隠せない想い 連れ子同士の恋物語
幼い頃、僕は母親と一緒に横断歩道を渡っていた時、車に轢かれた……らしい。
らしいというのは、僕がまだ三歳で、覚えていないから。
でも覚えていないのは、事故の事だけじゃない。僕は母親の顔すら覚えていない。
母親はその事故で帰らぬ人となった。僕を庇って、僕を抱きしめたまま。
そんな経緯があるからか、僕は横断歩道が昔から怖かった。
事故の記憶も無いというのに、何故か足が竦んでしまう。
でも、そんな時……手を差し伸べてくれる人がいる。
「充希」
ちょっと不愛想だけど、優しい義理の兄。香江 千尋。
母が亡くなって五年後、父は再婚した。その再婚相手の連れ子。
僕はそっと、その手を取る。
暖かくて、大きな手。
僕の……初恋の人の……手。
※
十一月上旬、そろそろ冷たい空気が本格的に稼働し、嫌でも冬が到来したと知らせてくる季節。
冬の女神はきっとドSに違いない。寒い寒いと震える僕達を、容赦なく叱咤激励しながらニヤついている。さぞかし楽しかろう。でも僕は負けない。冬なんて……おでんで乗り切って見せる。
「よし、あとは弱火でコトコトと……」
2DKのアパートのキッチンで、タートルネックのセーターにジーパン、そしてパンダが踊っている柄のエプロンを付けて立つ男、それが僕。現在高校二年生。バスケ部所属。あだ名は、みっちゃん。
「ん……髪の毛入ってない……よな」
僕の髪は中々に長い。余裕で肩に触れる程。今はお母さんからもらった髪留めで前髪を上げている。
「よしよし、えーっと、蓋蓋……」
鍋に蓋をし、火力を調整しつつ時計を見る。午後六時ちょっと過ぎ。もうすぐ兄が帰ってくる時間だ。
今現在、僕は兄と二人暮らしだ。何故かと言えば、兄は大学に入るのと同時に一人暮らしを始めた。どうしても兄と別れるのが嫌だった僕は、兄に直談判し一緒に住まわせてもらっている。
『兄ちゃんの住んでる所からの方が……高校近いし!』
ぶっちゃけ、実家から通うのと時間的にはそんなに変わらない。変わらないが、兄は結構すんなり承諾してくれた。僕がいると炊事洗濯が楽できる、という理由で。
「ぁ、洗濯物畳まなきゃ」
リビングのソファーにとりあえず積まれた洗濯物。僕はテレビを付け、それを見ながら洗濯物を畳んでいく。テレビの中では、来週あたりに大型の寒波が来ると報じていた。この辺りでも雪が降るかもしれない。
「雪かぁ……本格的に寒くなる前に冬物の服出さないと……」
ふと、リビングに置いてある姿見に目が行く。今着ているのは完全な普段着。もっと可愛い服欲しいなぁ、と思いつつも、高校生の財布事情では厳しい。兄のようにバイトでもすれば違うのだろうが。
「……また痩せたかな……」
姿見を見ながら自分の姿を確認する。長い髪、細い手足、ザ・モヤシ。
一応バスケ部だが、身長は一向に伸びない。入学時から160cmあたりをキープし続けている。
「……ふぅむ」
パっと見、僕は女の子に間違えられやすい。女顔という事もあるが、この華奢な体が一層そうさせるのだろう。もっと逞しい体を持ちたいと努力はしているつもりだが、体重は一向に増えない。
「こころなしか……くびれてないか……?」
セーター越しに横っ腹を撫でてみる。細い、細すぎる。もっと食わねば。もしくは筋肉を……。
あぁ! こんなんだから、街で歩いてて女の子と間違えられてナンパされたりするんだ。もっと男らしく振舞わねば。そしてもっと食わねば。
その時、玄関の鍵が開錠される音が。
そして僕の耳へと届く、その人の声。
「ただいま」
兄だ、兄が帰ってきた!
まるで座敷犬のように玄関へと駆け抜ける。そしてお決まりの台詞を。
「兄ちゃんおかえり! ご飯にする? お風呂にする? それとも……」
「風呂」
「そ、それとも……!」
「風呂」
「それとも、ぼく……?」
「風呂」
容赦ない風呂コールに項垂れる僕。勿論冗談だと付け加えつつ、兄の手荷物を受け取る。
「バイトお疲れ様、兄ちゃん。お背中流しましょうかー?」
「いい」
相変わらずな不愛想さで、風呂へと消える兄上。
勿論風呂掃除は完了していて、兄が帰ってくる時間を見計らってお湯も投入済み。完璧だと言わざるを得ないだろう。ちなみに入浴剤も、肩こりなどに効く奴を用意してある。
さて、兄が風呂に入ってる間に、おでんをもう少し煮つつ皿とか用意を……って、まだ洗濯物畳むの途中だった。まあご飯の後でもいいか……。
「ぁ、やば。バスタオル補充してない」
僕としたことが! これでは兄が体を拭けなくて……風邪を引いてしまう!
そして僕が看病しつつ、体をくまなく拭いて……いやいや、風邪を引いたら元も子も無い!
「お、おじゃましまーす……」
忍び足で脱衣場へと。既に兄は浴室のようだ。お風呂のお湯の中に入っていそうな音がする。語彙力が微妙にアレなのは僕のせいではない、作者のせいだ。
「兄ちゃん、バスタオル置いとくよ」
「あぁ」
フゥ、危ない危ない、危うく兄が風邪を引く所だった。それはそれで……と思ってしまう邪悪な僕よ、消え去れ。兄が風邪を引いてしまえば……辛いのは兄なんだから。
「充希」
脱衣場から出ようとした時、兄から声がかかった。
むむ、なんだろう。シャンプーもボディソープもまだあった筈だが。
「何、兄ちゃん」
「一緒に入るか? 追い炊きするのも勿体無いだろ」
一瞬、思考が停止してしまう。
い、一緒に……お風呂。
えっ、ここ数年、そんな事言われてこなかった!
小学生の時とかは一緒に入ってたけども! 高校生になってまで兄と一緒に……いや、こちらとしては大歓迎だが。
ど、どうする? ここで変に断ると逆に怪しい。兄は当然ながら知らない。僕が兄に恋してるなんて。
で、でも……兄と一緒にお風呂……あぁ! 鼻血が……鼻血が出そうで……
「冗談だ、もう高校生だもんな」
「えっ。ぁ、はい、その通りですわよ」
何故かオネエのような口調になりつつ、そのまま脱衣場を後にする。
おでんの鍋が噴きだしてるのに気が付いた僕は、急いで火を止めに行った。
※
リビングにおでんの鍋ごと持っていき、二人で仲良く食事を楽しむ僕ら兄弟。
テレビでは、アイドル顔負けの女のモデルさんが、実は男だったというバラエティー番組が。
「ほへー、兄ちゃん、あの人……男だって。そうは見えないねぇ」
「そうだな」
むむ、今日の大根は中々にいい出来だ。口の中に入れた瞬間とろけるように無くなる。そして染みてくる少し濃いめの味付け。お母さん程では無いにしろ、僕も料理が上達してきたような気がする。
ちなみに僕に料理を教えてくれたのは新しい母親その人。僕の事を本当の息子のように可愛がってくれて、手料理からお菓子作りから編み物から……いや、今思えば、それって娘とやるもんじゃない? 今更だけども。いや、僕の偏見かもしれないが……。
「充希、ご飯おかわりあるか?」
「あぁ、うん、勿論。貸して」
と、茶碗を渡せと催促する僕。しかし兄は自分で茶碗を持ち、炊飯器の前へ。
むぅ、僕がよそってあげるのに。
「……充希、そろそろ進路考えとけよ」
兄はご飯をよそいつつ、そんな事を。
進路って……いや、僕まだ高校二年生なり。
「兄ちゃん、まだ進路とか別に……」
「三年になってからじゃ遅い。大学に行くにしろ就職するにしろ……」
そんなもんだろうか。まあ僕は就職かな。早く働いてお金稼いで……兄ちゃんに楽させてあげたい。
「……家事も程々でいい。勉強に集中しろ」
むむ、そんな事言われても……。家事をやるって条件で僕はここに住んでるわけだし……。
いや、もしかして、これは遠回しに実家に帰れと言われてるのでは?
兄からしてみれば、憧れの一人暮らしに弟が乱入してきたのだ。いくら家事を熟す超かわいい弟とは言え、邪魔かもしれない。
邪魔、というワードが頭の中に浮かぶと、とたんに不安になってくる。
兄ちゃんは……僕の事が邪魔? どれだけ上手に家事をこなしたとしても……弟と一緒に住むなんて、正直ウザいとか思ってるかも……。
「……兄ちゃん、僕……要らない?」
ってー! 何メンヘラみたいな……いや、まさしくメンヘラだ。めんどくさい奴だ、これぞ邪魔でしかない奴だ! やばい、取り消し! 今の取り消して!
「い、いや、ごめん、兄ちゃん、なんでもない……」
兄はご飯を山盛りよそってきて、そのまま定位置へ。
そして大根を取皿に取りつつ、箸で切り分けて一口。
「充希、ありがとな」
……ん?!
え、何?
「充希が居てくれるおかげで、俺は随分楽出来る。家事は程々にして勉強しろって言ったのは、別に充希が要らないって意味じゃない」
いや、待った、待って、待っ……
「むしろいつまでも居て欲しいと思ってる。ただ少し先の事も考えて欲しいってだけだ」
「う、うん……分かった」
いつまでも……居て、ほしい?
それってプロのポーズ? プロのモデルさんがポーズを決めるって意味では無く、生涯一緒に居て欲しいっていうあの……
やばい、違う、兄ちゃんは決して……そんな意味で言ったんじゃない。
いつまでも一緒に居られるわけがない。兄ちゃんだってイケメンだし、絶対彼女とか出来るし、いつかは結婚するだろうし……。
……でも許されるなら……その時がくるまで、一緒に居たい。
僕は……兄ちゃんの事が……好きだから。
※
翌朝、本日は休日。学校は休みだヒャッハー!
よっしゃ! 今日も張り切って家事をこなすハイスペックな弟を……って、なんか寒い。めっちゃ寒い。
布団からもぞもぞ脱出し、チラっと窓の外を見る。
「うわ」
思わず声が出た。窓の外は真っ白な……雪景色。白銀の世界が広がっている。
いやいや、寒波来るの来週って言ってたやん、嘘か、あれ嘘か?
「やばい……途端に寒くなってきた……」
震え出す体。油断してパジャマは普通に薄手の奴だったから、めっちゃ冷える。部屋の中でも吐く息は白い。とことん白い。
こんな時は……昨日の残りのおでんを食そう、そうしよう。
その前に歯磨いて洗顔して寝ぐせ直して色々して……
「充希、起きてるか?」
その時、僕の部屋の扉をノック無しで容赦なく開け放ってくる兄上。
「お、おはよう、兄ちゃん……外見た? 雪だよ雪」
「あぁ、それ関連なんだが……今日急にバイトが入った。どうやらこの雪で身動き取れない奴が数人いるらしくてな」
「あぁ、そうなんだ……うん、分かった、今から朝食の支度を……」
「いや、外で食おう。支度しろ」
ん? 外で食う? 支度しろ?
いや、僕も行くってこと? 何で……
「充希、お前……すね毛生えてるか?」
「何いきなり……兄ちゃん知ってるでしょ、僕これまで頭部意外の体毛生えてきた事無いよ」
「……なら大丈夫か。化粧とか……もってないよな」
なんだ、なんの確認だ。
高校生の男子に化粧は持ってるか? って……んなもんあるわけないでしょう。いくら僕が女の子っぽいからって……。
「じゃあ支度してくれ。三十分以内だ」
そのままリビングへと消える兄。
三十分……まあ、それだけあれば支度は終わるけども……。
でもどうしたんだ、いきなり。すね毛だの化粧だの……。
※
それから見事に準備時間である三十分を三十分オーバーした。つまりは一時間かかってしまった。言い訳をするならば、お気に入りの真冬用のセーターやらコートやらを探していたためだ。僕としたことが所定の場所に仕舞ってないなんて……。
「兄ちゃんごめん、遅くなっちゃって……」
「大丈夫だ。言い訳はいくらでも通る。急な呼び出しだしな。それと充希、お前……メイドは好きか?」
メイド? 何、いきなり……。
メイドは好きかと聞かれて嫌いと答える男子は少ないだろう。僕は別に女性が嫌いってわけじゃない。ただ初恋の相手が兄ちゃんだったって話だ。
「まあ、好きかと言われたら好きだけど」
「よし、じゃあ行くぞ」
一体なんなんだ……と思いつつも兄と一緒に久々にお出かけだ。なんだか外は見た目からして寒いが、僕の心の中では桜が咲き乱れている。しかも朝食を外でとか……どんな贅沢だ。
玄関を施錠しつつ、兄と一緒にアパートの敷地外へ。
ちなみに本日の兄のファッションは、黒のスキニーに橙色のダウンコート。ダウンの下はTシャツのみ。
いやいや、お兄様、雪って冷たいのよ、知らないの? と突っ込みたくなるが、ダウンが暖かいからそれで十分らしい。冷え性の僕には理解できないが。
そして僕は兄と同じく黒のスキニーに黒のジャケットコート。中は兄とは違ってユ〇クロのヒートなアレにタートルネックのセーター。手には手袋もしてるし、マフラーも巻きまくっている。頭部にはニット帽にマスク。
「兄ちゃん……寒くないの? 首元とか……」
兄は短髪だ。首元は非常に寒そう。僕お手製の、母親仕込みの編み物スキルで作成したマフラーを付けて行けと言ったが無駄だった。兄は暑いからいいと拒否。兄よ、雪って冷たいのよ、知らないの?
「大丈夫だ」
その言葉通り、兄は身震い一つしない。ダウンのポッケに手を突っ込んではいるが、それ以外は淡々としている。
あぁ、僕は髪長めで良かった。マフラー巻いてても、隙間から冷たい空気が入り込むかもしれない。長い髪はそれを防いでくれる。
そのまま駅前の大通りへと出るべく、横断歩道の前で立ち止まる。
ぶっちゃけ、車なんて一台も走ってない。いきなりこんな雪降ったからか、みんなスタットレスタイヤなんて装備してないんだろう。
歩行者も次々と信号を無視して横断歩道を闊歩している。そんな中、兄と僕は行儀よく歩行者信号が青になるのを待つ。
兄は当然ながら知っている。僕の横断歩道恐怖症を。赤信号で渡るなんて以ての外だ。たとえ車が来てないとしても。でも青信号でも安全とは限らない。実際、僕と母が轢かれた時、歩行者用の信号は青だったのに車が突っ込んで来たんだから。
信号が青に変わる。
当然ながら渡らないといけない。
何度も左右を確認する。大丈夫、車なんて来てない。それでも何度も……
「充希」
兄が手を差し伸べてくれる。
その瞬間、僕は全く別の事を考えてしまう。
あぁ、なんで僕、手袋なんてしてきたんだろう。
手袋してなかったら、直接……手を繋げたのに。
「……兄ちゃん……恥ずかしくない? 弟と手を繋ぐなんて……」
「別に。弟と手を繋いで何が悪い」
「いや、その……」
ぎゅ……と、兄の手を握る。
手袋越しでも分かる兄の手の感触。めっちゃ冷たい。仕方ない、僕の手袋で温めてやろう。
「…………」
そのまま横断歩道を渡り切る。
渡り切っても……手を離したくないと訴える僕がいる。
手を離せ、じゃないと……兄に気付かれる。僕の、この心臓の音も聞かれるかもしれない。
兄は決して自分から僕の手を振り払わない。
僕が離すまで繋いでてくれる。
離せ、離せ……離せ……
そっと、僕は兄の手を離した。
寂しいが仕方ない。兄に恋してるなんてバレた日には……一緒に暮らせなくなるかもしれない。
「充希」
でもその時、兄は僕の肩を抱き寄せてくる。
え、何……何が……何が起きてますか、神様。
「くっついててくれ、寒くなってきた」
「……兄ちゃん……」
だから言ったのに……ダウンの下にTシャツ一枚なんて攻め過ぎだって。
まあ、いいだろう。兄ちゃんがそういうなら……仕方ない。
僕は兄ちゃんの腕に抱き着きながら、その手を手袋で温めるように握り締める。
「兄ちゃん……恥ずかしくない……?」
「別に……」
僕はここぞと兄の腕に抱き着く。
あぁ、雪グッジョブ。
冬、ありがとう。
兄ちゃん、兄ちゃん……大好きだよ……。
好きが止まらない。もうずっとこのまま……歩いていたい。
※
兄ちゃんのバイト先に到着した。そこは喫茶店。
そういえば、兄ちゃんのバイト先に来たのは初めてな気がする。何故か、兄ちゃんは僕がバイト先に来るのをずっと拒んでいたから。
「ここが兄ちゃんの……なんかいい雰囲気だね」
「あぁ。自給もいいぞ」
まるで都会の金持ちが山奥に建てる別荘のような建物。丸太をそのまま利用しましたと言わんばかりの、洋風な建造物。出入り口の前にはイーゼルが設置してあり、そこにはまだ準備中の文字が。
「裏口から入るぞ、充希」
「ぁ、うん」
そのまま裏へと回り、ごく普通のドアを通って中へ。既に暖房が効いており、まるで天国かと思わざるを得ない空気が。
「充希、店長と話してくる。適当な席に座って待っててくれ」
「うん、分かった」
そのまま兄は事務室っぽい部屋へ。僕は店の中、ホールへと入り、言われた通り適当な席へと。
店の中は落ち着いた雰囲気で、なんだか山奥の別荘に来たと錯覚させられる。
「こんな店あったんだ……もっと早く教えてくれれば良かったのに……」
いいつつメニューを手に取りページを適当に捲る。
コーヒーの種類が結構ある。僕はよく分からないけど、そのあたりの喫茶店でこんな種類のコーヒーは見た事ない。それにサンドイッチの写真……それを見てるだけでお腹が空いてくる。あぁ、お腹の虫が騒ぎ出した。兄ちゃんまだかな。弟はハラペコ、ペコリーヌよ!
「……ん? 何だコレ。執事のリップサービス……」
執事……?
リップサービス? えーっと……何々……
「お好きな執事を指定して頂けます……お嬢様のお好みに合わせた接客を……」
ちょっと待って、何この文章……。
ここ喫茶店だよね。執事の指定って……ホストじゃないんだから……。
「例……お嬢様、口元にクリームが……動かないで下さいね……? まったく、いつまでも甘えん坊……ってー! な、なにこれ……」
ちょっと待って、兄ちゃんのバイト先……え、俗に言う、執事喫茶?! メイド喫茶の逆バージョン?!
この街にそんな店があるのがまず驚きだけど、まさか兄ちゃんがそこに……。
「充希、モーニングでいいか?」
「ぁ、兄ちゃん、この店……」
と、現れた兄に目線を送る。
しかしそこに居たのは兄の姿をした……執事。
いや、執事の姿を兄……!
「に、ににににににに……にいちゃん?!」
「あぁ。お前の兄ちゃんだ」
なんか眼鏡してる! 燕尾服着てる! それカラーコンタクト? っていうか……
「兄ちゃん……カッコイイ……」
「……あぁ。どうも。飲み物はココアでいいか?」
「う、うん、それで……」
「了解」
そのままキッチンらしき所へと消える執事……いや、兄ちゃん。
マジか、マジでか、兄ちゃん執事だったのか。
いや、執事が兄ちゃんだったのか? いや落ち着け、深呼吸しろ、僕。
「やばい……兄ちゃんカッコイイ……」
思わず再び声に出てしまう。
一体どうなってるんだ、今日は。兄ちゃんに抱き着けるわ、執事姿を見れるわで……至れり尽くせりとはこのことか。
しかしその時、僕は気づいてなかった。
何故僕がここに呼ばれたのか、その意味を……。
※
朝食を食べた後、ココアを飲んでゆっくり。
サンドイッチは少しスパイシーなソースと、それでいて甘いクリームが入ったのもあって美味しかった。今度僕も作ってみよう。
兄ちゃんも僕の向いで一緒にコーヒーを飲んでいる。
コーヒー片手に新聞を読む執事……なんか絵になる。
「兄ちゃん……ここって執事喫茶……って奴だよね」
「あぁ。流石にバレたか」
「いい店だね、僕もここでバイトしようかなぁ」
「……成績、十位以内に入れたら……店長に口利いてやってもいい」
「え、僕もう十位以内だけど……」
ぁ、兄ちゃんなんか固まった。
「今のは冗談だ」
「いや、確かに聞いたからね、そっかそっか、僕ここで働こうかなぁ」
これでまた……兄ちゃんと一緒に居られる時間が長くなる。
一緒の店で働いて、一緒に汗を流してお金を稼ぐ。
あぁ、夢みたいだ。
「そんなに働きたいのか?」
「まあ、一回くらいバイトはしてみたいけど……」
「……じゃあ、体験してみるか?」
え、マジで。
「するっ、やる!」
「分かった、ちょっとこっちこい」
そのまま兄ちゃんと一緒に、先程の事務室っぽいところへ。
そこはホールとは違い、あからさまに地味な部屋。暖房がないのか、めっちゃ寒い。
「店長、俺の弟です。ここで働きたいらしくて、良かったら見てもらっていいですか」
「ん? あぁ、千尋君の弟君ですか。聞いてた通りの子ですね」
店長……も執事だった。
兄に負けず劣らずのイケメン。三十台半ばくらいだろうか。兄はスクエアの眼鏡だが、この店長はリムレス。なんかクールだ。クール眼鏡だ。
「いいでしょう。しかし燕尾服のサイズがあるかどうか……ちょっと見てきますね」
「ありがとうございます、店長。じゃあ充希、俺はホールに居るからな」
そのまま兄ちゃんは出て行ってしまう。
おおぅ、これが社会……社会の荒波!
でも頑張るぞ。僕はここで働いてお金を稼ぐんだ。やる気だ、やる気を見せるんだ……!
「申し訳ない、一番小さなサイズが今切らしてて、これしかないのですが……」
「はい! なんでも大丈夫です! 頑張ります!」
やる気を見せる僕。
第一印象はばっちりの筈だ!
「そうですか、助かります。では……隣のロッカールームで着替えてきて下さい」
「はい!」
そして手渡された服。
……ん? なんか……フリルが付いてる?
それになんか布の面積が小さいような……。
「あの、これって……」
「ミニスカメイド服です。よろしくお願いします」
……やばい、やる気なんてないです、ごめんなさい。
※
今更辞める、なんて言い出せず、僕はロッカールームでその衣装に袖に通す。
いや、これ半そで……でも布の質はいい。シルクっぽい、ツルツルしてる……。
「ちょっと待って……なんで僕……メイド服着せられてるの?」
そういえば、兄ちゃんが出かける前にメイド好きか? とか聞いて来たけど……まさか、これまでのやり取りはこのため? 僕にメイド服を着せる為? もしそうだったらとんだ策士だ。孔明の罠だ。
「……うぅ、でも実は着るの初めてじゃないんだよな……」
実は高校一年の文化祭で、メイド服は着用済みだ。
メイド喫茶をやる事になり、何故か僕もメイド役として配属させられた。女子に弄ばれた思い出が……僕の黒歴史の一つだ。
「でもあの時はミニスカでは無かったけども……」
うぅ、まさか僕の人生でミニスカを履く時が来ようとは。ん? この袋なんだろ。なんか白い紙袋の中にも衣裳が……
「ってー! じょ、女性用……下着?」
こ、これを付けろと?!
ちょっと待って、落ち着け、そりゃ確かにスカートの中にトランクスなんて履いてたら幻滅されるだろうさ。でも基本スカートの中なんて覗かれるわけないし、このお店の客層はお嬢様……つまりは女性客が大半なんだ。
「でも……僕がミスしたら兄ちゃんが怒られるかも……」
それは……なんか嫌だ。
しょっぱなから兄ちゃんに迷惑をかけるわけにはいかない。
いや、間違ってないよな? 僕のこの選択……間違った方向に行ってないよな?
「っく……大丈夫……こんなのただの布切れ……」
一通りメイド服を着用。
ロッカールームの姿見の前に立つと、そこには……当たり前だけど僕が。
そりゃそうだよ、メイド服着たって、僕は男なんだから。
ちなみに頭にはカチューシャ。ワンポイントで桜の花が付いている。ちょっと子供っぽくない?
「いや、そういう問題じゃ……」
「充希、着たか?」
その時、ロッカールームの外から兄ちゃんが声を掛けてくる。
僕は急いで返事をしつつ、元々着てきた服を空のロッカーへとぶち込みつつ外へ。
ロッカールームの外には、兄ちゃんの他に店長も待っていた。
マジマジと僕を観察してくる店長。兄ちゃんは……なんか凄い横向いて震えてる。いや、絶対笑ってるだろ。今日の晩御飯に兄ちゃんの嫌いなアボガド使ってやるからな。
「素晴らしい、予想以上です。これだけの逸材、なかなか巡り会えません」
「あざす……」
滅茶苦茶やる気のない返事をする僕。
「メイクもいらないくらいですね。しかし軽くしましょうか。ここは寒いのでホールで……。ん? ぁ、しまった。靴が……」
ん? 靴?
あぁ、靴はそのまま履いて来たスニーカーだ。
「仕方ありません、今からでも買ってきてもらいましょう。千尋君、頼めますか?」
「分かりました。充希、足のサイズは?」
「えっと……22cm……」
「分かった」
そのまま裏口から執事服のまま外へと出る兄ちゃん。
えっ、そのままで行くの?! 目立ちまくらない?!
「心配ですか? 充希君」
「え、いや、まあ……」
「ですよね。靴は実際に履いてみないと分からない物……充希君もついて行って下さい」
え、そっち?!
いや、僕は兄ちゃんが目立ちまくるかもしれないって意味で心配なわけでして……
「外は寒いのでコート着て行ってくださいね。すぐそこの駅前の靴屋です」
「は、はひ……」
※
女子ってすごい。僕は素直にそう感じた。この真冬と言ってもいい冷気の中、ミニスカで居続ける彼女達に尊敬の念を隠し切れない。
いや、滅茶苦茶寒い、冗談抜きで凍死する。コート着てなんて言われたけど、ぶっちゃけ意味ないレベルで寒い。
……そして、人の視線が凄い。すれ違う人みんな僕を見ている。
「……うぅ、靴屋……靴屋……」
駅前の靴屋、ゴリラ屋。
急いで店の中へと入り、兄ちゃんを探す。どこだ、兄ちゃんどこだ……!
「いらっしゃいませ」
その時、店員らしき男の人が話しかけてきた!
「ぁ、ど、どうもー……」
ペコリと会釈しつつ立ち去ろうとする僕。
いや、普段どうもーなんて言わないだろ。そのまま無言で通り過ぎてるだろ、普段なら。
「お客様、本日はどのような靴をお探しですか?」
「えっ、いや……あの……」
どんな靴って……メイド服に合う靴を! なんて言えない!
でも今僕はスニーカー! 絶対その衣装に合う奴買いに来ただろって店員さんは言いたげだ!
「よろしければお手伝いしますが?」
「え、えと……いや、あの……」
た、助けて……兄ちゃん助けて……!
「充希」
その時、いつもの落ち着いた声が。
そして手を差し伸べてくれる、その人が。
「すみません、うちの妹がご迷惑おかけしました」
そのまま僕の手を握って、店員さんの元から離れる兄ちゃん。
妹……僕、今妹って言われた。
こんな格好してるから、気つかってくれたのか、兄ちゃん。
妹だったら……良かったのにと今まで何度か思った事がある。
今、ほんの少しだけ……夢がかなった気がした。
「兄ちゃん……ごめん」
「いいから。そこ座れ」
靴を試着するための、スツールへと座る僕。
そのまま兄ちゃんは僕の履いていたスニーカーを、優しく脱がしてくる。
なんか……くすぐったい……凄い所作が丁寧だ。まるでお嬢様にでもなった気分……。
「充希、この靴どう……って、お前……」
「え? 何? ……っ?!」
スカートを抑えまくる僕。
見えていた。スカートの中に履いている女性用下着が。
「……頑張ったな」
「う、うん。頑張った……」
そのまま無言で新しい靴を履かせてくれる兄ちゃん。
なんだか……顔が赤くない? 僕の勘違いだろうか。それとも、弟がこんな格好してるから恥ずかしいんだろうか。
「どうだ、痛くないか」
「うん、ぴったり」
黒のレディースのローファー。無難なデザインだ。これならメイド服でも違和感はないだろう。たぶん。
「じゃあそれ履いてけ。会計してくるから」
「ぁ、兄ちゃん、僕も……」
行く、と言いかけて急いで立つ。
その拍子に履きなれない靴でフラついてしまう僕。
でもそんな僕を、兄ちゃんは抱きかかえてくれる。
「ご、ごめん、兄ちゃん……」
「……充希、ちょっといいか」
「ん? 何……」
そのまま、兄ちゃんは僕を抱きしめてきた。
抱きしめて……頭を撫でてくる。
え、ちょ、いや、あの……
「兄ちゃん……?」
「……もう少しだけ……」
兄ちゃん……どうしたの?
なんで……いきなり……
僕が……メイド服着たから?
可愛い恰好してるから?
やばい、やばい、心臓がヤバイ。
もたない、もう破裂する、今破裂する。
「充希……」
「な、なに?」
「俺が……ずっと守ってやるからな」
……え、兄ちゃん……?
どうしたの? 一体……兄ちゃんどうしちゃったの?
あぁ、きっとこれ夢なんだ。
メイド服きたり兄ちゃんに抱き着かれたり……おかしいと思ったんだ。
夢なら納得だ。そしてもう満喫したから……もう覚めていいよ。
でもその時間は続く。ずっと、僕はその時間に居続ける。
当たり前だ、これは現実なんだから。
「兄ちゃん……?」
兄が見つめてくる。
もう少しで……唇が届きそうで……
このまま……兄ちゃんと……
「お客様?」
その時、店員さんがやってきて僕達は急いで離れた。
そして兄ちゃんはこれ下さい、といつもの調子で靴を購入。
そのまま速攻で店を後にする僕ら。この間、わずか一分弱。
再び、冷たい極寒の冷気に晒される。
でも今は兄ちゃんがいる。兄ちゃんに抱き着いてれば……安心だ。
……兄ちゃん、さっき、キスしようとしてた?
そう尋ねたくて、でも出来なくて……
そんなわけないと頭の中では分かっていても……どこか期待してしまう。
そして執事喫茶へと戻ってきた。
裏口から入り、屋内に入って安心感に襲われる。
「はぁー……寒かったね、兄ちゃん」
「……そうだな」
兄ちゃんはいつもの兄ちゃんに戻っていた。淡々としていて、僕の前を歩く兄ちゃん。
その背中がカッコよくて、僕はいつだって憧れていた。そして恋をした。
この想いは……いつまで隠し通せるだろうか。
いつか、爆発してしまうのではないか。
「充希」
「ぁ、うん、何……」
兄ちゃんに呼ばれて、いつもどおりにその顔を見つめる。
みつめたと思った瞬間……唇に柔らかい感触が。
目の前には……兄ちゃん。
兄ちゃん?
兄ちゃん……
兄ちゃん…………
「メイド、頑張れよ。充希」
そのまま僕の頭を撫でて、ホールへと消えていく兄ちゃん。
唇の感触を、指でなぞる。
今、確かに……兄ちゃんとキスした。
あぁ、爆発したのは……兄ちゃんの方だったのか……。
「兄ちゃん……好き……」
家に帰ったら……兄ちゃんに告白しよう。
ここまでされて黙ってる僕じゃない。
今夜は全力で……兄ちゃんに甘えるんだ。
バイトで頑張った……ご褒美に。
最後までお読み頂きありがとうございます。
この作品はフィクションです。