるのだろうと思った。
でも、真横で、大声で話されても、なかなか聞こえない。
相手が自分を戯かしているのかとも思ったが、反応を見ていると、どうも違う。
本当に大声で話している。それなのに、声の主が綿を喉に詰めているのかと思うほど、聞こえない。
それどころか、自分の声も、よく聞こえないようになっていた。
すぐに、デイブは上官にそのことを報告した。
「隊長。耳が聞こえないんです」
上官が聞いたその声は、思った以上にたどたどしかったようで、目を見開いて何かを言うと、デイブの肩をぽん、と叩いてうなずいた。
それから1週間で、デイブには帰還命令が出された。
理由は
「戦闘続行が不可能な身体的状況にあるため。」
というものだった。
この報せは、とうぜんデイブにも文章で伝えられた。
デイブは命令に従って、本土に帰還した。
デイブは帰ってきてから、ふたたび野球選手となった。
今は戦時中。国の外でたくさんの銃弾が飛び交っている中、それでも人々は娯楽に熱中した。
というより、戦時中だからこそ、人々は何かから逃れるように熱中したのかもしれない。
野球も、そういった熱狂的な支持を受けるもののひとつだった。
「チェッカーズのデイブ・リンデンが還ってきた」
その報道は、地元紙に大きく書き出された。
それもそのはずで、チェッカーズの代表的な選手のほとんどが戦地に向かうか、あるいは軍に徴集されていたから、スポーツチームとしての内情は悲惨だったのだ。
──俺は野球がしたい。でも
デイブは迷った。
耳が聞こえない状態で、野球選手として全うできるのか。その不安があった。
だから、帰還してから3か月以上、デイブはどこのチームにも所属しようとは決めなかった。
そんな中、あるチームが熱のこもった調子で
「デイブ・リンデンと契約がしたい」
という話を持ち掛けてきたのである。
そのチームは、サングリア・カーディガンズだった。
カーディガンズは言わずと知れた名門だ。だが、同時にチェッカーズのライバルチームでもある。
デイブが戦地に赴く前は、優勝争いをしたこともあった。
「自分は耳が聞こえません。ブランクもあります。なにより、チェッカーズのファンが許さないでしょう」
そういった手紙をカーディガンズの本部に送った。
それでも、カーディガンズのスカウトが直接、家にまで来て
「君の持ち味はよく知っている。だからこそ、僕たちは君の働きが欲しいんだ」
と、文章をしたためて懇願した。
その様子に良心が痛んだデイブは
「わかりました。カーディガンズに入ります」
と、カーディガンズ入りを承諾したのである。
カーディガンズに入ったデイブへの視線は冷たいものだった。
「デイブ・リンデンはチェッカーズを裏切った」
「恩を仇で返した、愚かなデイブ」
さらに言えば、戦地で聾者となったことを使って
「デイブは契約するときにチーム名が聞こえなかった」
「自らの身体障害を盾にした移籍」
といった声すらも聞こえた。
デイブはその声に対して、結果を残すしかなかった。
それが彼にとっては、戦地にいる時よりも大きなプレッシャーになった。
耳が聞こえない、というのは恐ろしい。
良い言葉も、悪い言葉も聞こえない。
ほめてくれる人がいても気づけないし、けなしてくる人がいてもわからない。
「危ない!」
と言われても、それを知ることができない。
デイブは自分以外の人間を、いや、物までを疑うようになった。
道行く人の、男も女も、老人も子供も、みんなが自分に何を言っているのかがわからない。
周りの物が、いつ自分に襲い掛かってくるのかがわからない。
街を歩くとき、デイブはずっと体を震えさせながら歩いていた。
さらに悪いことに、デイブはひざを怪我した。
今までなら、持ち前のガッツで、こんな痛みは跳ね返すことができた。
それでも、今のデイブは違う。
耳の聞こえない彼は、ほかの人よりもずっと、心をすり減らしていた。
薄っぺらい紙のようになってしまった彼の心は、すぐに吹き飛んでしまった。
──・──・──・──
デイブは、人が嫌いになった。
チームを移籍したことがきっかけで、さんざんに罵倒された。
ファンからも。マスメディアからも。
自分には聞こえない。彼らはそう思っていたのかもしれないが、そういった情報は目からも入ってくる。
「くたばれデイブ」
と書かれた横断幕。
ジョークという言葉に庇護された数々の悪口。
もし赤の他人に言われただけなら、デイブは傷付かなかった。
でも、この言葉を投げかけてきたのは、かつて愛し、愛されたチェッカーズのファンだった。
もっと言えば、彼を熱烈に歓待したカーディガンズは本当に自分が必要だったわけではなかった。
カーディガンズは社会的成功が欲しかった。だから身体障害を背負ったデイブを雇って、「社会福祉の成功」をアピールしたかったのが本当のことだった。
デイブはスカウトに来た人間から、引退するときに聞かされた。
スカウトは知らなかったらしい。それでも、その言葉が信じられなくなるほど、デイブは傷心した。
だから、デイブは人を嫌いになった。
心を閉ざして、彼らを排除すれば、自分の心は傷付かない。
デイブはその考えをそのまま自分の人生に映し出した。
現役の時に稼いだ金を使って、田舎の土地を買った。そして牛舎を立て、牛を何頭か飼い始めた。
人々どころか、家族すらも遠ざけて、自分ひとりでその数頭の牛の世話をした。
何も言わない、何も聞かない。その時間がデイブにとって幸せだった。
──牛は良い
デイブはそう思っていた。
無駄に動こうとはしない。羽虫が体に近づいてきても、その尾を左右に何度か降るだけで暴れない。
それなのに、自分が与えた愛情は返してくれる。
その野性的な義理堅さが、デイブは好きだと思った。
──死ぬまでこうしていよう
デイブはそうやって生きることにした。
──・──・──・──
それでも、デイブの周りが、それを許してはくれない。
周りの人間からすれば、彼はただ意固地で、孤独なだけに見えている。
デイブの姪、エリー・ロックフォードにも、そう見えていた。
彼女が幼いころの、戦争に入る前のデイブを知っている。
彼は朗らかで、熱があって、何よりマッシブな、かっこいい男だった。
それなのに、今は全然違う。
ふさぎこんで、人とかかわらず、自分のことだけを考えている。
子供のころ、閉じこもりがちだったエリーは、デイブに憧れがれていた。
彼のようになりたいと思っていた。
──それなのに
その気持ちは、デイブにカーディガンズに移籍されたチェッカーズファンと同じ、愛していたが故の憎さだった。
もしくは、幼いころ自分が苦しんでいた孤独を、逆に楽しんでいるデイブへのジェラシーだった。
それでも、エリーが他の人々と違ったのは、彼と血で繋がっているということである。
そのせいか、デイブのことを突き放さず、もっと良い救われ方をしてほしいと思っていた。
エリーはしつこいくらいにデイブの家に行った。
2か月に1回は、必ず行った。彼の家が辺鄙なところにあるにも関わらず。
そして、その時には必ず、愛犬のトムというコーギードッグを連れ、グラブとボールを持っていった。
トムはデイブの心を和らげるため。グラブとボールはかつての自分を思い出してもらうためである。
会話をするときは、必ず筆談でした。
手話もある程度できたが、デイブが使いたがらなかった。
デイブはトムのことは歓迎してくれたが、グラブとボールは拒絶した。
人々の悪意が、そして自分の疑う心が頭の中によみがえるからだというのは、エリーもわかっていた。
それでも、エリーはグラブとボールを持って行った。
そんな生活が、5年続いた。
デイブは52歳、エリーは29歳になっていた。
「エリー、旦那とはどうなんだ。」
「良い人よ。ちょっと寝坊助さんだけど」
今日も、他愛のない会話がお互いのペンと紙を通じて交わされる。
エリーは日常生活で多少の不満があったが、そのことを悟られないようにしていた。
しかし
「おまえ、不満があるんだろう?」
と、デイブがエリーに対して問いかけた。
デイブはもともとキャッチャーとして人を観察することが多かったうえに、耳が聞こえなくなってからは哲学的な自問自答を繰り返してきた。だから、こういう時の視線は鋭かった。
「そんなこと、ないよ」
エリーは取り繕った。
ただ、デイブにはその態度すら、見え透いていたらしい。
デイブは顔をしかめた。
「エリー、なんで噓をつくんだ」
自分は、噓をついた。嘘をつかざるを得なかった。
──なんでだと思う?
エリーはデイブのために噓をついた。いや、噓をつき続けてきた。
──私は何で、あなたのために噓をついたの?
自分の中でその言葉を言ってみると、何かが心の中で動いているのがわかる。
気持ちが悪い、でも、どこか心地よい高揚感を抱えて。
次の瞬間、エリーはデイブにグラブを投げつけた。
そしてそのまま外に飛び出して、自分の乗ってきた車に大股で歩いていた。
気が付けば、目には涙がたまっていた。
──・──・──・──
5か月後。
エリーは夫のケニーに車を運転してもらって、デイブの家に向かっていた。
「珍しいな。なんで俺を連れて行くんだ?」
「顔、見せたことがないからね」
本当は違う。自分だけでデイブの家に向かう勇気がなかっただけだった。
夫のケニーが居てくれれば、少しは楽になれると思ったから、一緒に来てもらうことにしたのだ。
考えてみると、あのグラブを投げつけた時の自分は、子供のエリー・ロックフォードだと思った。
大人になってから、少し落ち着いた自分じゃない。
みずみずしい、鮮やかな感性のあった、子供のエリーだ。
それでも、思わず暴力に訴えてしまった自分への恥ずかしさもあって、少し足が遠のいた。
──もしかしたら、私の顔を見たくないかもしれない
そう思ったが、それでもデイブが心配で、ここまで来てしまった。
3/4マイル先にある牛舎。
あのとなりの建屋に、デイブは住んでいる。
不安もあったが、夫のケニーが運転する車は、どんどんとそこに近づいて行った。
「着いたぞ?」
ケニーが言うまで、エリーはぼうっとしていた。着いたことに気が付かなかった。
「ああ、ごめん。考えごと。行きましょう?」
エリーが車の扉を開けると、何かが木の板に当たる音が聞こえてきた。
ごん、ごん、
その音はリズムを刻みながら、何もない平野に鳴り響いている。
──なにかしら?
エリーは不思議に思って、その音が聞こえる家の影のほうに向かって歩いた。
すると
ごん、ごん、
デイブがグラブを左手にはめ、ボールを延々と、牛舎の壁のぶつけ続けていた。
元アスリートらしい、鮮やかな手さばきで。
ごん、ごん。
「デイブ…?」
エリーの声に気付いたのかもしれない。デイブはエリーのほうを向いた。
デイブの顔はまぶしいほどに、にこやかだった。