8、鬼になる
8、鬼になる
今にして思えば、大滝はあのころ確かに鬼になっていた。
金も家もなくした、妻も失った。明日の行方がわからない。しかし、悲壮感に浸ってはいられなかった。
砕け散った夢のかけらを丹念に拾い集め、復活のための行動を開始した。それは、かすかに残されていた闘志を培養する作業でもあった。
この作業がきつかったのはゼロからの闘いではなくマイナスからの挑戦であることだ。会社の整理も大方目鼻が付いてきたとはいえ、すべての負債が消えたわけではない。
事業に失敗して自己破産した人間がよくいうセリフで「すべてを失った。ゼロからの出発だ」などと耳にするが、大滝にとって、ゼロからの出発ならどれほど楽であろうかと思う。
大滝の場合は債務が確定し、長期にわたる返済が始まっただけのことである。唯一これまでと違うことは腰を据えて仕事ができる状態にはなったということであった。とにかく、生活のため、借金返済のため、そして新たな挑戦の軍資金確保のために稼がなければならなかった。
大滝は檻から解き放たれた狼のように躍動した。すべてのエネルギーを復活に向けて集中した。それはさながら鬼であった。
「鬼」とは日本の風土が生んだ妖怪で、一般的にには「悪い」「怖い」「強い」などというイメージがあるが、大滝の場合ニュアンスは少し違う。それは、目標以外には眼もくれない非情なまでに徹底した割り切りであり、素早さであり、合理性であつた。
見方によればダメ男であった自分自身をしごく鬼であり、自分を窮地に追い込んだもう一人の自分に対する復讐のようにも思える。
大滝はまず復活の戦略を考えていた。売上や利益の大部分は戦略によって決まると言っても過言ではない。いくら戦術にたけていても戦略が間違っていれば必ず破たんがこることは、実験済みである。
大滝がまとめた戦略はつぎのとおり極めてシンプルなものであった。
1つには、小資本でできる事業を行うこと。2つ目には自分ができる仕事であること、最初から人を使わなければならない仕事はリスクが高いからである。3つ目に土地勘のあるこの地域でやれること。そして4つ目に時流に大きく逆らうものでないこと。最後に好きなこと、得意なことの5つである。
この5項目の接点にあるものは何か、と考え続けたのである。
どうやら、経営コンサルタントの仕事はこの条件に合致していたようだ。
つぎに大滝は、学習塾に目を付けた。若いころ学習塾の管理と講師を手伝った経験があり、多少の自信があったからである。大手学習塾チェーンは地方にまで進出し、少子化の波と相まって地方の学習塾を直撃し、かつてのように地域に密着した盛況な塾もいまは壊滅的と聞いている。しかし、だからこそ打つ手はあるはずである。
資本はないが、それを逆手にとって大手のできないことに心血を注ごうとしていた。具体的には、システム的な方法を徹底的に否定した教育、人間が人間を育てる塾を考えていたのである。
大滝は不動産屋を訪れ、8畳一間と6畳二間の見るからに古い一戸建てを見つけて賃貸借契約をした。築40年の日本家屋であるが庭が付いている。車が2台ほど置けるほか自転車置き場くらいのスペースがある。何よりも家賃が五万円と安い。そのうえ、敷金1カ月、前家賃と仲介料がそれぞれ1カ月分の10万円、締めて15万円で塾開業の場所を確保したのである。
大滝が学習塾にこの地を選んだのは、小中学生対象の学習塾の立地条件として欠かせない、小学校と中学校が近辺にあることによる。
小中学校があるということは、登校する距離に小中学生が住んでいることは明らかである。そのうえ、この近くに大学校があることもプラスの条件であった。大学が近くだと講師のアルバイターを探しやすいからである。
立地条件は申し分ない、あとは備品である。
大滝は、知り合いの材木店でラワン材を挽いてもらい、机の天板とし、ホームセンターから鉄製品の脚を買い求めて手製の2人掛けの学習机を用意した。腰かけ、ホワイトボード、その他の備品は中古センターを探しまわった。マンションの粗大ゴミ置き場にあった石油ストーブを見つけ自分で修理もした。
座敷には安いカーペットを敷いた。
塾生募集のポスターはカレンダーの裏にマジックインキで何枚も書いた。夜のふけるのを待って犬に吠えられながら、電柱に貼って歩いた。ポスターもいずれははがれたり、はがされたりするであろう。
土木事務所や電気会社からのクレームではがさなければならない場合もあるだろう。しかし、その間だけでも、誰かの目にふれれば、それでいい。大滝は夜になるのを待っては貼って歩いた。
暗い住宅地の路地を独り黙々と行動する大滝を見て、この男がつい最近までフロンティアの社長であったなどと誰が想像するであろうか。
一度だけ塾生募集の折り込みチラシをまいた。まいたその日に小学生が3人母親と一緒に訪れて、入塾の手続きを取ってくれた。いずれの母親とも子供の教育について、じっくり話を聞き、そして熱く語った。
チラシの隅に小さく入れた講師の募集広告に5人の電話の問い合わせがあったのには驚いた。塾生が増えた時のために、登録だけさせてもらう了解を得た。
3人の塾生が、5人、8人と増え3カ月を過ぎた時には10数名に増えたのを契機として学年ごとにクラスを分けた。講師を増やさなければならなくなった。
講師は大学生や院生を主力メンバーとし、その採用の面接はことのほか力を入れた。コミュニケーション能力と人間性を重要視した。これは、レストラン事業で徹底して顧客満足度の追求をした経験によるが、カギは採用の仕方にあつたのである。
サービスの品質を高めるために、講師たちにはさまざまな教育をした。それは「そこまでやの?」と講師陣が戸惑うほどであった。顧客満足(CS)はいまや、マーケティングと同義語といえる。この意味を理解し、実行に移せるのは人間性にあると確信しているからである。
分かっていることと実行できることは別のことである。いくら、教育や訓練をしても、実際の現場で実行できない人間は多い。
サービスという形のない商品は、生産されると同時に消費される。つまり、提供されるとともに消えていくものである。ということは、この商品は検品ができないし、ストックもできない。
そこに、いつも上司やトップがいるわけにはいかない。その時々により、人によってもサービスの品質が違う。人間が行うサービスの品質にバラツキがあるのは、やむを得ないとしても、そこで顧客が満足しなければリピーターにはなってくれない。もっと言えば、顧客は満足しても、同じレベルの塾が近くにできれば、そちらへ流れてしまう可能性がある。
顧客の期待値をはるかに超えたサービスが提供できて、初めて顧客は感動するのである。
人は、感動すると他の誰かに言いたくなるものである。それをプラスの口コミというのであろう。
反対に期待値より、低い商品やサービスを提供された顧客は、マイナスの口コミを発信するのである。
塾の顧客は、もちろん塾生であるがそのスポンサーは父兄である。大滝は、塾生はもとより、保護者の評価を高めることに腐心した。具体的には、クラスとクラスの合間に、毎日順番に、塾生と、講師の五分間ミーティングを習慣化させたのである。
初めのうちは双方共ぎこちなかったようだが、回を重ねるごとによいコミュニケーションができるようになった。塾生と講師の人間関係がよくなることが、お互いのモチベーションを高め始めたのである。子供は親に塾の話題を好んでするようになったことが、保護者のプラス口コミを生んだ。
大滝は、追い打ちをかけるように、塾生の学習状況、テストの結果にコメントを添えて毎月、保護者に手紙を直送したのである。
そして、3カ月に1回は、保護者を招いて、学習効果を高めるための、セミナーや座談会を開いた。こういう場面での、この男には、あのふてぶてしさはなく、真から子供たちの成長を願う教育者としての使命感に溢れていた。
知見塾で大滝の片腕として貢献してくれたのは、菅原康弘であった。彼は、講師はもちろんのこと、企画、管理のすべてを完璧に処理した。教育系の名門大学の学校経営科に籍を置く30歳を過ぎた妻子のある大学院生である。彼はいまでは、月に2・3日登校すればよい状況にあった。
菅原は、高い学力とITに強いことが武器である。大滝が評価したのは、その誠実な人柄である。実家は酒屋を営んでいるが、長男である彼を後継者にすることはとうにあきらめているらしい、菅原の妻は中学校の教諭でありこれまで、一家の生活を支えてきたのである。菅原は、やっとヒモを卒業できたと笑う。
菅原はよく「私は塾長にゴミ箱から拾われた」と言うが、これにはつぎのようなエピソードがある。
あるとき大滝が、ゴミ箱の中にあった小さなメモをひろった。メモは菅原の氏名と電話番号が書かれてあった。大滝は一瞬電話を受けた誰かが故意に捨てたのか、あるいは間違って捨てたのか考えたが、どちらにせよ放置できなかった。入れ替わり立ち替わり出勤して授業を行い、授業日誌をつけてたてから退勤のタイムカードを打刻して帰る講師の誰かが受けた電話のメモである可能性が高い。
外部からの電話であれば、生徒募集のチラシか、ポスターを見て電話をかけてくれた人かも知れない。大滝は迷わず電話を入れた。
「もしもし、菅原さんのお宅ですか」
「はい菅原です」ソフトな男の声が返ってきた。
「私、知見塾の大滝と申します。康弘さんいらっしゃいますか」
「はい、私です」
「失礼ですが、知見塾にお電話頂きましたか」
「はい、チラシを見て電話をさせて頂きました」
「そうですか、留守にしていてすいませんでした。実はお恥ずかしいのですが、電話を受けた者が失念したようで、私がメモを見て連絡させて頂きましたが、どのようなご用件でしたか」
「私を講師に雇って頂けないものかと思いまして電話したのです」
「そうでしたか。それはいつのことですか」
「五日ほど前のことです。連絡がないので諦めかけていたところです」
「それは申し訳ありませんでした。ところで、講師の口はどちらかに決まったのですか」
「いいえ、まだです」
「そうですか。近くお会いできませんか」
「はい、ぜひお願いします」
「いつがよろしいですか」
「私ならいつでも・・・」
「これからでも?」
「はい」
「お住いは、近くなのですか」
「はい、知見塾へは自転車で5分もあれば行けるところです」
「そうですか、それではこれから来て頂けますか」
「かしこまりました、すぐお伺いいたします」
「そうそう、履歴書はご用意されていますか」
「はい、持って参ります」
菅原康弘は、間もなく白いポロシャツにジーパン姿で現れた。電話から受けた印象どおり清潔感のある男であった。
この出会いが大滝の復活へのスタートをダッシュさせたのであるから、人間の縁とは不思議なものである。
大滝と菅原はよいコンビであった。大滝の足らないところを菅原はよく補ってくれる。菅原も大滝のビジネスセンスを学びながらいきいきと働く。
ふたりは、仕事が終わると近くのスナック「道草」でよく飲みながら議論をする。飲みたいときは、あうんの呼吸で話は直ぐまとまる。
あるときなどは「今夜飲むか?」と大滝。「はい!」と菅原。事務所の片づけもそこそこに「道草」に飛び込む。
太っちょのママが「先生なにっ、その靴!」見ると大滝の左足は革靴で、右足はスニーカーであった。ママが大笑いしているのを見ながら菅原は「塾長は大物だから小さいことにはこだわらないのですよ」
「それにしても、私はこの商売を20年もやっているけど革靴とスニーカーを履いてきた人は初めてよ」
「テレビによく出てくるうちの真崎教授も左右の靴が違うのは日常茶飯事で、ネクタイを2本締めてきたことがあるくらいだから・・・」とフォローしたので、そこでまた笑いが渦を巻く。
「やぁ、先生こんばんわ」カウンターに座っていた大工の棟梁サブちゃん、その隣に塗装屋の正ちゃんがいた。
「先生のそういうところが好きなんだよ、俺は・・・」と正ちゃんが笑う。
かつては経営者の仲間か社員たちと街の盛り場で飲んでいた大滝が、会社をたたんでからは、町はずれのぶらりと立ち寄る“道草”であった。いつとはなしに常連のサブちゃんや正ちゃんと言葉を交わすようになっていた。大滝は素朴で人懐こい彼らにどれほど救われたかわからない。
「今夜は、兼好先生は?」大滝が聞いた。兼好先生とは近くの中学校の国語の先生である佐伯のことである。教諭になったいまでも古典文学の研究を続けていて、吉田兼好の徒然草に関しては特にうるさいらしい。そのことから、誰が言い始めたのか兼好先生でとおっている。
「兼好先生はまた例の病気ですって」とママが顔をしかめる。どうやらまた恋におちたらしい。失恋にかけては多くの物語を持っている男だそうだ。
かつて、見るからに孤独そうな大滝に最初に声をかけてくれたのが兼好先生であった。
“道草“の連中に大滝の心は大いに慰められたものである。地域の情報も知らず知らずのうちに豊富になっていた。
知見塾の業績は、緩やかではあったが着実に上がっていった。教材や、塾生とのコミニュケーションにはことのほか力をいれつづけた。
どうやら評判が評判をよんだ。大滝は多店化に乗り出し、直営で3つの教室に増えるのに2年かからなかった。
いれつづけた。
どうやら評判が評判をよんだ。大滝は多店化に乗り出し、直営で3つの教室に増えるのに2年かからなかった。
8、鬼になる
今にして思えば、大滝はあのころ確かに鬼になっていた。
金も家もなくした、妻も失った。明日の行方がわからない。しかし、悲壮感に浸ってはいられなかった。
砕け散った夢のかけらを丹念に拾い集め、復活のための行動を開始した。それは、かすかに残されていた闘志を培養する作業でもあった。
この作業がきつかったのはゼロからの闘いではなくマイナスからの挑戦であることだ。会社の整理も大方目鼻が付いてきたとはいえ、すべての負債が消えたわけではない。
事業に失敗して自己破産した人間がよくいうセリフで「すべてを失った。ゼロからの出発だ」などと耳にするが、大滝にとって、ゼロからの出発ならどれほど楽であろうかと思う。
大滝の場合は債務が確定し、長期にわたる返済が始まっただけのことである。唯一これまでと違うことは腰を据えて仕事ができる状態にはなったということであった。とにかく、生活のため、借金返済のため、そして新たな挑戦の軍資金確保のために稼がなければならなかった。
大滝は檻から解き放たれた狼のように躍動した。すべてのエネルギーを復活に向けて集中した。それはさながら鬼であった。
「鬼」とは日本の風土が生んだ妖怪で、一般的にには「悪い」「怖い」「強い」などというイメージがあるが、大滝の場合ニュアンスは少し違う。それは、目標以外には眼もくれない非情なまでに徹底した割り切りであり、素早さであり、合理性であつた。
見方によればダメ男であった自分自身をしごく鬼であり、自分を窮地に追い込んだもう一人の自分に対する復讐のようにも思える。
大滝はまず復活の戦略を考えていた。売上や利益の大部分は戦略によって決まると言っても過言ではない。いくら戦術にたけていても戦略が間違っていれば必ず破たんがこることは、実験済みである。
大滝がまとめた戦略はつぎのとおり極めてシンプルなものであった。
1つには、小資本でできる事業を行うこと。2つ目には自分ができる仕事であること、最初から人を使わなければならない仕事はリスクが高いからである。3つ目に土地勘のあるこの地域でやれること。そして4つ目に時流に大きく逆らうものでないこと。最後に好きなこと、得意なことの5つである。
この5項目の接点にあるものは何か、と考え続けたのである。
どうやら、経営コンサルタントの仕事はこの条件に合致していたようだ。
つぎに大滝は、学習塾に目を付けた。若いころ学習塾の管理と講師を手伝った経験があり、多少の自信があったからである。大手学習塾チェーンは地方にまで進出し、少子化の波と相まって地方の学習塾を直撃し、かつてのように地域に密着した盛況な塾もいまは壊滅的と聞いている。しかし、だからこそ打つ手はあるはずである。
資本はないが、それを逆手にとって大手のできないことに心血を注ごうとしていた。具体的には、システム的な方法を徹底的に否定した教育、人間が人間を育てる塾を考えていたのである。
大滝は不動産屋を訪れ、8畳一間と6畳二間の見るからに古い一戸建てを見つけて賃貸借契約をした。築40年の日本家屋であるが庭が付いている。車が2台ほど置けるほか自転車置き場くらいのスペースがある。何よりも家賃が五万円と安い。そのうえ、敷金1カ月、前家賃と仲介料がそれぞれ1カ月分の10万円、締めて15万円で塾開業の場所を確保したのである。
大滝が学習塾にこの地を選んだのは、小中学生対象の学習塾の立地条件として欠かせない、小学校と中学校が近辺にあることによる。
小中学校があるということは、登校する距離に小中学生が住んでいることは明らかである。そのうえ、この近くに大学校があることもプラスの条件であった。大学が近くだと講師のアルバイターを探しやすいからである。
立地条件は申し分ない、あとは備品である。
大滝は、知り合いの材木店でラワン材を挽いてもらい、机の天板とし、ホームセンターから鉄製品の脚を買い求めて手製の2人掛けの学習机を用意した。腰かけ、ホワイトボード、その他の備品は中古センターを探しまわった。マンションの粗大ゴミ置き場にあった石油ストーブを見つけ自分で修理もした。
座敷には安いカーペットを敷いた。
塾生募集のポスターはカレンダーの裏にマジックインキで何枚も書いた。夜のふけるのを待って犬に吠えられながら、電柱に貼って歩いた。ポスターもいずれははがれたり、はがされたりするであろう。
土木事務所や電気会社からのクレームではがさなければならない場合もあるだろう。しかし、その間だけでも、誰かの目にふれれば、それでいい。大滝は夜になるのを待っては貼って歩いた。
暗い住宅地の路地を独り黙々と行動する大滝を見て、この男がつい最近までフロンティアの社長であったなどと誰が想像するであろうか。
一度だけ塾生募集の折り込みチラシをまいた。まいたその日に小学生が3人母親と一緒に訪れて、入塾の手続きを取ってくれた。いずれの母親とも子供の教育について、じっくり話を聞き、そして熱く語った。
チラシの隅に小さく入れた講師の募集広告に5人の電話の問い合わせがあったのには驚いた。塾生が増えた時のために、登録だけさせてもらう了解を得た。
3人の塾生が、5人、8人と増え3カ月を過ぎた時には10数名に増えたのを契機として学年ごとにクラスを分けた。講師を増やさなければならなくなった。
講師は大学生や院生を主力メンバーとし、その採用の面接はことのほか力を入れた。コミュニケーション能力と人間性を重要視した。これは、レストラン事業で徹底して顧客満足度の追求をした経験によるが、カギは採用の仕方にあつたのである。
サービスの品質を高めるために、講師たちにはさまざまな教育をした。それは「そこまでやの?」と講師陣が戸惑うほどであった。顧客満足(CS)はいまや、マーケティングと同義語といえる。この意味を理解し、実行に移せるのは人間性にあると確信しているからである。
分かっていることと実行できることは別のことである。いくら、教育や訓練をしても、実際の現場で実行できない人間は多い。
サービスという形のない商品は、生産されると同時に消費される。つまり、提供されるとともに消えていくものである。ということは、この商品は検品ができないし、ストックもできない。
そこに、いつも上司やトップがいるわけにはいかない。その時々により、人によってもサービスの品質が違う。人間が行うサービスの品質にバラツキがあるのは、やむを得ないとしても、そこで顧客が満足しなければリピーターにはなってくれない。もっと言えば、顧客は満足しても、同じレベルの塾が近くにできれば、そちらへ流れてしまう可能性がある。
顧客の期待値をはるかに超えたサービスが提供できて、初めて顧客は感動するのである。
人は、感動すると他の誰かに言いたくなるものである。それをプラスの口コミというのであろう。
反対に期待値より、低い商品やサービスを提供された顧客は、マイナスの口コミを発信するのである。
塾の顧客は、もちろん塾生であるがそのスポンサーは父兄である。大滝は、塾生はもとより、保護者の評価を高めることに腐心した。具体的には、クラスとクラスの合間に、毎日順番に、塾生と、講師の五分間ミーティングを習慣化させたのである。
初めのうちは双方共ぎこちなかったようだが、回を重ねるごとによいコミュニケーションができるようになった。塾生と講師の人間関係がよくなることが、お互いのモチベーションを高め始めたのである。子供は親に塾の話題を好んでするようになったことが、保護者のプラス口コミを生んだ。
大滝は、追い打ちをかけるように、塾生の学習状況、テストの結果にコメントを添えて毎月、保護者に手紙を直送したのである。
そして、3カ月に1回は、保護者を招いて、学習効果を高めるための、セミナーや座談会を開いた。こういう場面での、この男には、あのふてぶてしさはなく、真から子供たちの成長を願う教育者としての使命感に溢れていた。
知見塾で大滝の片腕として貢献してくれたのは、菅原康弘であった。彼は、講師はもちろんのこと、企画、管理のすべてを完璧に処理した。教育系の名門大学の学校経営科に籍を置く30歳を過ぎた妻子のある大学院生である。彼はいまでは、月に2・3日登校すればよい状況にあった。
菅原は、高い学力とITに強いことが武器である。大滝が評価したのは、その誠実な人柄である。実家は酒屋を営んでいるが、長男である彼を後継者にすることはとうにあきらめているらしい、菅原の妻は中学校の教諭でありこれまで、一家の生活を支えてきたのである。菅原は、やっとヒモを卒業できたと笑う。
菅原はよく「私は塾長にゴミ箱から拾われた」と言うが、これにはつぎのようなエピソードがある。
あるとき大滝が、ゴミ箱の中にあった小さなメモをひろった。メモは菅原の氏名と電話番号が書かれてあった。大滝は一瞬電話を受けた誰かが故意に捨てたのか、あるいは間違って捨てたのか考えたが、どちらにせよ放置できなかった。入れ替わり立ち替わり出勤して授業を行い、授業日誌をつけてたてから退勤のタイムカードを打刻して帰る講師の誰かが受けた電話のメモである可能性が高い。
外部からの電話であれば、生徒募集のチラシか、ポスターを見て電話をかけてくれた人かも知れない。大滝は迷わず電話を入れた。
「もしもし、菅原さんのお宅ですか」
「はい菅原です」ソフトな男の声が返ってきた。
「私、知見塾の大滝と申します。康弘さんいらっしゃいますか」
「はい、私です」
「失礼ですが、知見塾にお電話頂きましたか」
「はい、チラシを見て電話をさせて頂きました」
「そうですか、留守にしていてすいませんでした。実はお恥ずかしいのですが、電話を受けた者が失念したようで、私がメモを見て連絡させて頂きましたが、どのようなご用件でしたか」
「私を講師に雇って頂けないものかと思いまして電話したのです」
「そうでしたか。それはいつのことですか」
「五日ほど前のことです。連絡がないので諦めかけていたところです」
「それは申し訳ありませんでした。ところで、講師の口はどちらかに決まったのですか」
「いいえ、まだです」
「そうですか。近くお会いできませんか」
「はい、ぜひお願いします」
「いつがよろしいですか」
「私ならいつでも・・・」
「これからでも?」
「はい」
「お住いは、近くなのですか」
「はい、知見塾へは自転車で5分もあれば行けるところです」
「そうですか、それではこれから来て頂けますか」
「かしこまりました、すぐお伺いいたします」
「そうそう、履歴書はご用意されていますか」
「はい、持って参ります」
菅原康弘は、間もなく白いポロシャツにジーパン姿で現れた。電話から受けた印象どおり清潔感のある男であった。
この出会いが大滝の復活へのスタートをダッシュさせたのであるから、人間の縁とは不思議なものである。
大滝と菅原はよいコンビであった。大滝の足らないところを菅原はよく補ってくれる。菅原も大滝のビジネスセンスを学びながらいきいきと働く。
ふたりは、仕事が終わると近くのスナック「道草」でよく飲みながら議論をする。飲みたいときは、あうんの呼吸で話は直ぐまとまる。
あるときなどは「今夜飲むか?」と大滝。「はい!」と菅原。事務所の片づけもそこそこに「道草」に飛び込む。
太っちょのママが「先生なにっ、その靴!」見ると大滝の左足は革靴で、右足はスニーカーであった。ママが大笑いしているのを見ながら菅原は「塾長は大物だから小さいことにはこだわらないのですよ」
「それにしても、私はこの商売を20年もやっているけど革靴とスニーカーを履いてきた人は初めてよ」
「テレビによく出てくるうちの真崎教授も左右の靴が違うのは日常茶飯事で、ネクタイを2本締めてきたことがあるくらいだから・・・」とフォローしたので、そこでまた笑いが渦を巻く。
「やぁ、先生こんばんわ」カウンターに座っていた大工の棟梁サブちゃん、その隣に塗装屋の正ちゃんがいた。
「先生のそういうところが好きなんだよ、俺は・・・」と正ちゃんが笑う。
かつては経営者の仲間か社員たちと街の盛り場で飲んでいた大滝が、会社をたたんでからは、町はずれのぶらりと立ち寄る“道草”であった。いつとはなしに常連のサブちゃんや正ちゃんと言葉を交わすようになっていた。大滝は素朴で人懐こい彼らにどれほど救われたかわからない。
「今夜は、兼好先生は?」大滝が聞いた。兼好先生とは近くの中学校の国語の先生である佐伯のことである。教諭になったいまでも古典文学の研究を続けていて、吉田兼好の徒然草に関しては特にうるさいらしい。そのことから、誰が言い始めたのか兼好先生でとおっている。
「兼好先生はまた例の病気ですって」とママが顔をしかめる。どうやらまた恋におちたらしい。失恋にかけ8、鬼になる
今にして思えば、大滝はあのころ確かに鬼になっていた。
金も家もなくした、妻も失った。明日の行方がわからない。しかし、悲壮感に浸ってはいられなかった。
砕け散った夢のかけらを丹念に拾い集め、復活のための行動を開始した。それは、かすかに残されていた闘志を培養する作業でもあった。
この作業がきつかったのはゼロからの闘いではなくマイナスからの挑戦であることだ。会社の整理も大方目鼻が付いてきたとはいえ、すべての負債が消えたわけではない。
事業に失敗して自己破産した人間がよくいうセリフで「すべてを失った。ゼロからの出発だ」などと耳にするが、大滝にとって、ゼロからの出発ならどれほど楽であろうかと思う。
大滝の場合は債務が確定し、長期にわたる返済が始まっただけのことである。唯一これまでと違うことは腰を据えて仕事ができる状態にはなったということであった。とにかく、生活のため、借金返済のため、そして新たな挑戦の軍資金確保のために稼がなければならなかった。
大滝は檻から解き放たれた狼のように躍動した。すべてのエネルギーを復活に向けて集中した。それはさながら鬼であった。
「鬼」とは日本の風土が生んだ妖怪で、一般的にには「悪い」「怖い」「強い」などというイメージがあるが、大滝の場合ニュアンスは少し違う。それは、目標以外には眼もくれない非情なまでに徹底した割り切りであり、素早さであり、合理性であつた。
見方によればダメ男であった自分自身をしごく鬼であり、自分を窮地に追い込んだもう一人の自分に対する復讐のようにも思える。
大滝はまず復活の戦略を考えていた。売上や利益の大部分は戦略によって決まると言っても過言ではない。いくら戦術にたけていても戦略が間違っていれば必ず破たんがこることは、実験済みである。
大滝がまとめた戦略はつぎのとおり極めてシンプルなものであった。
1つには、小資本でできる事業を行うこと。2つ目には自分ができる仕事であること、最初から人を使わなければならない仕事はリスクが高いからである。3つ目に土地勘のあるこの地域でやれること。そして4つ目に時流に大きく逆らうものでないこと。最後に好きなこと、得意なことの5つである。
この5項目の接点にあるものは何か、と考え続けたのである。
どうやら、経営コンサルタントの仕事はこの条件に合致していたようだ。
つぎに大滝は、学習塾に目を付けた。若いころ学習塾の管理と講師を手伝った経験があり、多少の自信があったからである。大手学習塾チェーンは地方にまで進出し、少子化の波と相まって地方の学習塾を直撃し、かつてのように地域に密着した盛況な塾もいまは壊滅的と聞いている。しかし、だからこそ打つ手はあるはずである。
資本はないが、それを逆手にとって大手のできないことに心血を注ごうとしていた。具体的には、システム的な方法を徹底的に否定した教育、人間が人間を育てる塾を考えていたのである。
大滝は不動産屋を訪れ、8畳一間と6畳二間の見るからに古い一戸建てを見つけて賃貸借契約をした。築40年の日本家屋であるが庭が付いている。車が2台ほど置けるほか自転車置き場くらいのスペースがある。何よりも家賃が五万円と安い。そのうえ、敷金1カ月、前家賃と仲介料がそれぞれ1カ月分の10万円、締めて15万円で塾開業の場所を確保したのである。
大滝が学習塾にこの地を選んだのは、小中学生対象の学習塾の立地条件として欠かせない、小学校と中学校が近辺にあることによる。
小中学校があるということは、登校する距離に小中学生が住んでいることは明らかである。そのうえ、この近くに大学校があることもプラスの条件であった。大学が近くだと講師のアルバイターを探しやすいからである。
立地条件は申し分ない、あとは備品である。
大滝は、知り合いの材木店でラワン材を挽いてもらい、机の天板とし、ホームセンターから鉄製品の脚を買い求めて手製の2人掛けの学習机を用意した。腰かけ、ホワイトボード、その他の備品は中古センターを探しまわった。マンションの粗大ゴミ置き場にあった石油ストーブを見つけ自分で修理もした。
座敷には安いカーペットを敷いた。
塾生募集のポスターはカレンダーの裏にマジックインキで何枚も書いた。夜のふけるのを待って犬に吠えられながら、電柱に貼って歩いた。ポスターもいずれははがれたり、はがされたりするであろう。
土木事務所や電気会社からのクレームではがさなければならない場合もあるだろう。しかし、その間だけでも、誰かの目にふれれば、それでいい。大滝は夜になるのを待っては貼って歩いた。
暗い住宅地の路地を独り黙々と行動する大滝を見て、この男がつい最近までフロンティアの社長であったなどと誰が想像するであろうか。
一度だけ塾生募集の折り込みチラシをまいた。まいたその日に小学生が3人母親と一緒に訪れて、入塾の手続きを取ってくれた。いずれの母親とも子供の教育について、じっくり話を聞き、そして熱く語った。
チラシの隅に小さく入れた講師の募集広告に5人の電話の問い合わせがあったのには驚いた。塾生が増えた時のために、登録だけさせてもらう了解を得た。
3人の塾生が、5人、8人と増え3カ月を過ぎた時には10数名に増えたのを契機として学年ごとにクラスを分けた。講師を増やさなければならなくなった。
講師は大学生や院生を主力メンバーとし、その採用の面接はことのほか力を入れた。コミュニケーション能力と人間性を重要視した。これは、レストラン事業で徹底して顧客満足度の追求をした経験によるが、カギは採用の仕方にあつたのである。
サービスの品質を高めるために、講師たちにはさまざまな教育をした。それは「そこまでやの?」と講師陣が戸惑うほどであった。顧客満足(CS)はいまや、マーケティングと同義語といえる。この意味を理解し、実行に移せるのは人間性にあると確信しているからである。
分かっていることと実行できることは別のことである。いくら、教育や訓練をしても、実際の現場で実行できない人間は多い。
サービスという形のない商品は、生産されると同時に消費される。つまり、提供されるとともに消えていくものである。ということは、この商品は検品ができないし、ストックもできない。
そこに、いつも上司やトップがいるわけにはいかない。その時々により、人によってもサービスの品質が違う。人間が行うサービスの品質にバラツキがあるのは、やむを得ないとしても、そこで顧客が満足しなければリピーターにはなってくれない。もっと言えば、顧客は満足しても、同じレベルの塾が近くにできれば、そちらへ流れてしまう可能性がある。
顧客の期待値をはるかに超えたサービスが提供できて、初めて顧客は感動するのである。
人は、感動すると他の誰かに言いたくなるものである。それをプラスの口コミというのであろう。
反対に期待値より、低い商品やサービスを提供された顧客は、マイナスの口コミを発信するのである。
塾の顧客は、もちろん塾生であるがそのスポンサーは父兄である。大滝は、塾生はもとより、保護者の評価を高めることに腐心した。具体的には、クラスとクラスの合間に、毎日順番に、塾生と、講師の五分間ミーティングを習慣化させたのである。
初めのうちは双方共ぎこちなかったようだが、回を重ねるごとによいコミュニケーションができるようになった。塾生と講師の人間関係がよくなることが、お互いのモチベーションを高め始めたのである。子供は親に塾の話題を好んでするようになったことが、保護者のプラス口コミを生んだ。
大滝は、追い打ちをかけるように、塾生の学習状況、テストの結果にコメントを添えて毎月、保護者に手紙を直送したのである。
そして、3カ月に1回は、保護者を招いて、学習効果を高めるための、セミナーや座談会を開いた。こういう場面での、この男には、あのふてぶてしさはなく、真から子供たちの成長を願う教育者としての使命感に溢れていた。
知見塾で大滝の片腕として貢献してくれたのは、菅原康弘であった。彼は、講師はもちろんのこと、企画、管理のすべてを完璧に処理した。教育系の名門大学の学校経営科に籍を置く30歳を過ぎた妻子のある大学院生である。彼はいまでは、月に2・3日登校すればよい状況にあった。
菅原は、高い学力とITに強いことが武器である。大滝が評価したのは、その誠実な人柄である。実家は酒屋を営んでいるが、長男である彼を後継者にすることはとうにあきらめているらしい、菅原の妻は中学校の教諭でありこれまで、一家の生活を支えてきたのである。菅原は、やっとヒモを卒業できたと笑う。
菅原はよく「私は塾長にゴミ箱から拾われた」と言うが、これにはつぎのようなエピソードがある。
あるとき大滝が、ゴミ箱の中にあった小さなメモをひろった。メモは菅原の氏名と電話番号が書かれてあった。大滝は一瞬電話を受けた誰かが故意に捨てたのか、あるいは間違って捨てたのか考えたが、どちらにせよ放置できなかった。入れ替わり立ち替わり出勤して授業を行い、授業日誌をつけてたてから退勤のタイムカードを打刻して帰る講師の誰かが受けた電話のメモである可能性が高い。
外部からの電話であれば、生徒募集のチラシか、ポスターを見て電話をかけてくれた人かも知れない。大滝は迷わず電話を入れた。
「もしもし、菅原さんのお宅ですか」
「はい菅原です」ソフトな男の声が返ってきた。
「私、知見塾の大滝と申します。康弘さんいらっしゃいますか」
「はい、私です」
「失礼ですが、知見塾にお電話頂きましたか」
「はい、チラシを見て電話をさせて頂きました」
「そうですか、留守にしていてすいませんでした。実はお恥ずかしいのですが、電話を受けた者が失念したようで、私がメモを見て連絡させて頂きましたが、どのようなご用件でしたか」
「私を講師に雇って頂けないものかと思いまして電話したのです」
「そうでしたか。それはいつのことですか」
「五日ほど前のことです。連絡がないので諦めかけていたところです」
「それは申し訳ありませんでした。ところで、講師の口はどちらかに決まったのですか」
「いいえ、まだです」
「そうですか。近くお会いできませんか」
「はい、ぜひお願いします」
「いつがよろしいですか」
「私ならいつでも・・・」
「これからでも?」
「はい」
「お住いは、近くなのですか」
「はい、知見塾へは自転車で5分もあれば行けるところです」
「そうですか、それではこれから来て頂けますか」
「かしこまりました、すぐお伺いいたします」
「そうそう、履歴書はご用意されていますか」
「はい、持って参ります」
菅原康弘は、間もなく白いポロシャツにジーパン姿で現れた。電話から受けた印象どおり清潔感のある男であった。
この出会いが大滝の復活へのスタートをダッシュさせたのであるから、人間の縁とは不思議なものである。
大滝と菅原はよいコンビであった。大滝の足らないところを菅原はよく補ってくれる。菅原も大滝のビジネスセンスを学びながらいきいきと働く。
ふたりは、仕事が終わると近くのスナック「道草」でよく飲みながら議論をする。飲みたいときは、あうんの呼吸で話は直ぐまとまる。
あるときなどは「今夜飲むか?」と大滝。「はい!」と菅原。事務所の片づけもそこそこに「道草」に飛び込む。
太っちょのママが「先生なにっ、その靴!」見ると大滝の左足は革靴で、右足はスニーカーであった。ママが大笑いしているのを見ながら菅原は「塾長は大物だから小さいことにはこだわらないのですよ」
「それにしても、私はこの商売を20年もやっているけど革靴とスニーカーを履いてきた人は初めてよ」
「テレビによく出てくるうちの真崎教授も左右の靴が違うのは日常茶飯事で、ネクタイを2本締めてきたことがあるくらいだから・・・」とフォローしたので、そこでまた笑いが渦を巻く。
「やぁ、先生こんばんわ」カウンターに座っていた大工の棟梁サブちゃん、その隣に塗装屋の正ちゃんがいた。
「先生のそういうところが好きなんだよ、俺は・・・」と正ちゃんが笑う。
かつては経営者の仲間か社員たちと街の盛り場で飲んでいた大滝が、会社をたたんでからは、町はずれのぶらりと立ち寄る“道草”であった。いつとはなしに常連のサブちゃんや正ちゃんと言葉を交わすようになっていた。大滝は素朴で人懐こい彼らにどれほど救われたかわからない。
「今夜は、兼好先生は?」大滝が聞いた。兼好先生とは近くの中学校の国語の先生である佐伯のことである。教諭になったいまでも古典文学の研究を続けていて、吉田兼好の徒然草に関しては特にうるさいらしい。そのことから、誰が言い始めたのか兼好先生でとおっている。
「兼好先生はまた例の病気ですって」とママが顔をしかめる。どうやらまた恋におちたらしい。失恋にかけては多くの物語を持っている男だそうだ。
かつて、見るからに孤独そうな大滝に最初に声をかけてくれたのが兼好先生であった。
“道草“の連中に大滝の心は大いに慰められたものである。地域の情報も知らず知らずのうちに豊富になっていた。
知見塾の業績は、緩やかではあったが着実に上がっていった。教材や、塾生とのコミニュケーションにはことのほか力をいれつづけた。
どうやら評判が評判をよんだ。大滝は多店化に乗り出し、直営で3つの教室に増えるのに2年かからなかった。
ては多くの物語を持っている男だそうだ。
かつて、見るからに孤独そうな大滝に最初に声をかけてくれたのが兼好先生であった。
“道草“の連中に大滝の心は大いに慰められたものである。地域の情報も知らず知らずのうちに豊富になっていた。
知見塾の業績は、緩やかではあったが着実に上がっていった。教材や、塾生とのコミニュケーションにはことのほか力をいれつづけた。
どうやら評判が評判をよんだ。大滝は多店化に乗り出し、直営で3つの教室に増えるのに2年かからなかった。