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債務奴隷解放宣言  作者: 大垣 壽雄
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7、離婚

7、離婚


大滝がもっとも気にかけていたことは、京香の実家に担保の提供を受けていたことであった。9分9厘融資が決まりかけた時、光陽銀行の要求に屈して京香を伴い実家に頼みにいったという経緯がある。

いまとなれば、銀行から何度となく京香を保証人に加えることを要請されながら、かたくなに拒んだことがせめてもの救いであった。

女房の実家にまで迷惑をかけたくないという思いは日に日に強まっていた。

京香の父が担保のために提供してくれた土地と債務保証を最優先して解いたのは、京香の実家に対する義理もあるが、京香の自分に対する評価を気にしていたからでもあった。

しかし、京香は妹の家から帰ってこなかった。かれこれ1か月は顔を見ていない。

苦悩する大滝が京香に、会社の窮状を詳細に説明しなかったのは、心配をかけまいとする親心でもあったが、それは裏目に出たといえる。京香にとってみれば水臭い大滝の態度を愛情の欠如として映っていたのかもしれない。

思えばこの数年は、仕事に追われて二人で旅行はおろか外食さえもしていなかった。

会えば何ごともなかったように、明るく屈託がない京香。

いっそ、文句の一つも言われたり、愚痴をこぼされたりした方が気が休まるというものだ。

京香は友達も多く、姉妹との交流も頻繁である。姉は、一流商社の役員に上り詰めた夫を持ち、妹は財務省の官僚を夫として安定した生活を送っている。話によると将来を嘱望されているキャリア組のようである。

活動的で家を留守にすることの多い妻を持ったことは、多忙をきわめる大滝にとっては不便なこともあるが、経済的に弱みができたせいか救いでもあった。しかし、強がってはみても、物足りないし、正直淋しかった。

休みの日くらいは、一緒に過ごせればと思うが、鉄砲玉のように出かけたらいつ帰るのかの連絡さえもない。大滝にとって、この頃の京香は何を考えているのか見当もつかなくなっていた。

和菓子店の老舗の3代目を父に持ち、何不自由なく育てられた京香とは、対象的に大滝は、経営者とはいえ、小さな木工所を経営する建具職人の父を持ち、四人兄弟の次男に生まれた。中学一年になった時は新聞配達で家計を助けたのである。それだけに、ハングリー精神は旺盛であった。それがやがて、大滝をゆるぎない野心家としての人格を形成してきたのかも知れない。

大滝が妻の京香に自宅を贈与したのは森山商事が倒産した時、つまり事業に暗雲が立ち込み始めた四年前であった。念のために京香の名義にしておいたのである。個人保証が原因で差し押さえを懸念し、手を打っておいたことが幸いして、自宅だけは残ったことになる。

京香と結婚して21年が過ぎていた。婚姻期間が20年以上あり、贈与を受けた妻がその後も居住する見込みがあれば、夫が妻に居住用不動産の贈与をした場合、基礎控除の110万円のほかに2千万円までは配偶者控除が適用される。もちろん妻が夫に贈与した場合も同じである。つまり贈与のタイミングとしては、申し分なかったのである。

また、危機管理としても経営が破たんしたときのことを考えれば適切な判断であったといえよう。

大滝の心情としても、結婚してから絶えず心配ばかりかけてきた京香に家を贈与するのはごく自然のことであった。

しかし、このことがどう作用したのかは分からないが、ふたりの間は急速に冷え込んでいった。

疲れ果てて家へ帰っても京香は留守であることが多くなった。

京香はもともと淡泊な女であったが、いつの頃からか完璧に要領よく夫婦生活を拒んだ。

たまに大滝が電話をしても彼女の携帯電話は「不携帯電話」としかいいようがないほど一度で出たことがない。

大滝は文句を言うのが苦手な方であり、もとはと言えば事業に失敗した自分に原因があると思っている。いつの間にか、世の中にはいろいろな夫婦のかたちもあるさ、などと自分に言い聞かせてきた結果である。

会社に危機が訪れてからはますますすれ違いが増えて、夫婦としての絆が薄れてきた。

それでいて、会えばふつうに会話を交わすし、食事も一緒にする。会話の内容は世間話に終わり、肝心なことはお互いに避けている。大滝自身も卑怯なことは分かっている。

京香のことはいまでも嫌いではなかった。ただ女としてというより人間的に好きであると言った方がしっくりくるのである。大きないさかいもなく20年以上も連れ添った仲である、情が移っていることに間違いはない。こんなとき、子供でも一緒に生活していればこの気まずさを何とかしてくれるのであろう。


別れのときはじつにあっけなくやってきた。

「私たち別れた方が、もっと自由な人生を楽しめると思いません?」

別れ話は、京香からいい出した。一瞬驚いたが、これまでの大滝は相手から言い出したことに対し、拒んだりなだめたりする生き方をしてこなかった。

「わかった、そうしよう」条件反射のようにいっていた。

 そういってはみたものの京香と知り合ったころのときめきや楽しかった新婚時代が蘇る。「この女を幸せにすることが俺の幸せにつながる」と心の底から思っていたころのことが思い出されてつらい。

いまは成人したとはいえ子どもがいて妻がいる一家のぬくもりがいまさらながらなつかしい。息子たちの幼かったころの無邪気な顔が眼に浮かび声が聞こえてくる。

 この先京香とは、清志や厚志たちとはどんなかかわりあいが持てるのであろうか。

今なら取り消せるかもしれない。


考え込んでいる大滝に、京香はいった。

「私や子供たちのことは大丈夫、心配しないで」

「身体に気をつけてくれ」

「あなたこそ・・・、いま思えば煙草をやめられてよかったわね」

「うん、なにかあったら知らせてくれ」

「ありがとう。そのときはお願いね。わたしたち喧嘩して別れるわけではないのですから。でもできるだけ、あなたのこれからの人生の邪魔をしないようにしたいわ」

京香の強がりと、表へ出せない優しさは昔と同じである。

「・・・・・」

京香はじっと大滝を見つめた。大滝は目をそらしてうめくようなため息をついた。

それを見て京香は言った。

「あなたって優しいのよねぇ。ごめんなさいね、わがままいって・・・」

「・・・・・・」

「早く一緒に暮らしてくれる人を探して下さい」

大滝は、強気を装い漂然として話す京香の強さにことばは出なかった。

京香はいま、一人の人間として自由を求めて大滝のもとを飛び立とうとしている。

大滝は、離婚することを決意した切なさに耐えていた。

つい最近まで離婚は事業などをはるかに超える困難で痛みの伴う出来事だと思っていたが、いともたやすく現実のものとなっていることが不思議であった。

これから先、自分では手に負えないほど荒涼とした心の傷が残るのであろう。

「少ないが、これを受け取ってくれ」

大滝は、銀行預金の通帳と印鑑を差し出した。裏金を含んだ五百万円余りがあるはずだ。

「あなたは、これからたくさんお金がいるでしょう。家も頂いた上に、そんなに無理をしなくてもいいのよ。」

「俺は、これからいくらでも稼げる。俺の気持ちだ、頼むから取っておいてくれ」

しばらく考えた末、京香は、頭を下げながらいった。

「そお、ありがとう。いずれ息子たちの結婚もあるでしょうから預かっておくわ」

大滝は、歳をとったものの、いまも京香は美しいと思う。ただ、小じわや数本見え隠れする白い髪を見ながら彼女が老いたのは自分のせいであるような気がした。

久しぶりに二人が向き合う自宅の2階。京香の好きなテラスでの夕暮れであった。

オレンジ色に燃える夕雲が、取り戻すことのできない二人の時間と距離を伝えているようだ。


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