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そして明日が始まる

作者: 南山 広平

 日が暮れて、窓の外には夕暮れと帰路に着く人が見えた。ギャラリーの窓から漏れる光が少しだけそれらを照らし出していた。一週間続いた展示会が今静かに終わりを告げようとしていた。

 作者である男には清々しい疲労感があった。男は四方の壁に飾られた自分の絵画作品を改めて眺めて回った。絵画らには展示会が始まった時にはまだなかった意味が付け加えられている気がした。

 物思いに耽っていると、奥の扉からギャラリーのオーナーの女性が入って来た。手にはコーヒーの入ったマグカップとクッキーが乗ったお盆を持っていた。男は差し入れと、この一週間のお礼を言い、コーヒーを一口飲んだ。ほどよい暖かさが胸に広がっていく。

 「一週間あっという間でしたね、いかがでしたか?」

 「はい、とても楽しい一週間でした」

 オーナーはそれはよかったと言い、微笑んだ。

 「あなたの作品は感慨深いところがあります。それでいてまだ未熟。これは悪く言っているわけじゃなくてね。この先にはもっと凄いことが隠れているんじゃないかと見る人をワクワクさせるような力があるの。それは誰にでも出来ることじゃない。私も今までたくさんの絵を描いてきたから感覚的にそういうことが分かるのね。あっこの子はなにかを見つけようとしているんだって。人はそんなところに惹かれるの」

 男は真っ正面から褒められて少し照れ臭くなった。そして他人事のように『そうか、そういうものなのか』と感心した。自分で全く意識していなかったから。人に作品を見てもらうと自分では気づかなかった一面を見つけてもらうことが出来る。男にとってはそれが何より大切なことだった。絵を描くとはごくプライベートな行為だ。けれど男はそれだけでは満足出来なかった。認識が作品をより立体的に、客観性を持った物へと変えていく。その主観と客観の間に生まれる作品が男の望むところだった。

 「じゃあ。もう少し最後の時間を楽しんでね」そう言ってオーナーはまた奥の部屋へと戻っていった。閉じたドアに向かって男はもう一度深く頭を下げた。ギャラリーにはまたしんとした空気が戻ってきた。その空気がもうすぐ失われてしまうのを惜しむように、男は空気を吸い込んだ。

 幼い頃、キャンバスに絵の具を塗ったその瞬間に自分の人生は決まったと思う。それは何気なく、けれど決定的な瞬間だった。その日から25歳を目前に控えた今まで他のことにはほとんど興味を引かれなかった。来る日も来る日もひたすら絵を描いた。そして、描けば描くほどに物足りなさを感じていった。掴めそうで掴めないもどかしさがあって、いつももう一歩のところで確信には届かない。歯痒さで一杯だった。

 本格的に作品を公表し始めたのは20歳を過ぎてからだった。それまでそういったことに無頓着で、だたただ描ければいいと思っていた。友人に誘われたグループ展に参加して考えは変わった。自分とは違う目線で見られることで作品は新たな角度を持ち得ると知った。もう一通り技術的なことは習得していた彼にとって、それは新鮮で刺激的な出来事だった。それからは定期的に展示会に参加をし、今回ついに個展を開くまでに至った。

 そして今日は個展の最終日だった。一週間の間、一つの場所を自分のためだけに使える贅沢を嬉しく思った。期間中には来場者との様々なやりとりがあり、心に希望が溢れる言葉をもらったり、どうしようもなく時間の浪費だと思う瞬間もあった。

 絵を眺めながら男は考え事をしていた。もうそろそろ潮時かもしれない。きっといつか誰にでも訪れる終焉の思いを男も感じ始めていた。美大を卒業し、社会に出て、絵を描く意味もよく分からなくなってきていた。周りの変化は彼をとても憂鬱にさせていた。日々の中で自分の中の何かが枯れていくような、そんな音が聞こえてくる気がしていた。

 ギャラリーのドアが開いたのはちょうどそんな時だった。夕方の空気がギャラリーに入り込んできた。玄関には一人の女の子が立っていた。男より5、6は年下だろう、品のいいオレンジのコートを着て足下は白のスニーカー、髪は頭の上でお団子に結った、いかにも純朴そうな顔をした女の子だった。その顔は男の頭に地元の小さな妹を思い出させた。

 彼女は気後れした、けれど芯のある声で言った。

 「すみません、ちょっと見せて頂いてよろしいですか?」

 男は「もちろん」っと優しい声で案内をした。考え事はひとまずどこかにやって、彼女を中へ招き入れた。彼女の鼻は暖房の風に当たってほんのり赤くなった。こんな女の子が一人でやってくるのは珍しかった。彼女は入口の紹介文から順番どおり真面目にひとつひとつの作品を見て回った。その目は期間中に来たどのお客よりも真剣だった。絵画に隠された秘密を読み取ろうと必死になる鑑定家のような強い眼差しだった。男は自身が隈無くチェックされている気がしてもどかしい気持ちになった。

 「すごいですね、どれもすごく好きな雰囲気です」ギャラリーを一周して彼女は言った。はにかむような笑顔だった。男は彼女が見学している間にコーヒーを淹れてそれを手渡した。彼女は恐縮したあとコーヒーを受け取りお礼を言った。

 「すごく真剣な顔をして見ていましたね。もしかしてあなたも絵を描かれるんですか?」

 彼女は少し躊躇して、こくんと頷いた。

 「はい、好きでよく描いています。でも趣味程度だし、独学なのでこんなに上手くは描けないんですけど…」

 「そんなことないでしょう、よかったら携帯に画像とかあれば見せてもらえませんか?」

 「えぇ…本当に下手なんですよ?」

 「ちょっとだけでいいので。もちろん嫌じゃなければ」

 彼女はもう一度躊躇した後で携帯のフォルダを漁りだした。そして出してきた画像に男は釘付けになった。

 それはシンプルな線で描かれた人物画だった。絵画というよりはイラストと言った方がいいだろう。一筆書きの輪郭と服の部分にハイライト程度にぽつんとのった赤が印象的な少女の絵だった。技巧的な凄みはないものの、無駄のない洗練されたラインがとても潔く美しかった。一目見ただけでそれは努力で身に付くたぐいのものではなく、彼女自身から生み出される感性の作品なのだと分かった。これほどまでまっすぐに『才能』という言葉を意識させられたのは初めてだった。

 「すごいじゃないですか!こんな素敵な絵はここ最近見たことがないです」

 男は素直に羨ましく思った。それは自分には到底会得出来ない感性だと分かるから潔くなれた。最終日にこんな幸運に出会えたことを嬉しく思った。

 「いえ、そんなことないですよ。全然下手です…」そういう彼女の謙遜を相手にせずに男は言った。

 「どこか展示会に出品したらいいですよ。こんなに良い作品を人に見せないのはもったいない」

 そう言うと彼女は急に困った顔をした。天気が晴れから曇りへと変わってしまったように。そして少し考えあぐねてから言った。

 「実は興味はあるんですが、出品とかどうしたらいいのか分からなくて…。私は美大に通ってるわけでもないんでもないので、そういうツテが全くないんです」

 それを聞いた男はある思いが体から湧いてきた。それは義務とか責任感に似た気持ちだった。ぽろりとこんな提案をしてしまった。

 「じゃあ一緒に展示会をしましょう!」そう言うと彼女は真面目な顔で男を見た。言った後でことの重大さに気がついた。彼女の声は熱を増していた。

 「そんなことが出来るんですか??もしできるのなら、やってみたいです!」

 彼女は鮮やかなオレンジのコートに負けない熱気を持って、まっすぐに男を見た。男は初対面でなんていうことを言ってしまったのかと思った。けれど言ってしまったことは仕方がない。だいたい、彼女の熱意を持ってすれば、例え自分がお節介を焼かなくともいつか誰かの目に止まるだろうとも分かっていたけれど。それが彼女との最初の出会いだった。

 2人は連絡先を交換した。「連絡してください!」そう言って彼女は嬉々としてギャラリーを後にした。男は彼女の後ろ姿を見送った。辺りははすっかり暗くなっていて、とうに閉館時間は過ぎていた。慌てて外の立て看板をしまい、ドアの鍵を閉めた。もう終わりだと思っていたはずが次の始まりになってしまった。男には少なからず新しい希望が湧いていた。もしかすると展示会とはそういう類いの仲間を吸い寄せるための場なのかもしれないと思った。そうして物事は動き出した。

 これは実際の出来事をもとにした、スケッチのようなお話です。作中のギャラリーも実在をモチーフにしていて、そこは福岡郊外の住宅地の中にぽつんとある隠れ家のようなとても感じのいいところです。僕も何度訪れたか覚えていないくらい個人的にも大切な場所で、作品の舞台として今後も登場する予定です。いつかもっとしっかりとした内容で書きたいと思っています。美術というとどうしても取っ付きにくく、敷居が高いイメージがあるかと思います。こうした文章を書くことで少しでも美術に親しみを覚えて頂けると幸いです。美術って難しいことじゃなくて楽しい遊びだと僕は思っています。

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