むしのいどころ
幸福蟲。
幸福な者の前にのみ現れるとされる蟲。
実在するのかも分からない。
幸福感に満ち溢れた生活を送っている人。
そんな人達は目の前の蟲なんかに興味は示さない。
ましてやそれがなんの蟲なのかなど。
コーヒーを飲み干す。
コートを手に取る。
額のなかの妻に行ってきます。
今日も幸福蟲の研究を進める。
妻亡き子なしの仕事蟲の私が幸福蟲の研究。
皮肉なものである。
今となってはなぜこの蟲に魅せられたのか分からない。
妻は研究熱心な私を好きだと言ってくれた。
それだけのことだったのかもしれない。
とは言え私とて不幸なつもりはない。
妻がプレゼントしてくれた万年筆と研究する日々。
それなりに充実感も幸福感もある。
お蟲様は認めてくれない。
それともやはり空想上の生き物なのか。
しかしこれ以上どう幸せになるのか。
インスタントコーヒーをつくる。
研究室に置いてるマグカップ。
これも妻がくれたものだった。
取っ手に指を通し机に向かう。
陶器の割れる音だ。
世界が歪んでいる。
割れたのはこのマグか。
息ができない。
心臓が止まっている。
最期まで共に過ごした万年筆。
一匹でも幸福蟲は。
いない。
私の研究も無意味だったわけだ。
研究した日々も時間も無駄だった。
そんなことないとあいつなら言ってくれるだろうか。
「そんなことありませんよ」
「お疲れ様でした」
蟲だらけの妻の手を掴む。