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∞心の天秤と海の宝石



『海の宝石入りました!』

 潮風食堂の看板には張り紙がしてある。海藻麺、ウミウシなどその七色に輝くクリスタルの食材も魅力だが、ここ和食の定番と言えば、いくらである。勿論鮭の卵であり、北国の名産品である。

 やつれた表情の近所の主婦、五島舞子ごとうまいこは力なく、無表情で潮風食堂の扉を開いた。行く当てもなく辿り着いたような、気弱な雰囲気を醸している。食堂はランチタイムも終わり、午後過ぎの休憩に入る直前の時間だ。

「いらっしゃい」

 手ぬぐいを結んだ頭に、前かけ、ゴム長の一色いしき、茶系の和服の妻の零香れいか、二人は笑顔で迎える。ところが舞子が少しいつもと様子の違うことに気付く。かなり深刻な顔だ。

「どうしたの?」

 主婦仲間でもある零香が先に声をかけた。

「こんなの零香さんに言って良いものかどうか」と遠慮がちの舞子。厨房前に位置するカウンター席のひとつに腰を下ろす。だが誰かに言わずにはいられないという感じだ。

「割と私も主人も口は堅いわよ。気楽に言ってもらって良いわ」と笑う零香。

 すると舞子は突然テーブルを見つめながらぽたぽたと大粒の涙を流し始めた。そして耐えきれなくなったのか、両手で顔を覆う。

「ううう……」

 声にならないうなり声のように縮こまる舞子。

 心が落ち着かない様子で、その手に見せてくれたのは大きな二カラットほどのエメラルドだった。銀細工で施された大きなペンダントである。

「これがね……」

 舞子の手にあるその宝石は、ずっとここまで握りしめてきたのであろう、手汗で濡れていた。

「うん」

 相槌のみで聞く姿勢の零香。

「ううん。違うの。私……。主人がね」

 混乱しているのか、話の骨子をまとめられない舞子。

「大丈夫、落ち着いて」

 そっと背中を撫でながら、うなずく零香。

 事を察した一色は、無言のまま厨房を出ると音を立てないようにそっと店の扉を開けて、店にお客が入ってこないように気遣う。暖簾をまくり上げて、柄の部分を段違いに戸の前に引っかける。ちょうど通せんぼするように。これでこの店の営業前のサインは出来上がる。

「先日、主人が倒れたの。それで今は入院中なんだけど、どうやら治療の費用に三百万円以上がかかるって言われてね。とても今の我が家の経済状況ではそんなお金だせなくて、金策に走っていたのね」

「うんうん」

 真面目に相づちを打つ零香。

「本当は売ってはいけないものなんだけど、主人との思い出の品で……。婚約旅行で、ニューヨークに行ったときに、ハレー・キントンの本店でね、無理して月販で買ってくれたの。一生大切にするって。彼、そのあと五年かけて支払い続けてくれた思い出の品で……。でも主人の命には代えられないし」

「そうよ、ジュエリーはまた買えば良いわ。ご主人は唯一無二の存在よ」

「ええ」

 彼女は返事をしてから続けた。

「それで隣町の宝石商に相談したら、古いし加工物だから二十万円って言われたのよ。まさかこんな大きな石で、しかもハレー・キントンがそんな値段には、っていったんだけど、ウチではそれが相場って言われて……。それじゃ、薬代にもならないわ」と言って、再び思い出してしまい、大粒の涙をぽとぽとと落とし始める。

「うん」


 舞子が落ち着きを取り戻した頃、一色がいくら丼をカウンター越しに差し出す。

 驚いた表情の舞子。

「あの、私注文してないけど……」

「これ、まかない丼なの。お代はいらないから今日はオレのおごりで食べていって」と柔らかな笑顔で頷く。無精ひげのその厳つい顔つきとは裏腹に、とても穏やかな男である。

「海の宝石って言われる、天然物の鮭のハラコなんだ。自家製で醤油漬けにしている。野田の生醤油を醤油の蔵元から分けてもらっているから美味いよ」と加えて笑った。

「ありがとう。でも……」

「何か口に入れないとね。思い詰めちゃだめ。美味しいものでおなかを満たせば、良い案も浮かぶよ」

「うん」

 舞子の主人は、一色の小学校からの同級生である。一緒に船橋ヘルスセンターや三番瀬で潮干狩りをした幼なじみだ。

「あいつには、長生きしてもらってよ。また一緒に鉄道の全国旅をするって約束なのさ」

「うん。一色さん、彼とは仲良しだものね」

「まあ、優等生のあいつの一番弟子ってところかな?」

「もう、謙遜して」

 箸を割って、その好意の一口を頬張る。酢じめした冷や飯がいくらを引き立てる。優しい味だ。

「舞子さん、ちょっと、その宝石持って、この質屋に行ってくれる?」

 そう言って一枚のショップカードを彼女の目の前に置く一色。

「なに?」

「この質屋は、あいつもオレも知り合いのやっぱり幼なじみの経営するところなの。見かけはボロで、店主はぶっきらぼうで不愉快なやつだけど、きっと力になってくれるから、騙されたと思って行ってみて。オレの紹介だって必ず言ってね」


 そこは江戸川の少し上流。葛飾柴又にある古い質屋だった。木枠にガラスをはめた扉と古いなまこ壁の店。時代を経てきた木造家屋の匂いが懐かしさを呼ぶ。

 言われたとおり舞子は、その玄関を潜った。今風の透明ガラスの窓口ではなく、格子がカウンターに施された明治の質屋そのものである。顔を斜めに歪めた白髪まじりの店主が、眼鏡越しに舞子を見ると言った。

「いくら必要なの?」

「あの青砥一色さんの……」

 まず言われたことを最初に踏襲する舞子。

「一色?」

「五島といいます」

 店主は右目だけを大きく開いて、「五つの島の五島か?」と懐かしそうな顔をする。

「はい」

「亭主の名前は星也せいやかな?」

「はい」

「病気と聞くが」

「その治療費の……」

「なにを質入れする」

 彼女は手に持ったエメラルドの装飾品を見せた。

 ルーペを取り出して、石を丹念に調べる店主。

「ふん。多めに出して、五十万ってところか」

「やっぱり……」 

「だがね、奥さん。明日までこれ預かって良いかね。今晩改めて査定に時間をかけさせてほしい。明日の同じ時間にまた店まで来てくれ」

「はい」

 自分の亭主の幼なじみで、一色の知り合いと言うこともあり、少しためらいもあったがここは信じてみることにした。

「よろしくお願いします」

 彼女は預かり証を受け取ると、丁重なお辞儀をして立ち上がった。

「今晩の査定でお会いしよう」

 店主はプライベートのような笑顔で彼女にそれだけを言うと、窓口をあとに、奥へと引っ込んでしまった。

『今晩?』

 店主の奇妙な言葉に、舞子は小首を傾げたが、言い間違いの類いだろうと気に留めることもなくその場をあとにした。


 舞子はその夜、不思議な夢を見る。

 昼間行ったあの柴又の質屋の夢だ。あの店主があの窓口に座っていた。

「奥さん、この天秤は『女神アストライアーの天秤』といってね。夢の中でしか使うことの出来ない天秤だ。重力による重さを量るのではなく、人のまごころを導くためにどれくらいのお金が必要なのかを教えてくれる天秤なんだ。分銅はいらない。この右側にはあなたとご主人の思い出、愛情が既に載っかっている。そこにあいつと一緒に子供時代を過ごした私と一色の思いもプラスしてある」

 そう言って、空の左側の皿の上にあのエメラルドの装飾品を載せた。

 中央にあるはかりのメモリでその針はなんと五百万円を指していた。

「昼間の査定の十倍?」

 寝ていながらも、彼女は計算は出来たようだ。

「そう、明日の査定では預かり証と交換で五百万円をお貸ししよう。返済日も無期限だ。人の心はお金で買えるものではないからね」

 店主のその言葉で舞子は目を覚ますと、小鳥の鳴き声が聞こえる時間だった。


 支度をして、同じ時間に質店を訪ねると店主の姿はなく、従業員らしき女性が、

「取り次いで、指示を受けております。現金でも、お振り込みでもかまいませんが、どちらになさいますか?」と慣れた対応で迎えた。

「では振り込みで」と舞子。

「かしこまりました。ではここに名義人と口座番号をお願いします」

 店員は預かり証と口座番号を確認する。そして手元のパソコンで入金処理を始めた。ビジネスライクな店の外見や雰囲気とは違い、その店内には、今現在温かな思いが満ちあふれている。それは舞子にしか分からないものだ。その処理を待ちながら、舞子の目には昨日とは違う、人の心を温かく思う別の涙がこぼれていた。その涙は今まで経験したことのない、まごころのこもった礫のような大きなものだった。

                                                       了



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