33 ゲリック・バード
──またか
と思ったのは、スタジアムにいた人間全員だった。
それは、例えば湿潤な気候であったがゆえに大雨で中止になったから、というわけでもないし、チームが弱すぎて大差で敗戦したわけでもない。
そもそもクロークハッチ・チェッカーズのファンが、そういった自然や集団的な問題に包括された出来事に、落胆なんかしない。
それだけ、ファンの熱量が高いチームである。
ただ、そんな彼らでも、ただ1人のミスによって溜息をついた。
ゲリック・バードという二塁手のプレーには、そういった不安がいつも付きまとっていたのである。
──・──・──・──
ゲリックは港町の生まれである。
潮風を浴び、強い日差しの中で育った彼は、親が漁師だったのもあって船に乗ることが多かった。
ときに時化る。ときに雨が降る。
それでも甲板に立った時、遠くまで見渡せる海の広さと、緩やかに弧を描く水平線が、ゲリックは好きだった。
そして、その心の落ち着く雄大な景色の中で、仕事をする父の横に釣竿を垂らして魚を釣る。
ときたま大物が掛かると一生懸命に釣り上げて、家族や友人に自慢した。
ゲリックが単独で釣り上げた中で一番大きかったのは、32インチ(約81cm)のマグロだった。
そういう経験が豊富で、なおかつ好きだったおかげで
──自分も、将来は漁師になるんだろうな
と思いながら、生きていた。
家業を継ぐことに束縛を感じることも無い。むしろ自分の好きなことを仕事にできるなんて、それほど幸福なことなんてないだろうと思っていた。
ところが12歳の夏に、その運命から分かれることになった。
きっかけは、友人の集まりの中でのことだった。
世間はバケーションの季節である。そのおかげか、ゲリックは友人と遊ぶ時間が多くなった。
もともと勉強が好きというわけではない。何かのクラブにも所属していないゲリックは、気ままに過ごしていたのが、幼馴染のトミー・グスマンに
「一緒に遊ぼうぜ」
と、盛んに誘われたのもあって、集団で遊ぶことが、この時期の日課になっていた。
その中で、ひときわ体格が大きな男子がいた。
トール・リッチモンドという少年は、実は最初から、ゲリックやトミーと親しかったわけではない。
言ってみれば友人の友人の友人。トミーの友人が呼んできた、隣町の人間である。
トールは身長も高いし、ごつかったが、話してみると気さくで、すぐに仲良くなれた。
そして話が盛り上がるうちに、こういう話題になった。
「おまえ、何かやってるスポーツはあるか?」
トミーはフットボールをクラブチームでやっていたからすぐに答えられたが、ゲリックは答えに窮した。
捉え方によっては釣りがそうなんだ、と言えるかもしれない。しかしゲリックからしてみると、生活の一部というか、己の安息のためというか、とにかく極めてやることでは無かった。
ゲリックは腕を組んで困っていた。トールもさすがに馬鹿じゃないから
──ああ、とくにやってないか
ということはすぐに察して、話題を変えてくれた。
そのやりとりがあったからなのか、そうでないのか。
一週間後に、トールはボールとバットを持って遊びに来た。
「近くの空き地で、やろうぜ」
そう言ってゲリックやトミーも含めた10人ばかりで、空き地にぞろぞろと入り込んだ。
さすがに全員がグラブを持ってはいない。
「強く打つなよ」
トールは皆に厳命し、5on5の6イニング制というルールを課して、ゲームはスタートした。
この中でスポーツらしいスポーツをしていない人間は、ゲリックを含めて何人かいた。そのせいもあってゲリック自身も楽な気持ちで、この野球擬きを楽しんだ。
トールとゲリックは、チームを別にした。そして、トールはピッチャーをした。
ゲリックもバッターボックスに入るので、必然的に対戦する。
ゲリックは右利きだったが、左のバッターボックスに入ったほうがバットを振りやすかったので、左で打った。
1打席目で、曲がってきたボールをセンターの前に運んだ。
2打席目で、真っ直ぐ飛んできたボールをライトとセンターの間に運んだ。
そして3打席目に回った時も、ゲリックは
──おっ
と思いながら、合わせてレフト前に運んだ。
試合が終わった後、ゲリックのもとにトールがやってきた。
「お前、噓をついたな?」
ゲリックは突然の問いかけにビックリした。
ゲリックは噓をついたことが無い。あらぬ疑いをかけられて、少し怒ったと言った方が良いかもしれない。
「嘘なんかついてないよ」
ゲリックは少し口をとがらせながら、そう言った。
「ふうん」
トールは疑いを解かなかった。そしてトミーのもとに行って
「あいつは、本当は何かやってるだろ?」
と、ゲリックのこれまでの経歴を問いただしたのである。
しかし、トミーもゲリックのことはよく知っている。
「やってないよ。強いて言うなら、休みの日はずっと海の上にいるよ」
トールの言葉を、こう否定した後に
「あいつのことを悪く言うなよな」
と、釘まで刺した。
トールも存外だったようで、自分の態度をすぐに改めた。ゲリックのもとに帰ってくると
「さっきは、すまん」
と言って自分の言動を謝った後に
「でも、野球をやったことは本当にないのか?」
と、改めて問いかけた。
「うん」
ゲリックが頷いた。トールは目を丸くして
「じゃあ、なんで俺のボールをあんなに簡単に打ち返せたんだ?」
と言った。
ゲリックは少し考えた後に
「打ち返せると思ったからかなあ……」
と返して、トールをなおさら驚かせた。
トールとは、この一件に関してそのあとに詳しく話をした。
実は、本気になっていたらしい。
もちろん、トールだってまだ子供だ。たとえ遊びでも、自分の良いように回らないとイラついて、力を入れてしまうのは普通である。
ただ、トールが気にしたのは遊びに本気になったことではない。
もともと自分がどれほどの実力があるのか。比べたときに、ゲリックが異様な力を発揮した、ということこそが気になった。
トールは野球のクラブチームに入っている。背番号は1。
この1という数字は、トールという少年が、そのチームの中でエースであると示していた。
ただのエースというわけではない。トールの所属するチームは、全国でも指折りの強豪なのである。
つまり「全国屈指の少年チームのエースが力を込めて投げた球を、野球のヤの字も知らない少年がいともたやすく打ち返した」ということだった。
いくらエースも少年とは言っても、打つほうだって同い年の勘所が無い少年だ。異様な光景だと言っても、過言ではない。
初めて対戦した1打席目からトールは感じていた。
色んな相手とやってきたぶん俯瞰ができるから、ゲリックに驚かされたのである。
そして
──このまま負けっぱなしは、やだね
と、スポーツマン特有の負けず嫌いが発揮されて、壁をキャッチャー代わりにしていたのを良いことに、2打席目のゲリックにはストレートを、3打席目のゲリックにはカッターを、トールは力を込めて投げた。
3打数3安打。見事に打ち砕かれた。
トールだって、ただの遊びだということは解っていた。
だからゲリック以外のバッターに対しては、適度に打てるように投げていた。
しかし、ゲリックに対しては本気になった。あまりに綺麗に打ち返されたから、トールもスイッチが入ってしまったのである。
「すまん」
と、トールはゲリックに謝った。
ゲリックに打ち込まれたからと言って、あそこでは本気になるべきではなかった。そういう思いがトールにはある。
だが、ゲリックは全く気にしていなかった。それどころか
「本気を出してくれたのが嬉しい」
と、さわやかな顔をしてトールに言った。
──これは大物になるな
トールには、意外と人を見る目もあったのかもしれない。
これを機にして、ゲリックは野球の楽しさというものを知ったのか、ミドルスクールに入るのと同時に、トールと同じクラブチームに入った。
──・──・──・──
ゲリックとトールは、ともに野球をすることを楽しんだ。
トールは言わずもがな、ゲリックも守備に苦戦こそしたが、打撃では抜群の能力を持っていた。
そのおかげで、15歳になった彼らはチームの顔になっていた。
ところが、その年の夏に悲劇が襲った。
ゲリックではなく、トールにである。
ある日の試合中。トールが70球ほど投げた時のことだった。
トールはボールを投げた瞬間、嫌な音を自分の右肩から聞いた。そして音が聞こえた瞬間、激痛で右腕が上がらなくなった。
異変に気が付いたゲリックは、セカンドの定位置からマウンドに駆け寄った。
「トール、大丈夫か?」
「いや…」
トールはこの時、自分の運命というものに気が付いていたのかもしれない。
この日は、これ以上の言葉を交わすことなく、グラウンドを後にした。
トールは右肩を壊した。もう力強いボールを投げることができなくなってしまった。
トールは人前で涙を見せない性格だった。
だから自分が投げられなくなった後も、ベンチでチームを鼓舞し続けた。雑用もした。スコアも付けた。
だが、ゲリックはどれだけ悔しい思いをしているのかを知っている。
「トールは不運だった」
などと言うことは簡単だったが、ゲリックからしてみれば
──不運なんて言葉で片付けられない
と思っている。
ゲリックは、そしてチームの皆は、献身的なトールに少しでも良い景色を見せるために努力を重ねた。
結束したチームは強い。そのことを示すかのように、チームは連戦連勝した。
そして、ついに大きな優勝トロフィーを得た。少年チームの大会の中で、いちばん栄誉のあるトロフィーだった。
このトロフィーをチームで最初に持ち上げたのは、トールだった。チームの全員が、トールに持ち上げさせたのである。
中でもゲリックは、空前絶後の活躍をした。
打てる球をことごとく打ち返して、大会での打率は.700を超えた。とてつもない記録である。
この大会で注目されたゲリックは、プロチームに進む道すらも示されるようになった。
そのことを、トールは祝福してくれた。
「良かったな。お前も有名人だぞ」
「まあな。稼げるようになったら親父の船を買い替えさせようかな」
「良いかもな、それ。でもお前の守備でそんなに稼げるか?」
「うるさいな。俺はヒッティングの人間だ」
「そう上手くいくかよ」
「ああ、行くね。自信があるんだ」
「そうか。でもお前、プロで活躍できると思うか?」
「大丈夫だって」
「なんで大丈夫だって言いきれるんだ?」
「ひとりで成長したわけじゃない。だから大丈夫だって思えるんだよ」
「ありきたりだな」
「ああ。……トール」
「なんだ? なにかあるのか?」
「トールが俺を引っ張り上げてくれたんだ。今度は、お前の持ってた夢を、俺が背負おうと思う」
「そうか」
「大丈夫だ。俺はきっと成功する」
トールは静かに笑った。
──・──・──・──
プロになってから、ゲリックの活躍は目覚ましかった。
ハイスクールには行かず、17歳で正式にチェッカーズの一員になって10年間。そのキャリアが滞ることはなかった。
ただ、ひとつの問題のせいでベンチに入れないことも多かった。
ゲリックは守備が、とことん苦手だったのである。
バッティングだけで言えば、全く他の選手に引けを取らない。それどころか、入団した当初からいちばんセンスがあった。最初のうちは苦戦しても、すぐに克服できた。
それでも長所を覆い隠すほど、ゲリックは守備が苦手だった。
もちろん、チェッカーズの主力には守備をウィークポイントとしている選手はいる。
ダニー・ゴールドバーグ辺りがそうだが、彼とゲリックが違うのは、ダニーは三塁手で、ゲリックは二塁手だったことである。
その差が、ダニーとゲリックの評価を分けた。
サードなら、ある程度は許される。だがセカンドでそれをやられると、チームとしては辛い。
だからチームの判断として、ダニーが優先されることも多かった。
それでもゲリックのバッティングにおける天才性は、チームメイトもファンも認める所だった。彼のバッティングを楽しみにして、球場に足を運ぶファンもいた。
それも戦争で見られなくなった。
野球選手もまた、市民である。そして市民は戦争の時代のあおりを、まともに受けるものである。
──・──・──・──
トールが読書を落ち着いてできるようになったころ、港町にゲリックが帰ってきたという連絡があった。
トールは久々に友人と対面できると思って、心を躍らせながらゲリックに会いに行った。
自分の住んでいる家から、ゲリックの実家までは自転車で30分はかかる。
その間に受ける風を、トールは心地よく感じた。
バード家のチャイムを鳴らした。少しの間だったが、その時間がトールにはずいぶん長く感じた。
実際には1分くらいだったかもしれないが、5分かかったように感じた。
玄関のドアが開くと、ゲリックの母親が姿を現した。
「お久しぶりです」
トールが話しかけると、ゲリックの母親は
「あら」
と驚いたような表情を見せて、トールのもとに近づいた。
「何か、御用かしら?」
ゲリックの母親は、なぜか動揺を隠せないようである。
トールも少し、それに引きずられた。
「ああ……えっと。ゲリックが帰ってきたと聞いて来たんです。挨拶ぐらいはしないと、と思って」
ゲリックの母親も納得はしたようである。ただ、反応が煮え切らない。
「あの、ご都合が悪かったでしょうか?」
「いえ、そういうわけじゃないわ。でも、なんて言うんでしょうね……」
「日を改めましょうか?」
「ううん。そうね……あの子にとっては良いかもしれないし、あがって」
トールには、どうにも気になる。とても悪い予感がする。
もしかして「帰ってきた」というのはオブラートに包んだ言い方で、ゲリックは死んでいるのではないだろうか。そう思うと背筋が冷たくなる。
ともかく、と思ってトールは導かれるままに家に入った。
玄関のまっすぐ先にリビングがある。
仕切りから先、ゲリックの母の背中を見ながら入っていくと、ソファーに座っている人影が見えた。
──ゲリックは生きていた
トールは直感的に安心した。だから
「ゲリック、帰ってきたんだな」
と、喜びを隠さずに言った。ゲリックはその声に応えた。
「久しぶりだな。お前も無事だったか」
「ああ。俺も徴発されたんだが……運良く生きて帰れたよ」
「そうか……それは良かった」
トールはゲリックの声が、前よりも沈んでいると気が付いた。
──何かあったんだろう
その程度のことしか、わからない。デリケートな部分だろうから、なぜ気分が優れないのか、と触れるわけにもいかない。
そのあと、他愛もない会話を重ねているとき、トールの目線が少しばかり下を向いた。
何の気もない、ただの目線の動きである。しかし、そのせいでトールはゲリックの気分が落ち込んでいる理由を知った。
──・──・──・──
──そうか
トールは敢えて何も言わなかった。
そういう話題だと、すぐさま察知した。
ゲリックの足元、ズボンの左脚の裾からわずかに、義足が見えていたのである。
ゲリックとの会話が終わると、足早に自分の家に帰った。
家の中に入り、椅子に腰を掛けると、しばらく考え込んだ。
──どうしたら、ゲリックを助けられるのだろうか
ずっと付きっ切りで肩を支えることはできない。かといって全ての救いの端緒を、ゲリック自身に放任することもできない。
トールには、ゲリックからの借りがある。自分が実現できなかった夢を、代わりに背負ってもらったのである。
そこまでしてもらいながら、自分からは何もすることができない、というのはプライドが許さない。
「どうしたの?」
妻のジュリアンが、トールの悩んでいる表情を見て問いかけた。
トールは問いに答えることができない。なにしろ、ゲリックにとっては深刻な問題だろうということは、想像することは容易い。
「ねえってば」
ジュリアンの問い詰める声が、鬱陶しく感じた。
「あまり、聞かないでくれるか」
苛ついた声で言うと、ジュリアンはむしろ語気を強めた。
「自分の旦那が苦しそうなのに、放っておけるわけないでしょ! 私だってそんなに口は軽くないわ」
それでもなお、トールは
──話せるわけないだろう
と思っている。
ジュリアンは声を止ませることはない。
「私のこと、信用していないのね」
と言って、不機嫌な様子すらも見せた。
──よくもまあ、ずけずけと
そう思ったがトールは耐えた。それでもジュリアンの膨らんだ頬はしぼまない。結局、ジュリアンは
「ふん」
と荒い鼻息を鳴らして、寝室に閉じこもってしまった。
1週間、リッチモンド夫妻は口を利かなかった。家に帰ると沈黙と静寂が身を覆うようになった。
──いつまでもこのままじゃ、らちが明かない
そう考えたトールは
──ならばいっそ話したほうが良いか
と、ジュリアンに対してあのケンカ以来、初めて口を開いた。
「なあ」
「……」
「俺の友人のことなんだがな」
「なにかあったの」
「まあな」
「だれ」
「ゲリックのことだ」
「チェッカーズの?」
「そうだ」
「そう、それで?」
「あいつ、帰ってきたんだがな」
「良かったじゃない」
「俺も、生きていて良かったと思っている」
「問題があったのね」
「……あいつと会って話したんだがな。左脚が無くなってた」
「そう。だから、話し辛かったのね」
トールは無言でうなずいた。
「ありがとう。話してくれて」
「……すまなかったな。不機嫌な思いをさせて」
「良いのよ。でも、やっとわかってホッとした」
「どうしたら、あいつを助けてやれるんだろうと思ってな」
「ゲリックは困ってるの?」
「わからん。でも、落ち込んでるのは確かだ」
「そうでしょうね。トミーには話した?」
「まだだ」
「あなたたち、友達じゃない。一緒に考えてあげたほうが良いわよ?」
「そうかな?」
「もちろん。私も一緒に考えるから」
「ありがとう。トミーにも連絡を入れてみるよ」
──・──・──・──
トミーはいそがしい。彼は各地を回って話をつける、ビジネスマンになっていた。
久しぶりの休暇を取れたある日。
──ポストに入っていた郵便物を確かめなきゃな
そう思って、山のように入っていた手紙をテーブルの上に広げて、ひとつずつ確認していった。
その中に、見慣れた名前が見えた。
──トールに、ゲリックか
戦争があってから、久しく見ていなかった名前だ。懐かしさを覚えながら、手紙を開いた。
ゲリックの方からは、なんの堅苦しさもない、時候の挨拶が届いていた。そして、久しぶりに連絡をとれて嬉しいとも書かれていた。
久しぶりに会えれば、と軽く考えながら、次はトールの手紙を開いた。
トールからの手紙も、最初は自身の近況から始まり、そして久しぶりに会いたい、と書かれていた。
だが、手紙の最後に
「ゲリックのことなんだが──」
と、ことのあらましが書かれていた。
──そんなことが
トミーはゲリックの手紙を読み返して、左脚を失ったことが書かれていないと確かめた。
ゲリックから話がない以上
──本当なのか?
と疑いもしたが、トールがつまらない嘘をつくとも思えない。
トミーは真偽を確かめようと、車を走らせてゲリックの家に向かった。
ゲリックの実家につき、チャイムを鳴らすと、ゲリックの母親が出てきた。
「今日は、ゲリックの都合が悪いのよ」
そう言われ、久しぶりに会うことは叶わなかった。
トミーはそのまま、手紙に書かれていたトールの家の住所に向かった。
そこに建っていた家のチャイムを鳴らすと、トールがすぐに出てきた。
「来てくれたか」
トールと挨拶を交わしたあと、リビングにまで上がって、出されたコーヒーを飲みながら話をした。
「そうか。ゲリックとは会えなかったか」
「会えなかったな。……ゲリックが左脚を失ったのは本当なのか?」
「本当だ。あいつが義足をつけているのを確かに見た」
「そうか……」
「トミー、俺はあいつのことが気がかりなんだ。たぶん、そうとう気が塞ぎ込んでる」
「なんとなく想像はできるよ。でも、下手に手は出せない」
「そうなんだよな……もしも困りごとがあったら助けたいと思っているんだが、何か聞けないか?」
「それだったら、トールのほうが聞けるんじゃないか」
「そうか?」
「ああ。お前もそういう経験があるだろう」
「そうかもしれないが……」
「その分、同じ立場に居ることができないか。俺はゲリックの母親とコンタクトをとったほうが良い。そうすれば俺たちに直接言いづらいことも、そっちから聞くことができる」
「それは妙案かもしれないな。そうしよう」
「決まりだな。早速、明日からやってみるか」
──・──・──・──
案の定だった。
ゲリックはトールとトミーの行動を疎ましく思ったようで、
「やめてくれ。俺は大丈夫だ」
と言われた。
だが、トールやトミーは子供のころからゲリックを見ていたものだから、言葉の中に苦しさが表れているのを聞き逃さなかった。
トールの妻のジュリアンは世話焼きで、時たまトールに付いて行って
「あなたは私よりもトールと長く付き合ってるじゃない。言ったほうが良いわよ」
などと言ったりもしていたが、それが余計にゲリックの気分を悪くさせた。
しかし、3人は腹を決めている。
ゲリックが話してくれないのならと、今度はゲリックの母親に話を聞いたりもした。だが
「私もわからないの。ごめんね」
と言われるのが常で、なかなかゲリックの本音を聞くことはできなかった。
気が付けば1年も経っていた。トールたちも
──ここまで言わないのも、意地だな
と思っていたが、ゲリックに何とか明るくなってほしかった。
そんなある日、ゲリックの母親がトミーと話しているときに小さく、こんなことを言った。
「ゲリックね、ラジオで野球を聞いてるらしいのよ」
トミーは、この言葉を聞いて
──これだ
と思い、彼女からさらに話を聞きだした。
「どんな感じで?」
「このバッターはインハイのストレートを打てないのか、下手だな。とか、タイミングが早すぎる。とか。愚痴ばっかりだって」
トミーは何となくだが、ゲリックが何をしたいのかを感じ取った。
「お母さん。わかりました」
トミーは急いで、トールのもとに向かった。
──・──・──・──
「あいつ、野球がやりたいんだな」
トミーの口から聞いたトールとジュリアンは、そうだろう、と思った。
「たしかに、思うように体を動かせないだろうからな」
「トールも、わかるか」
「なんとなくわかるよ。それに」
「なんだ?」
「あいつ、体格変わってないだろ」
「そう言われてみれば、太りも瘦せもしていないな。それで?」
「多分だけど、トレーニングを隠れてしてるんだ」
「でも、母親は知らないみたいだぞ」
「部屋の中ででも、寝静まってからでも、できるもんだろ」
「なら……あとは実際に動けるかどうかだな」
「ああ。義足をしている以上、長く運動はできない。でも──」
「バッティングなら出来るかもしれないな」
「ああ。脚を使う守備や走塁はできなくても、バッティングはなんとか」
「お前の出番かな」
「だな。俺のほうが、野球については知ってる」
「頼めるか?」
「バカ言え。1人だけじゃできない」
「わかった。俺が何としてもゲリックを連れ出してやる」
──・──・──・──
それから1週間後のことである。トミーはゲリックを
「少し、海でも見に行こう」
と言って連れ出した。ゲリックも
「それくらいなら」
と、トミーの肩を借りるようにして外へ出た。
トミーは上手く誘導して、ゲリックを空き地に誘導した。ゲリックが野球に出会った、あの空き地である。ゲリックも断れず、杖を突きながら付いてきていた。
はたして、そこにはトールとジュリアンが待ち受けていた。
「トール。奇遇だな」
ゲリックの口調が皮肉っぽい。なんとなく、察したらしい。
「野球をしないか?」
トールにとっては賭けである。絶交されてもおかしくない、と思っている。
現に、ゲリックは一気に不機嫌になった。
「トミー。お前が仕組んだのか」
「いや。俺ら、だ」
ゲリックは黙り込んでいた。怒りを発するのも当然なのだ。
「今の俺には何もできないぞ」
「なんでだ?」
「脚が一本無い。目も衰えた。それに意欲がない」
「意欲がないのか。本当に」
「ああ」
「そんなはずは無い」
「なぜ言い切れるんだ」
「お前の母さんから聞いたぞ。野球をラジオでずっと聞いて、愚痴をこぼしているそうじゃないか」
「そうか」
「ゲリック。もういちど、野球をしないか」
「無理だ」
「なんでだ」
「脚の無い奴が、おいそれと野球なんてできるもんか。無理だ」
トールはこの言葉が気に食わない。
「無理なわけがないだろう」
「……」
「俺の夢を背負ってくれたヤツが、たかが脚を失ったくらいで倒れるわけがない。今度は俺が、夢を見させる番だ。ゲリック」




