逃げる獲物は何をする?
案の定、野沢は悲鳴やうめき声の一つも上げない。下の方に転がっていったので、野沢の姿は見えない。
囲んでいた女子たちはハッと我に帰ったように転がっていった野沢の方に駆け寄り、そして悲鳴と泣き声を上げた。
「―――いやぁ!!」
甲高い、耳障りな声だ。誰か来るんじゃないか、と思うほど大きな声。俺の人生の中で、聞いたことの無いほどの叫び声だった。
一体野沢はどうなってしまった。俺の最悪の予想になってしまったのか。それならば、忘れ物を取りに来ただけで人の死ぬ瞬間に立ち会ってしまうとは、俺の運の無さは異常としか言えない。
「どうするのよ……高石さん……」
震える声が聞こえてきた。
「野沢の奴が……これ……」
今度は別の声だ。
「み、みんな! とりあえずここから離れて少し落ち着いて話すよ!」
ようやく当事者が口を開いたようだ。声は平静を装っているつもりなのだろうか、そうだとするなら残念だ。声が裏返っている。
泣き声や嗚咽は足音と共に遠くなり、やがて聞こえてくるのは俺のうるさくなり続ける
心臓の音だけだ。
足に力が入らない。腰を下ろしたら立つことが出来ないだろうと思う。やばい、ビビっ
てるよ俺。歯を食いしばろうにもうまく噛み合わない。
落ちていった野沢の様子を見る必要があるだろう。アイツ等はどこかに消えてしまって、あの調子だと警察や救急車が来てもまだまだ先のことだろう。へタすれば、高石が口止めしてこない可能性だってある。
行かないといけない。生きているなら救急車を呼ばなければ。
俺は意を決して階段の方へと近づき、そしてうつ伏せに横たわる野沢の姿を見た。
野沢は天井を見上げていた。虚ろな眼は半開きで、その顔には死相が色濃く翳っていた。頭の周りでは粘性の液体が徐々に広がっていき、さながら小さな池のようになって髪を濡らす。
これは一目見て死んでいると、容易に理解できる。
これは最早野沢久美という人間ではなく、一種のオブジェ。それも酷く冒涜的な、異常で異端な作品だ。
作者は逃げてしまった。一体どこに。作品を残して。罪だけ背負って。
これは救急車を呼んでも無駄だ。呼ぶなら警察だろう。
……だが、ここで警察を呼んだとして俺に利がない。例え落としたのが高石だと証言しても、あるのは形ばかりの感謝状といったところだ。金一封でも貰えるかもしれない。だが、そうだとしても高が知れている。
ならば、アイツ等を強請れないだろうか。明日までに高石たちが自首していなければ、これは相当搾ることができるだろう。
野沢は相変わらず天井を見上げている。俺は一息ついて、写メを撮ろうと携帯に手を伸ばす。手が震えやがる。死体の撮影にビビっているのか、これからのことを考えて興奮しているのか、はたまたその両方なのか判断しづらい。
電子音が無人の校舎を木霊し、携帯の画面に野沢の姿が映し出される。よし、これなら一目で死んでいると分かる。これでアイツ等を脅す材料としては十分だ。
「もしアイツ等が自首しなかったら、俺があいつ等をたっぷり絞ってやる。敵討ちのつもりでな」
野沢と面識もなく、しゃあしゃあとそんなことを言う。悪党だよ。大した悪党だよ、俺。
野沢に別れを告げた俺は、無人の校舎を飛び出した。息が続く限り走った。鈍っていた足が悲鳴を上げようが関係ない。逃げた。逃げた。走った。走った……。
家に着くと自分の部屋に駆け込み、ベッドに飛び込むと携帯を開いた。
映し出されるのは野沢だ。俺は野沢を見続けた。この異常で異端なものを。飽きもせず、親が夕飯だと呼びにくるまで眺め続けた。
残念なことに、あれは待ち受けにつかえない。ハハッハハハハッハハハハッハ。
主人公についての描写ができない。一人称書きはこれがつらいです。