11 ジェフ・オーガスタ
小春日和となった昼下がりだった。
学校から出された宿題を粗方終えて、リー・オーガスタ少年は1階のリビングに降りてきた。
時刻は午後2時。
テレビからは上品な声をした実況アナウンサーの声と、恰幅が良い男性の姿が脳裏に浮かぶような解説者の声が聞こえてくる。
──また、野球を見ている
リー少年は少し辟易とした。
リー少年の祖父は自慢話が好きだった。
特に、若いころの野球の腕前を自慢をするのが好きで
「わしは100マイルを投げたことがある」
と、いつも興奮気味に話していた。
ただ、少年はこの言葉を信じたことがない。
その理由は、この家族を見たことがある者なら誰でもわかることだった。
リー少年の祖父、その名前をジェフ・オーガスタというが、彼は長い年月を過ごすうち、その記憶の破片を失ってしまっていたのである。
アルツハイマーだった。
病院で最初の診察を受けたときには、まだまだ意識も壮健だった。
だが、月日が経つたびに進行していき、今はリー少年と、その母のアイリーンの区別すらもつかない。
そのような老人が何を言っていたとしても、この純朴で冷徹な少年には、なにも響かない。
毎日、何回も口から出る
”100マイル”
という言葉が、この少年の頭にはひとつの呪いとして、刻み込まれている。
今日は暖かい。リー少年は12歳である。
──こんな日に外に出ないのはもったいない
という思いと、
──僕の母はなんて優しいんだろう
という皮肉のかかった言葉とが交錯して、思わず祖父の後ろ姿の、その後頭部をじっと見つめた。
悶々としたせいか体を動かしたい衝動が高まった時、不意に、祖父が立ち上がって声を上げた。
「チェッカーズ、万歳!」
祖父のジェフ・オーガスタはクロークハッチ・チェカーズの熱烈なファンである。
ホームゲームが開催される時には決まって、オーガスタ家の住む地域で放映されるが、そういう日には必ず、娘のアイリーンにせがんで、チェッカーズのユニフォームを着させてもらう。
そのユニフォームはひどく古臭くて、日に焼けて黄ばんでいるうえに、ところどころ、糸がほつれていた。
そういったユニフォームではあったが、すでに多くの記憶を亡失してしまった彼は、しかしながらチェッカーズの日程とユニフォームの所在だけは、絶対に忘れなかった。
リー少年は不思議でならなかった。
なぜ、家族のことすら忘れてしまうような老いぼれが、チェッカーズのことに限っては忘れないのか。
──母さんのことすら忘れるようなヤツ
と心の中で呟いて、その理由を義憤に求めようとしていた。
しかし、正直に言えば嫉妬していた。
自分のことを、母のことを、覚えておいてほしいと、悲しみに似た感情がわだかまっていた。
チェッカーズのロゴマークに使われている深い赤色が、自分の心臓を刺しに来ているような、そんな感覚をリー少年は覚えている。
外に出ると、祖父に抱いた悲しみから逃げられる。
リー少年もそのことを望んでいた。
だが、それで良いのかという思いもある。
玄関のドアに手をかけた右手から力が抜けた。
そして気が付くと、ソファに腰かけた祖父のもとに歩み寄っていた。
「ああ、リー。お前も観るか」
祖父のジェフが、リー少年のことを、ちゃんとその名前で呼んだ。
少年は嬉しかった。だから、いや、そのせいで
「チェッカーズはどんなチームなの」
と、訊いてしまったのである。
ジェフ老人は、遠くを眺めるように目を細めた。
そして深くため息を吐き
「このチームがあったから、神が俺に生きる意味をくれたんだ」
と、感慨深そうに言った。
その自身の生に対する本質的な言葉とともに、言葉尻に悲しみを感じることができないほど、リー少年は鈍感ではない。
少年は、初めて祖父の言葉に引き込まれた。それは極めて、道徳的な興味だった。
「チェッカーズが、生きる意味を?」
日頃から訓練された耄碌者用の優しい言葉遣いでジェフに訊ねてみると、コクリと頷いて、
「そうだ。チェッカーズは、みんなに生きる意味をくれたんだ」
と、その主語を拡大して、強く断言した。
ジェフはリー少年と眼を合わせた。
強い信念を持った、今までの彼からは発せられなかった視線に、リー少年は思わず目を背けそうになった。
しかし次の瞬間、ジェフは優しく
「みんなが、わしを支えてくれている。そのことを強く感じたのは、このチームにいた時ぐらいなものだよ。幸せだった」
と言った。
リー少年は母のアイリーンにはそれを感じないのか、とムッとしたが、
「わしはアイリーンに、それをひとりで背負わせてしまっている」
といったのを聞いて、悲しくなった。
そしてチェッカーズのことを、もっと聞いてみたくなった。
それほどまでに祖父を、ジェフ・オーガスタを生かしてくれたチームのことを知りたくなった。
「もっと、聞きたい」
リー少年はジェフにせがんだ。
「そうか、そうか。聞きたいのなら、教えてやらないといけないな──
今から、50年くらい前だ。わしは、チェッカーズでピッチャーをやっていた。当時から真っ直ぐのジェフといったら、わしのことだった。変化球はからっきし。それでも、真っ直ぐはは本当に100マイルを出せていた。
少なくとも、わしはそう思ってる。
喧嘩っ早かったわしは、ことあるごとに言い争ったし、殴り合った。ああ、そうそう。カーターのヤツとはいつも言い争った。アイツは酷かった。サイモンのことをいつも虐めていたよ。それにロールス。あいつの鼻っ柱はへし折ってやりたかった。
もう、無理だがな。
とにかく、賑やかなロッカーだった。わしも手が早かったが、それでもみんながグラウンドで野球をやるのが、楽しくて仕方がなかった。
ところがな。戦争が始まった。西のほうで思想を拗らせた争いが始まって、それでおっぱじめやがった。
え?ペンは剣より強いのにって?
馬鹿言え。ペンで強勢を誇った奴は、剣がインクを濃くするのに役立つってことに気が付いてしまうんだ。
とにかく、野球の試合はぜんぶ中止。そしてわしたちは曲がりなりにもアスリートだ。優先的に徴兵されて、戦地に送られた。
わしは1年訓練してから、東のほうに送られた。西にいた敵が、東にいた奴らと手を組んでいたらしくてな。大きな戦艦に乗って、大海原を東へ、船の中だけで2年も過ごした。
その間、家族とは会えなかった。父にも、母にも。そして、わしの彼女。そうそう。お前のばあさんだ。彼女とも会えなくて、手紙を送ることすらも禁じられていた。
だから結婚指輪を金庫の中に入れて、帰ってきたらすぐに彼女の薬指にはめてやろうと思うっていた。
そんなことを考えないとやっていけないくらい、気が立っていた。
なんといっても、いつ敵が来て死ぬのかわからない。あの恐怖は、何物にも例えがたいよ。
しかし、わし、というよりもあの船に乗っていた船員は幸運だった。
なんせ、敵に殆ど遭うこともなく帰還ができたんだからな。
帰ってきたら、花びらを降らせてみんなが迎えてくれた。街道にいる全員が天使のような笑顔で、
(おめでとう)
と言って、わしたちの生還を祝ってくれた。
もちろん、嬉しかった。
嬉しかったさ。
それでも、チェッカーズに戻ってみると前とは全く変わっていた。
たくさんのチームメイトが死んだんだ。
半分とまではいかないが、それでも多すぎるくらい、死んだ。
その中には、さっき言ったロールスもいたよ──
わしは死んだチームメイトのためにも、ボールを投げ続けた。
100マイルをキャッチャーミットに向けて、懸命に投げた。
今まで以上の、力を込めてな。
だが、どうにも、それが無茶だったらしい。
チェッカーズに戻って3年目に、肘の靱帯と肩の筋肉を断裂してな。それ以降、マウンドには戻れなかった。
わしは死んだと思ったよ。
そうだろう?今までグラウンドの上で、そしてピッチャーマウンドで生きることが楽しかった人間がそれを奪われたらどう思う?
わしはもう、死ぬんだと思った。
だがな、神には見捨てられなかったらしい。
ポーリーが死んだとき、チェッカーズにいたチームメイトが集まる機会があったんだ。
その時に、カーターが言ったんだ。
(生きるために野球をやってたんじゃない。野球をやるために生きていた)
とな。
この意味を、合理的に説明はできない。でも、しっくり来た。あの当時のチェッカーズは、強力に結ばれた、本当のなかまだったんだ。
なかまが、わしを生かしてくれていたんだよ。
ああ、みんな。わしばっかりが生きていて、迷惑をかけているな──」
祖父のジェフは感慨しながら天井を見上げると、そのまま、何もものを言わなくなった。
リー少年はその様子を見ていると、いままでの祖父とは違った人間に見えてた。
戦争という経験を憤慨しているわけでも、悲嘆しているのでもない。ただ、懐かしんでいる祖父が、どこか羨ましく思えた。
「じいちゃん。ありがとう」
リー少年はジェフにそういったが、ジェフは
「ああ、アイリーン。どこに行っていた」
と呆けた顔をしながら応えた。
──・──・──・──
年末の謝礼祭がやってきた。
リー少年は母と一緒に街にやってきた。
父は自らの父でもあるジェフの面倒を看るために、家に残っている。
「雪は降ってないわね」
母が白い息を顔にまとわせながら、そういった。
「そうだね。でも、そのぶん星が綺麗だよ」
少年は空を見て、そう言う。その言葉の通り、今日の星はいつもよりも鋭く光を放っていた。
「今日は特別な日よ。欲しいものがあったら言いなさい」
母のアイリーンは謝礼祭の時に必ず、リー少年の欲しがるものを買い与えていた。
リー少年は、周りの子供たちが時に
「プレゼント」
という言葉の意味を知らない時があるのを知って、このことが当たり前というわけではないことを知っている。
それでも、リー少年の物的な幸福を求める心は正直だった。
「欲しいものか…」
リー少年の口は、南京錠を掛けたタンスの口のように堅く閉じた。
自分の欲しいもの。
それは時に、答えるのにもひどい鬱屈を要するのだ。リー少年は、その感覚を、今まさに味わっていた。
「リー?」
母親のアイリーンは、リー少年の悩む横顔を見て、この苦しみを怪しんだ。
──いったい、何を悩んでいるのかしら。
アイリーンはタロットカードを知らない。
そして、全能の心理学者のように心を読むこともできない。
ただ、リー少年が南京錠の鍵を探し当てるまで、黙って待つことしかできなかった。
──僕の欲しいもの
リー少年にはふたつある。
ひとつめは、学校で隣の席の少年が読んでいた幻想小説である。
表紙に書かれた金色のユニコーンが、少年の脳裏には鮮やかに駆け抜けている。
少年は、夢を見るのが好きだ。リー少年も、そういった少年だった。
幼い頃に読んだ、絵本の中に出てくるブロンドのお姫様に恋をしたこともあった。
それくらい、リー少年は夢想するのが好きだった。
ふたつめは、質屋に売っていたグローブである。
祖父からチェッカーズの話を聞いたあと、公園でキャッチボールをする同い年の男子たちを見た。
それいらい、
──あの中に混じってみたい
と、思うようになった。
そして、質屋でグローブを見つけた。
紐がけばだった、革本来の色をしている、砂汚れのついたグローブ。
自分も、ボールを投げてみたい。
もしかしたら、祖父から受け継いだピッチャーの血が、騒いでいるのかもしれない。
でも、リー少年はそのことを自分で知ることはない。
ただ、グローブで恰好だけでも付けたかった。その感覚のほうが近いのかもしれない。
少年はふたつの選択肢の中で揺れていた。
自分が外に出るのは、家の中のほこりっぽい空気から逃れたいときだけである。
それ以外は、机に面と向かっているときのほうが楽しいと思っていた。
それでも、自分が選びたいのは──
少年は、その言葉を頭の中で反響させると、
「母さん。グローブがほしい」
そういった。
──・──・──・──
ジェフ・オーガスタは、久しぶりに外に出た。
リー少年にボールを投げるためだった。少年はジェフから5ヤード離れて、グローブを構えている。
「じいちゃん」
リー少年はジェフに呼びかけた。
ジェフはそれに応えて、腕を振り上げる。
80歳近い老人とは思えない、しなやかな動き。
振られた腕から、真っすぐ、リー少年のグローブにボールが飛んできた。
リー少年は、捕りそこねた。
いつもの祖父とのギャップが、そうさせた。
「あ、ごめん」
少年は謝った。
祖父は、その顔を眉をしかめながら見つめ、そして怒鳴った。
「何をやっとるんだ、デイブ!お前はそんなもんか!」