異世界に転移した
傾いた日差しで赤く染まる夕空に、普段は見ない白い月を見つけて人々はざわめきだった。魔物討伐任務を終えて帰還中の宮廷魔法師団の魔術師たちも足を止め、白い月を見上げていた。
「止まるな。王宮に帰還するぞ。急……」
魔法師団の指揮官は最後まで命令を言うことができなかった。白い月は急に大きくなり、夕空を真っ白に塗り替えた。
「眩しい!」
「何だこれは……」
誰も目を開けていられなかった。
討伐任務に参加していたミキストリアも月に背を向けて目を閉じるが、目を瞑っていても白い光が輝きを増しているのがわかるようだった。
「うわー!」
仲間の誰かの叫び声を最後に、ミキストリアは意識を手放した。
光が消え、いつも通りの夕空に戻った時、ミキストリアの姿は消えていた。白い月は、元々なかったかのように夕空から消えていた。
魔法師団や王宮、家族は懸命にミキストリアを探したが見つけることはできなかった。
〜〜〜
桂木祥子は三日ぶりの自宅に思わずため息をついた。
「ふぅ、三日ぶりの我が家だわ。ホント疲れた」
警察からの突然の電話で、両親が交通事故に巻き込まれて世を去ったと聞かされた。兄弟はいない。数少ない親戚は遠方。頼れる人はいなかった。各方面への連絡や手配、手続きを1人でこなし、なんとか葬儀も無事終えてひさしぶりに一人暮らしをする自宅へ戻ってきたところだった。
ミキストリアは、ドアの開く音とそれに続く、ひっ、という短い悲鳴で目を覚ました。目は覚ましたが、思考ははっきりしない。
(わたくしは一体……。
討伐任務の帰りに光に包まれて気を失ったようですわね。街道に居たはずですが、これは絨毯?
一体何が?)
ミキストリアは頭を振って意識をはっきりさせると上体を起こした。少し離れたところで、誰かが呆然と立ち尽くしてミストリアを見下ろしていた。
(黒い修道服? 闇教会の修道女のようですわね)
「なに? え、人? なんで? だれ?」
修道女が何か言ったが声が小さく、ミキストリアには聞こえなかった。
「ここはどこ? あなたは誰? わたくしはなぜここにいるのです?」
とにかく状況を把握しなければ、ミキストリアはそう考えると修道女に尋ねた。
修道女は、一瞬カッとしたように目を見開いたが、なんとか自制したようだった。
「ここはあたしの家。あなたがなぜここにいるかは私が聞きたい。そもそもあなたこそ誰?」
修道女にあるまじき言葉遣いだったが、ミキストリアは咎めない事にした。宮廷魔道士にも貴族にも縁のない平民は多い。そういう平民が自分を見て誰だかわかないのも無理はないだろうとミキストリアは思ったのである。
「それも道理ですわね。
わたくしはミキストリア。ユリウス・マルキウス侯爵家次女、ミキストリア ユリウス・マルキウスですわ。
お名前をお聞きしても?」
相手が無知な平民でも、修道女ならば一定の敬意を示す必要があった。
「わ、わたしは桂木祥子。
え、っていうか侯爵家? 侯爵家ってどこの国の?」
修道女は祥子と名乗った。家名を先に名乗る不思議な言い方だったが、なぜか祥子が名前だということがミキストリアにはわかった。それにしても修道女なら侯爵家の名前を知っているはずではないのか。ユリウス・マルキウス侯爵家は闇属性を司る闇教会にも多額の寄付をしていたはずだ。
眉を顰めてミキストリアは言った。
「まさか知られていないとは。聖ユグラドシア王国ですわ。聖ユグラドシア王国もご存じでない?」
修道服が見慣れないデザインだったのでミキストリアはここが王国から離れたところかもしれないと疑った。それならば祥子と名乗る修道女が侯爵家を知らないのも無理はない。
「聖ユグラドシア、王国ぅ? 知らない。聞いたこともない。一体なんの話をしているの?」
「あなたこそ何をおっしゃるのです!? 別の大陸から来たのですか?そういえばここは異国風ですわね」
祥子はバッグから小さな手帳を出して開き、指先で何か弄っていたが、これを見ろとミキストリアの前に差し出した。ミキストリアは驚愕した。その手のひら大のものは手帳ではなく、全く何か別のものだった。紙があるべき内部はガラス板があり、光って図形を映していた。地図のようだった。祥子が光るガラスを指でなぞると、地図が大きくなったり小さくなったり、移動して地図の別の部分が映し出されるのを見てミキストリアはさらに驚愕した。そもそも地図に全く見覚えがなく、聖ユグラドシア王国らしき場所を見つけることはできなかったことでミキストリアの不安が募った。ミキストリアも世界全ての地図は見たことがなかったが、王国とその周辺の地形は上位貴族にとっては当然の知識だった。
「まさか……、王国がない……」
「ない。聞いたこともない。この世界にはないし過去にもなかったと思う、ジャングルの奥に隠れているとかの小さな国というのでもない限りはね」
「聖ユグラドシア王国はれっきとした大国ですわ。ジャングルに隠れているなどでありませんわ」
「じゃあ、この世界にはないわ。別の世界にあるのかもしれないけど、この世界にはない」
「本当に、別の、世界……」
ミキストリアは、床に敷かれたラグに座っていたが床の感触は朧げで、少しでも動いたら底なしに落ちてしまうような気がして全く動けずにいた。動こうにも、どこに行き何をするべきなのかもミキストリアは思い浮かばなかった。
先ほどとは変わってミキストリアの方が呆然としていると、前の方でお腹の鳴る音がした。
祥子はしばらく宙を見つめた後、お腹の鳴った音を聞かれたのが気まずいのか、ちょっと困った顔で言った。
「お腹が減ったので何か食べようと思うけど、あなたはどうするの? ミキストリア。
あ、侯爵令嬢様とか呼ばないと処罰されるのかしら?」
ミキストリアもお腹が空いていた。簡単な携行食を昼に摂ったものの、一日がかりの討伐から帰ってきたところだった。気を失っていた間にどのくらい時間が経ったのかはわからなかったが、夕食の時間にはなっていたはずだった。ここが別の世界だというのであれば、侯爵家の威光もおよばないだろう、ましてやここには自分1人。しかも自分では食事を用意することもままならないとなれば、目の前の修道女に頼る他はない。ミキストリアは腹を括った。
「ミキストリアで結構ですわ。
食事をされるなら、わたくしの分もいただけると助かりますわ。
え、あの、わたくしも少々お腹が空いておりまして」
「そう。じゃあ準備するから椅子に座って待ってて。あ、わたしのことは、祥子でいいわ」
そう言って祥子は衝立の向こうに回ると棚から食器を取り出した。どうやらあそこが厨房らしい。
修道女の個室に厨房がついているのは驚きだったが、ただ寝るだけの部屋ではないことからすると執務室を兼ねているのかもしれない。それにしても壁やテーブルも何もかもが見慣れないもので、その素材の見当がつかないものも多くあり、ここが別世界だということをミストリアは認めざるを得なかった。壁際に置いてある黒いガラスがはまった薄い箱は、その用途すら想像できない。
ミストリアは1人だけになってしまったことを急に実感した。
「ピザでいい?」
急に声をかけられてミキストリアは慌ててて物思いから抜け出した。
「ピザが何かわからないから、お任せしますわ」
そう答える他になかった。
(食事をいただけるだけでも、まだ幸運に見放された訳ではありませんわ)
ミキストリアは、前向きに思った。