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手紙

作者: 水星

 雪の匂いが、した。

 便箋を鼻先に近づけたが紙の匂いしか確認できない。だから雪は彼の想像の中で香ったものだ。正確には雪に日光が当たったときの大気の香り。そんなにも強くありありと香りを想起したのは久しぶりで、彼は幻想を追い払うように軽くかぶりを振った。

 手紙はむかし彼が調香師を務めた化粧品会社から転送されて来た。今では買収されて大きなブランドグループの一部になっているが名前は残っているし手紙も届く。彼の住所を把握して、転送の手間をとってくれる良心的な社員もまだいるらしい。

 差出人の名前はない。エアメイルの消印は日本だった。アジアの国だ。ジャポネスクにシノワズリー、嫌いではないが詳しい分野でもなく、ぼんやりした印象のまま彼は手紙を読み始めた。

 堅苦しいフランス語で、自分は日本に住む女だと手紙の主は語る。貴殿の作った香水を購入しました。自分には不相応な買い物でありましたが、魂の贅沢をしたかった。

 わたしが住むところは冬になると寒く雪が深く、屋根に積もった重みで簡単に家が潰れてしまう。冬の間何度でも屋根に登ってスコップで雪を下ろす。雪は重く労働は辛い。ここは白く単調な地獄のようだとわたしは思う。わたしの心と身体が惨めなとき、わたしはあなたの香水をつけます。わたしがどんな慰撫を受けるか誰も知らない。暗い家の中でわたしの嗅覚は豪奢を極めこの世のどんな富豪より豊かです。わたしの魂のためにお礼を言いたかった、そして手紙を書きました。ありがとう。

 日本というのは竹が生えるような亜熱帯ではなかったろうか。彼は意外に思う。どんな女がこの手紙を書いたのだろう。それほど若くはないはずだ。彼の残した作品は、未だに販売されているものもあり、伝統ある古典として尊敬は受けているが、すべて時代遅れと見なされてもいるから。

 一世を風靡したこともある。潤沢な資金で開発製造され、富裕層に愛顧された高級品。彼の愛した香料は様々な理由で消えていった。動物の乱獲を制限する条約や、アレルゲンになりうる合成香料の排除などによって。置き換えられたレシピは、それでも上品で女性らしく芳醇だ。

 しかし、彼は知っている。

 彼の作品は今では重すぎる。四半世紀前に調香のトレンドはまったく変わってしまった。若い天才が登場して楔を打った。例えるなら世界大戦の前と後ぐらい、香水の潮流は潮目を変えて、それ以前のものはまったく通用しなくなった。若者は少ない種類の、そして大量に生産されうる香料の組み合わせで、軽くて新しくてきちんと立体的な構造の香りを作って、その香りは欧州も新世界もアジアも席巻した(当時のアフリカはまだ市場として開拓されていたとは言い難い)。

 そしてその香りには美しさがあった。

 それが一番の衝撃だった。彼は自分の中でだけ敗北を認め、そのような新しさを表現しようとさえしたが、彼の作るものはどこまでも古典的な美のラインを離れることができなかった。

 化粧品会社はやがて彼との契約を解消し、その後は単発的に小さなメゾンのための香りを設計しながら、香りに関する教育機関の講師を務めた。そして数年前にその役目からも引退し、南仏の田舎に住んでいる。

 彼は手紙の女を想像する。

 美しいのか醜いのか平凡な顔立ちなのか。小柄でモンゴロイドの滑らかな肌をして黒い髪と黒い瞳を備えているだろう。若くはない。家屋のために重労働を強いられるというなら、連れ合いはいないのだろう。

 孤独な女が暗い部屋の中で彼の香水を身につける。女のかすかな体臭と華やかなトップノートが混ざる。想像の中の部屋は寒く彼女は体温が低く、香りは通常より緩慢に柔和なミドルへと移るだろう。

 彼は手紙に返事を書きたいと思ったが宛先がわからなかった。


 翌年の冬、差出人のわからない手紙がまた転送されて来た。

「お元気ですか。覚えていらっしゃらないでしょうがわたしは去年にあなたへ陰鬱な手紙を書きました。そのことを気にかけていた。今年わたしは美しいものを心に留めて過ごしました。美しいものの話を冬になったらあなたへ書こうと思った。」

 彼女の住むところは遅く短い春が来ると様々な花が一度に咲くのだという。連なって植えられた、ごく淡いピンク色の雲のような花を咲かせる桜の木。その下に黄色の菜の花が絨毯を作る。桜の花びらが散って舞う。

「わたしたちはそれを花が吹雪と呼びます」

 雪に覆われた土地から、春の話を綴った手紙を送ってきた女のことを、一年ぶりに想像した。

 彼女のために香水を調合したい、という考えが薄く浮かんで消えた。もう彼はアトリエも持たない。むかし企業から提供されていたような香料は、ごく少量だとしても手に入らない。

 そもそも自分は彼女への連絡手段も、名前さえ知らない。ただ、自分の作った香りが彼女を慰めている。

 来年の冬も、手紙は届くだろうか。彼は少しの期待を込めて手紙を日記に挟んだ。自分がそうしたことを、彼女が知ることはないのだと思いながら。

数年前に化粧品のクチコミサイトで見た香水のレビューが発想の元なのですが、どの商品のクチコミかわからなくて探せませんでした…直接抜き出した部分などはありません。

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