ヘリリング・ジョーカー
[1] ~Lady side~
初めての彼氏ができて2ヶ月目の記念日。この日、私は彼の家に遊びに来ています。お恥ずかしいことに、この歳にして男の人の部屋にお邪魔するのは今日が初めてで、もう何もかもがドキドキです。棚に置かれたロボットのフィギュア、部屋を漂う独特なにおい、ちょっとごちゃごちゃ散らばっている衣類、今いるこの部屋のすべてが私にとって新鮮です。これが男の人の部屋かぁ、そんなことを思いながらも私は今、目の前の彼とトランプゲームをしていました。ばばぬき。
一人暮らしの部屋にはちょっと贅沢にも思える、木製の明るく茶色い4人テーブルを挟んで、向かい合わせに座る私と彼。ちょっとかっこいいなぁと見とれている私を知ってか知らずか、彼は自分のカードをとても真剣な表情で見ていました。ちなみにお互いのカード残数は、私が1枚で、彼が2枚。今まさに私の勝利でゲームが終わるか、彼の順番に持ち越されるかといった大事な場面で、彼が真剣になるのはよく分かります。
それにしても本当に負けず嫌いなのでしょう、熱心に自分のカードを見る彼のその目は、もはや睨んでいるといってもいいくらい。さらに凄まじい眼力の上にある眉毛は逆ハの字になっていて、鼻の穴はいつもよりふたまわりくらい大きく、口の形もきれいな「へ」の字になっています。おまけに何だか顔中のありとあらゆる毛穴から細かい汗が吹き出ているようで、さすがに私もどうしてババ抜きにここまで本気になれるのかなと、彼を不思議に思いつつ、彼のそういうところに魅力を感じ改めて惚れ直してしまうこともまた事実で。そう思ったらにやけてしまいました。
いけないいけない。彼に対する妄想ばかりで、次は私がカードを抜く順番であることを忘れてしまうところでした。気を取り直し、改めて彼のカードを見ます。右と左、どちらかがみにくいばばさん。彼がこれほどにまで真剣になっているのだから、私もそれに応えなくてはなりません。真剣に。さて、右と左のどちらがばばさんなのでしょうか。
ジィ~、私も負けないくらい両目に力を込めて彼の手元のカードを見つめたとき、ここで初めて気がついたことがあります。それは彼の手が、小刻みにぷるぷると震えていたのです。いったい彼はどれだけの強い思いを、このゲームにかけているのでしょうか。そこまでして私とのカードゲームを楽しんでくれているのかな。またまたちょっとにやけてしまいながらも、1つ1つの彼の行動が愛らしくて、さらにまだお付き合いが始まって二ヶ月しか経っていないという初々しいマホウにもかけられて。私の心の中はてんてこまいに舞い踊っています。大好きな彼、トランプゲームに真剣な彼。
うはうは気分に浸りながらも、まるで残像を描き出しているかのように震えている彼の二枚のカードについて、どちらを引くべきか考えてみましょう。よくババ抜きは心理戦っていうけれど、一体どんな心理が働いて、どう相手の考えを見抜いたらいいのか私にはさっぱりわかりません。強いていうならば、右側のカードが判断できるかできないかくらいに微妙にでっぱっているところでしょうか。
もしかしたら、これはあえてばばさんのカードを出っ張らせて、私に引きやすいようにしてるのかな。それとも逆に出っ張っていない左側のカードがババさんで、出っ張っているカードを避けるという心理を使ってばばさんを引かせようとしているのか、考えれば考えるほどに分からなくなってくるこの状況。こんなにも私を悩ませる彼はきっとババ抜きのプロなのかもしれません。
相手のカードを見ている私の目線を、ちょっとだけ上げて、彼の表情を伺ってみれば、彼はいったいどこを見ているのやら、だだただ呆然としているようでした。これは視線でどちらがババであるかを見抜かれないようにしているのかも、やっぱり彼は只者ではないのかもしれません。
こうなればもう直感勝負です!どれだけ考えても答えが見えないのならば、むしろ何も考えずに直感でカードを引くしかありません。えいや、と勢い良く彼のカードを引こうと手を伸ばしたとき、彼は「うわぁぁぁぁぁぁぁぁあ」っとこれまた勢い良く叫び出しました。
[2]~Men Side~
今までの人生において、これほどまでにも危機的状況に陥ったことが、かつてあっただろうか。いつもの、見慣れた棚の上のロボットアニメのプラモデル、しばらく換気していない重くどんよりした部屋の空気、一週間分以上は脱ぎ散らかしてある服の絨毯。今いるこの部屋の全ては何も変わっていない、当たり前な空間だった。そんないつもの慣れた自分の部屋に、今日はちょっとだけ特殊な要素が混じっている。香菜さん。
彼氏彼女と呼ばれるような関係を始めてからちょうど二ヶ月経ったこの日である。彼女を「恋人」という言葉を使って表現するには、少しおれの恋愛経験が足りておらず、恥ずかしい。だったら彼女は何者なのかということになるのだけれど、それはやっぱり「恋人」という言葉が最も当てはまるのだろう、恥ずかしい。
とりあえず、いつもの部屋にはおれの彼女さんである香菜さんがいた。香菜さんはふわふわと辺りをキョロキョロ見回したり、ときどき肘の辺りをぽりぽりと掻いてみたり、時には左右に揺れてたりと、せわしない様子だった。おれもなんだか落ち着かず、盛りだくさんに話したい気持ちとは裏腹に、口からは言葉がなかなか出てこなかったので、いてもたってもいられずトランプのゲームをしようと切り出したのがさっきの話である。ばばぬき。
もともとテーブルは広くゆとりのあるものが良いと思い、それで勢いで買った木製の4人テーブルを挟んで、俺と香菜さんは座っていた。
さて、ここに来て冒頭の文を振り返る。そう、今までの人生において、こんなにも危機的状況に陥ったことがあっただろうか。俺は今。大変に危機的状況なのだ。
手元を見れば二枚のカードを握っていた。黒い柄と数字が書かれたカードと、もう一枚のばば。しかし今の俺にはそんなことまるでどうでもよかった。
俺には手元のばばの他に、大きな、大きな、より悪悪しいジョーカーを握っていたのだ。お腹の部分、いや細かくはおしりの穴付近に。このジョーカーとの壮絶な死闘を、さっきから天使のような微笑みを浮かべる香菜さんに隠れて繰り広げていたのだ。
「お」「な」「ら」。今闘っているジョーカーの名前はそう呼ぶ。やつは俺の体内から「わしを出せ出せ」とおしりの穴を刺激するのだ。ここでもしヤツに負け、天使の香菜さんの前で盛大にジョーカーの鳴き声を晒そうものなら、その後どうなるか容易に想像できる、したくない。だからこそ、なんとしてでもやつに打ち勝たなければならないのである。
ああ、こんなにもスリリング、いや、屁リリングなババ抜きが他にあるのだろうか。なんてことを思った途端に、「ヘリリング」という響きに共鳴してジョーカーが暴れだした。
ジョーカーの凄まじいおしりの穴への攻撃によって、おれは自我を失いそうになった。静まれと願うたびに、俺の目は鋭く、その上の眉毛は逆ハの字に逆上がり、どんどん鼻の穴が大きく開いていき、唇は踏ん張りのあまりにへの字になるのを感じる。おまけに全身の毛穴という穴からは気持ちの悪い汗がふき溢れんばかりに噴き溢れていた。
気を散らそうと、頑張って香菜さんを見てみれば、香菜さんはにっこり微笑んでいた。なんだかにやけているような、それはそれは癒やし要素満載の天使的な笑みを浮かべて。これはもしやおならを我慢していることがバレて、嘲笑われているのかも、そう思ったら気が気でなくなった。それに合わせて、おしりの穴の中のジョーカーはさらに暴れだす。
あまりの衝撃に耐えるのも一生懸命で、いつしか体が震えだしていた。手に握るカードを見れば、二枚のカードはまるで残像を描くかのごとく、またその一枚のばばが笑い震えていように見えた。
やばい、やばいやばいやばい。ヘリリング・ジョーカーがついに自身の持つ底力を発揮し、全身全霊でおれの門をこじ開けようとする。このときおれは不思議な感覚に陥っていた。
このままおならをしてしまっても、いいのかもしれない。もしかしたら何も起こらず、平和な時間が戻ってくるのかもしれない。すかしっぺなら、香菜さんに気づかれることもないかもしれない。そこまで思って、じーっと俺を見つめてくる香菜さんの瞳に気がついて、俺は我に返った。魂が一瞬旅立っていたようだ。
次の瞬間、突然香菜さんは「ヨシッ」と小さくつぶやいたかと思ったら、本当にいきなり素早い動きで右腕を俺に向かって直進させてきた。俺は一瞬訳がわからずひるむ。すると、この時を待っていたよ、とばかりにジョーカーが勢いよくおれの最後の砦を突き抜けるのを感じた。すべてが一瞬の出来事だった。ヘリリング・ジョーカー。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁあ」。部屋に響き渡る俺の声。その後には、新しい時間が、一秒、一秒、とすばやく、そして緩やかに、そして確実に流れていった。
[3]~heriling joker~
ぶおおおっ。
6畳ほどの部屋に、化け物の雄叫びのような凄まじい音が響き渡った。目を見開く女の姿、そして同じく目をかっ広げる男の姿が映し出される。
「ごめんなさい!」
男の大きな声が、まるで泣きそうな、震える繊細な音として女の耳に入り込む。女は困惑したような表情を浮かべていた。
「えっと、なんて言ったら良いのかな」
「おならをしました」
屈辱を隠しきれないのか、男の仕草にぎこちなさがある。
そこから1,2,3,4と数えて少し時間が経った後、
「あっはっはっはっはっは」
女の甲高い笑い声が、さっきの化け物の雄叫びに負けないくらいの大きさで部屋を覆った。 「ずっとがまんしてたの?」
うふふ、女の表情はとても明るかった。「がんばってたんだねっ」
「嫌いになったかな」男の声は弱々しい。女はこの言葉に再び目をまんまるにし、また笑った。
「私、勝っちゃった」女は誇らしく、楽しそうに言う。えっ?戸惑った男の顔の前に、二枚のカードが並ぶ。どちらも同じ数字だった。
「ばばぬき。私の勝ちだよ」女は楽しそうに言う。それがあまりにも明るいので、男もいつしかつられて微笑んでいる。
「まいったなぁ、それじゃなんかおごってあげるよ、出掛けに行こう」男の提案に、女はやったと立ち上がる。
「おならの音、おっきかったね」
部屋を出ていく最後まで、二人の明るい雰囲気は途絶えることがなかった。