防人の場合
物事には、流れというものがあって、それはいわゆる、運勢とか、そういうものに強く関わってくる。
兄の失踪は、大して急ではなかった。その様な雰囲気はあったし、家にいる時間が、元より少なかった。けれど、それによって家族の空気はやはり悪くなる。不幸が不幸を呼ぶとでも言うのか、家族には、僕の不幸を考える余裕が無かったらしい。
兄を探しに行く、と言って出かけたバスは、雨の高速道路で大破した。生存者無し、と騒がれていたらしい。死体を特定するまでもない、そんな訃報に、僕は立ち尽くしていた。雨の中、固く象られた、スクラップとなったバスの中、僕の体をなぞる様にして、空間が一つ出来ていた。僕は傷一つ負っていなかった。
助け出された後、僕は奇跡の生還者として、報道の的になった。目が眩む数のフラッシュと、ある事ない事、好き勝手に書かれた生存までのストーリー。
世間の目が僕を避けるまで、少し時間がかかった。
「……」
晴れの日。今日はいい天気だ。クラクションの数も、いつもより少ない、平和な日だ。
思えば、命がこの事務所に来てから、随分と長い時間を過ごしたように感じる。三ヶ月は決して短くは無いが、それでも、その倍は過ごしたと思える、そんな月日だった。
「命くん、命くん」
振り向けば、紅が、寝ぼけた目を擦りながら、事務所に入って来た。
「今何時……?」
「七時半ですね」
「んぁー……」
覚醒さえすれば、やる事なす事テキパキとした仕事人なのだが、どうにもスイッチが重いらしい。
「朝ご飯」
「ああ、はいはい」
昼と夜は紅が担当するが、朝はどうにも、らしいので、それは命が作ることになっている。とは言っても、朝食だから、割と簡単に済む。
「〜〜♪」
「主婦か」
紅がツッコミ出来るまで覚醒したらしい。いつの間にか、寝間着だった服装も、外出用に変わっていた。
「はい」
「相変わらず、変なスキルだけ高いよな」
「ほっといて下さい」
小倉トースト。名古屋名物らしい。トースト二枚と、あんこ。足りない時の為に、マヨネーズと混ぜて潰した卵も添えた。
「んー……」
トーストを咥えながら(下品)、テレビを付ける紅。命も釣られて画面を見た。
「そういえば——」
紅が言った。
「あの、奇跡の生還者はどうなったのかな」
「ああ、あのバス事故の」
「そうそう」
奇跡の生還者、とは、つい先月に起きた、高速道路における、大規模な交通事故で、東京行きのバスと大型トラックが接触し、バスがそのまま道路を突き破り、18m下の地面へ落下するというものの、唯一の生存者の事である。その時期は、この話題が報道を占めていたが、時の流れとは早いもので、今では、その話題すら見なくなっていた。
「気になりますか?」
「なるだろ、そりゃ——」
紅が牛乳を飲み干して言う。
「35人中34人が死んで、ただ一人だけ無傷で生還ってな」
「うーん……」
「異常だ」
確かに、と命は思う。この際、考えられる可能性として出てくるものが——
「スタイル?」
「多分な」
立ち上がり、黒いコートを手に取る紅。
「さて、命くん。歯ァ磨いたら行くぞ」
「はい」
微笑みながら返す命。どこへ、どうやって等の問は掛けない。ただ信頼し、彼女について行く事が、今の彼にとっての、最善の選択であった。
初春の息吹連なり、高速道路の下を突き抜ける。花粉症持ちには辛い季節だが、幸い命も紅もその症状は無い様だった。
「ここか」
「沢山添えられていますね」
「そりゃな」
数え切れない程の弔いの花が、その一角を埋め尽くしていた。命と紅は、手を合わせてから、辺りを観察し始めた。
「んん……」
観察とは言うものの、既に警察も手を引いた現場であるから、めぼしいものは見当たらない。
「当たり前だな」
「そうですね」
しかし、今回の目的はそれでは無い。何かを見つける為の行動では無い。
見つかる為の行動である。
ふと気付くと、弔いの花に近付く、人影があった。静かな佇まい、黒めの服装が、背後に広がる自然に重なり、一際目立ってみえた。
「当たったな」
「早いですね」
エンカウントまで粘るつもりで購入した飲食物は、どうやら必要なくなった様で。
「初めまして、桐生みゆきさん」
「……初めまして」
こうして命と紅は、奇跡の生還者たる「桐生みゆき」との接触を果たしたのであった。
「貴方方もこの事故の?」
「えぇ……まぁ」
黒めの服装で来たのは、この演技をするためだったのか、と命は思った。
紅は仕事をやらせれば、大体何でも卒無くこなす。情報収集の為の嘘や演技もお手の物である。
「そうですか……」
桐生みゆきは俯き、憂いを感じさせる眼差しをする。意識の向いていないこちら迄、少し緊張してしまう程の美形、完成度の高さが抜き出ている。
「僕のことは知っている様ですが」
「それはもう。あれだけ映されていたら」
「それもそうですね」
日夜どのチャンネルでも、この話題を取り上げていた。今では熱は冷めたものの、知らない人は少ないだろう。
「では——」
一礼して、去ろうとする桐生みゆき。命が紅を伺う。
「…………」
紅は沈黙し、やがて口を開いた。
「桐生心詞」
「…………」
桐生みゆきが足を止める。
「どこで——」
振り返る。風に靡く短い髪が、威圧感を含む眼光を強調する。
「その名前を?」
「生憎だが——」
不敵に笑う紅。
「私達は、あんたを探してたのさ」
「…………」
桐生みゆきの辺りの空気が変わった。
「心詞を知っているのですか?」
「知りたかったら、同行してもらいたいんだが」
「貴方達は何者ですか?」
「知りたかったら、同行してもらいたいんだが」
「どうして、いつ、僕がここに来ると?」
「ああ、それは偶然」
「…………」
暫く命と紅を見据えたままで、桐生みゆきは思考を働かせる。この二人は何者なのか、それが分からなくても、自分に危害を加えるつもりが無いらしい事は分かる。彼女、紅い髪をした彼女の、スーツの内ポケットが少し膨らんでいる。何か入っている。けれど、両手はパンツのポケットに突っ込まれていて、そこに干渉する気配はない。もう一人の少年の方も、特に警戒する必要は無さそうだ。
——けれど、なんだろう。
落ち着かない。
何か、何かがある気がしてならない。
それは、彼女の表情の奥底にある、不敵な笑みと、少年の佇まいからして——
「思考はいいことだが、模索は失礼だと思う」
「…………!」
読まれた。彼女は、恐らく、そういう事に慣れ親しんだ人種だ。
「兄は……」
最早、桐生みゆきには、選択肢という物が既に無いように思えた。
「兄さんはどこですか」
精一杯の決断の声音。震えて、今にも倒れそうな程のか細い声。たった一人となってしまった肉親を求める声。
「場所なんか知らない」
その縋るような声を突っ撥ねる様にして、紅は不敵な笑みを表面に出した。
「情報ならある」
「…………」
そう言うと、紅は後ろを向き、そのまま歩き出した。着いてこいと、言っている気がした。少年の後に、桐生みゆきは着いて行った。
それは崩壊の前兆。前触れ。予期できない、城の崩壊。
「これは、予想外だった……」
紅は皮肉に笑う。目の届かない場所に置いてしまった情報の金庫は、目の前で轟轟と燃えていた。
——燃えていた。
「べ、紅、さん……」
「蒼は無事かな」
「…………」
桐生みゆきの頬に汗が下る。
これは——
「僕が、関わってもいい案件ですか」
「ん……」
すると、紅は桐生みゆきを一瞥して、直ぐに炎に視線を戻して、ただ一言だけ口にした。
「もう、手遅れだよ」
消防の通報が一般市民からあったのだろう。サイレンが聞こえてきたことを節目に、紅は反対車線側にある蒼が居るはずの事務所へと歩き出した。
「…………」
桐生みゆきは思考する。
もう手遅れという言葉の意味。ここに兄の情報があった。なんらかの媒体に保存してあったのだろう。けれど、それがない。情報を消す為に、誰かが放火したのだろう。そうなると——
「僕がここに来る事を、知っている誰かが居た?」
「きっとな」
横から少年の声がした。
「紅さんは、お前を釣る為に、きっとその、誰だっけ、心詞さん、の情報をかき集め、かき集めていたんだと思う。俺は知らないけど、きっとそうだ」
「…………」
「だから、手遅れ。お前を知ってる誰かが、お前の兄について、知られたくない誰かがやったんだ」
「誰か……」
「……お前はどうする?」
命がみゆきに話しかける。
「お前はどうする? ここで帰るか? それもいいと思う。ここで一切の関係を断ち切ってしまえば、たぶん、お兄さんには近付けないけれど、こんな光景を見る機会は、二度とないと思うんだ」
みゆきは口を閉じ、俯き、考える。
けれど、もう、後戻りをする事が出来るほど、子供ではなかった。
「僕も行く」
「そっか」
命は短く答えると、先に行った紅の後を追う。みゆきは、何も言わずに、それに着いて行った。
「蛻けの殻、だな」
「何かあったんですね」
「まぁ、きっとな」
蒼の事務所には、誰もいなかった。人が居た、という過去を連想させない程、無機質な室内になっていた。
紅は携帯電話を取り出す。蒼に掛けるも、繋がることは無かった。
「…………」
紅は舌打ちをして、携帯電話を仕舞った。
「どうすっかなぁ……」
「あ、あの!」
「ん?」
みゆきが紅に向かって言う。
「兄さんの情報は、あそこにしか無かったんですか?」
「あー……」
ばつが悪そうに紅が答える。そして、みゆきに向き直って言った。
「実は、あそこにもなかった」
「えっ」
「ごめんな」
「…………」
みゆきは絶句して、その場に座り込んでしまった。
「——実は、ある人物と繋がっていたんだ」
「…………?」
命に背中をさすられながら、みゆきは紅の方を向く。
「『アゾトバクター』っつう、胡散臭い名前の、情報屋だ」
「情報……」
そして紅は、もう一度、今度はバイブレーションをする携帯電話を取り出して、画面を見て言った。
「よう、元気か?」
「…………?」
みゆきと命は、不思議そうに紅を見るしかなかった。
「ちょっと予定が変わった。直接そっちに出向く事にしたよ。そうだな、公共の交通機関を使う。場所はこの間でいいか? ん、分かった。三日程掛けていく。よろしく」
そう言い終わって、再び携帯電話を仕舞う紅。そして、二人の方を向き直って言う。
「山口県だ」
「…………」
「山口県に行くぞ!」
「えぇ……?」
みゆきは唖然としたが、命は慣れた様子だった。
「三日も掛かりますか?」
「馬鹿、お前、急いで行ったら疲れちゃうだろ」
「いやでも、放火するような奴がいますよ」
「ああ、それは大丈夫だ」
紅はそれ以上語ることは無かった。命は仕方がないと、肩を竦めただけだった。
向き直り、紅はみゆきの目を見た。
「来い、桐生みゆき! 我らが制裁探偵事務所が、兄の1人や2人、直ぐに探し出してやる!」
「…………!」
そして、手を差し伸べた。命はその光景を、自分の記憶に投影していた。
「お前にも、スタイルはある。なぁ、桐生みゆきちゃん」
「は、はい?」
紅の怒涛の勢いに、みゆきは圧倒されながら、スタイルという言葉に疑問を持つ。しかし、紅はそのまま続けた。みゆきの細腕を取って。
「お前には、ロマンがあるか?」