6,倒産
6、倒産
森山商事の整理が終わってから、光が見えてくると思っていたが、大滝の期待は見事に裏切られた。文字通り地獄のような日々が待ち受けていたのであった。
頼みの綱として期待していた、光陽銀行の融資を事実上断られたことにより、いよいよ資金繰りが逼迫していた。しかし、ノンバンクや高利の金を借りてまで会社の延命をはかるつもりはなかった。それは、一時的な対処療法に過ぎないことは分かっていたからだ。がんばれば、がんばるほど、傷が深くなっていくことが目に見えているいじょう倒産への道を歩むよりほかに選択肢はないようである。
倒産と一口に言ってもその形はいろいろある。
倒産とは経営の破たん状態、つまり事業が続けられない状態、あるいはそれに伴う債務整理のすべてをいう。債務整理には民事再生、会社更生、破産、私的整理などがある。
私的整理は任意整理や内整理とも言われるが、法的整理に対して裁判所の手続きをとらないため債権者の理解を得られれば比較的自由に整理できる。しかし、債権者が多い場合やマチ金などうるさい債権者がいる場合、または手形を発行している場合も難しいといわれている。手形債権がどこへ回っているか分からないためである。
方法のいかんによらず経営をやめることを廃業というが、大滝は、自分の会社を廃業にもっていくための方法を考えている自分が、自分の死刑執行の方法を考えているようで悪寒を覚えたものである。
どうせ無一文になるのである。会社も個人も自己破産をしてしまえば、代理人である弁護士に負うところが多いため、自分の時間を多く取られなくてすむし、精神的な苦労も少なく早く立ち直れることは容易に想像できた。
しかし、どうしてもその気になれなかったのは、自己破産をすると当分どの金融機関も相手にしてくれないであろう。そして、自己破産をした場合心まで破産してしまいそうな気がしたからである。
負けグセのついた人生を恐れた、ともいえる。会社は倒産しても人生の倒産は避けたかったのである。
もちろん、自己破産をしても、捲土重来を期して立派に立ち直る人もいる。しかし、大滝には、その自信はなかった。暗い心に鞭を打ち悩みに悩み抜いた。
大滝が任意整理を選んだ決定的な理由は、やはり金の問題である。裁判所に破産の申し立てをするには、裁判所に納める予納金や弁護士費用などで最低でも5百万円の金が必要なことを知った。中小零細企業では会社の債務の個人保証をさせられているのが普通である。大滝の場合も同じことである、同時に個人の自己破産を申し立てなければならないからその分も上乗せされることになる。
かといって、フロンティアの場合自己破産の道を選べば、裁判所に支払う予納金弁護士費用合わせると5百万円から6百万円かかるという。やはり、この選択肢はあり得ないと考えた。
そんな金があるならいくらかでも債権者に回したいし、なにがしかは、自分が立ち直るための資金にしたいのが本音である。
文字どおり文無しで破産をした人が、住む家がなく、ホームレスになることはよくある話であるが、アパートを探すにも敷金、礼金、前家賃、仲介料となると、まず不可能に近い。加えて、連帯保証人が必要だ。破産した人間の保証人になってくれる人はいないし、頼めないのがふつうであろう。夜逃げすらできない。
一家離散、失業、ホームレス、自殺という悲劇は決して他人事ではないのである。
大滝はお金がないから倒産するのに、お金がなければ倒産もできない現実を知ったとき、いまが自分の人生において本当の正念場であることを知った。
大滝が、自分の手で整理しようと決意したのは、金の問題のほかにも理由があった。それは、まず手形を発行していなかったことである。
手形を発行していると支払期日がくれば待ったなしで落とさなければならない、お金の都合がつかなければその時点で不渡りということになる。
不渡り手形を2度出すと銀行取引が停止になり、ふつうこれを倒産と呼ぶ。一度不渡り手形を出して2度目は出さないという例はほとんどない。期日を間違うなどの手違いで不渡りを出す例も皆無ではないが、極めて稀なことである。
それに、手形は流通するから、裏書きされてどこの誰の手に渡っているか分からない怖さがある。
理由はまだある。幸いなことにマチ金などのうるさい債権者がいるわけではなく、債務のほとんどが金融機関と仕入れ先であったことである。銀行は担保や保証人、保証協会の保証などがあるが、経営破たんとなれば、静かに法的手続きを進めるだけである。大滝の場合資産は何もない。いまとなっては住まいを京香に譲渡していたことが幸いしたといえる。
それに加えて、長い取引関係にある仕入れ先は、多少の棚上げや分割払いに応じてくれるとふんだからである。
任意整理は自分の力でやるだけに費用はほとんどかからない。自分の会社を自主的に消滅させるわけだから、会社の資産を自分で処分して債権者に債権額の比率に応じて支払うのである。
それにはまず、債権者に隠さず情報を開示したうえで、返済計画を提示して、信頼されなければできないことである。
そのうえ、知識、交渉力、行動力などが伴わなければならない。
時間とエネルギーもどれだけ必要なのか、想像もできないが、大滝は果敢に挑戦した。
しかし、現実は厳しかった。これほど、テマヒマかかり、エネルギーを消耗するとは思わなかった。
法律には素人の彼が、弁護士にもたのまず、任意整理という途方もなく難しい仕事に挑戦したことが、よかったのか、まずかったのかは分からない。店の営業を続けながら効率の悪い店、処分して金になる店の順に一店一店撤退を続けた。
大滝にはかねてより、多忙を楽しんでいたふしがある。スケジュールが詰まっていることに充実感を持っていた。
幹部社員に速射砲のように指示命令を出す自分に酔う気配さえあった。
しかし、会社を整理し始めてからの多忙さは、苦しみに満ちた多忙さに変わった。明日の見えない、敗戦処理の忙さしさは、大滝に初めてむなしいビジネスの味を教えた。
忙しいという字は、心をなくすと書くが、その意味がわかったのもその頃である。
大滝は、内整理の場合によく行われる債権者集会を開かなかった。取引先を一件ずつ訪ねて買掛金の繰り延べを頼みこんだ。すべての債権者が大滝の提案に賛同してくれた。対応した、ほとんどの人が、激励してくれたのには泣かされた。
いちばん大口の業務用食材卸会社の東京本社を訪ねた時は、社長が対応してくれ食事をご馳走になったうえ、励ましの言葉をもらったのである。
「フロンティアさんには、期待していたのですが残念です。でも、こうして誠意をつくして、わざわざ訪ねて頂きありがとうございます。実は、いまどきこのようなことは珍しいことなのです。私もここまでくるのに、人さまには言えない挫折を味わってきました。どうぞ、がんばって立ち直ってください」
大滝は、必ず立ち直って恩返がしたいと、強く思った。
出店を続けているときに行う不採算店の撤退、すなわちスクラップ・アンド・ビルドと違って、会社をたたむための店舗の撤退は社員の解雇をともなう。大滝にとってはそのことがいちばんこたえた。店ごとに、社員ごとに、つらい物語が残された。
大滝は、店を処分しながら残されている店の営業を続けるという、タイトな状況の中で整理を進めていった。
フロンティアは自社物件が少なく、13店舗のうち9店舗がテナントの店であったため、店を処分しても債務は大きく残ってしまう。
テナントは保証金や敷金は戻るが、店を居抜きで売れたとしても、その時点の評価額の半分で売れればいいほうである。居抜きで売るためには売買契約が成立し引き渡しがすむまでは家賃を払い続けなければならない。居抜きで買う人が見つけられずに撤退する場合、多くの賃貸契約書は、撤退の際は原状復帰という項目が入っているために、結構大がかりな工事を必要とするのである。
リースバックで建てた独立店舗の場合期限前のため違約金が発生するのも大きい。
悪戦苦闘の末、処分できるものはすべて処分した。
悔しいことに光陽銀行への義理で買ったゴルフ場の会員権の価格は、買った時の3分の1になっていたのはいい方であり紙くず同然のものもあった。
土地付き店舗ごとの売却や居抜きによる売却、テナント出店の原状復帰をすませたうえでの撤退など、フロンティア全店舗の処分、整理がすむのに3年間を要したことになる。
アメリカの視察旅行で友だちになった大久保が開発部長をしていた会社が那須にオープンした、乗馬クラブにテニスコート、スカッシュコート、プールを併設した温泉付きのリゾートホテルも倒産して会員権の価値もゼロと化していた。
何がしかの金を貸した友人も行方が分からない。
大滝としては考え抜いた上での任意整理であったが、これでよかったのか後悔の念にさいなまれることがあった。結局は安っぽいプライドと金のために自己破産を怖がったために余計な時間と苦労を背負いこんで、家族をはじめ身近な人たちに長いこと心配と迷惑をかけるはめになってしまったのである。
しかし、すでに矢は放たれている。やり直しはできない。会社は自然消滅させるしか方法はないのである。自分で手塩にかけて育てたフロンティアが野たれ死にするさまを、この目で見届ける苦痛を味わうしか方法はなかった。
個人で支払う保証債務は光陽銀行と保証協会から、矢のような催促が続く。
税金の滞納でショッピングセンターに預けてある保証金が差し押さえられたのは痛かった。社会保険料の滞納分の支払いに回そうと考えていた貴重な財源であった。
店が全くなくなれば、収入もなくなる。生活費と息子たちの大学の学費の心配も残っている。
金融機関以外のフロンティアの未払い金などの負債も少しずつ返していかなければならない。
その頃になって、大滝の人生にとって最悪のスランプがやってきた。
大滝は、会社が死に体になると、これほど極端に打つ手が限られてくることを、身を持って知ったのである。
誇りを失い、希望を絶たれ、暗い疫病神にじわじわとむしばまれていく。
人に会うのが怖い時期が続いた。飯が喉に通らないどころか何を食べても味がしないこともあった。
絶えず何かに追われている夢を見た。どん底とはあんな状態をいうのであろう。
あろうことか、死をも考えたのか真剣に自分で入っている生命保険の金額を計算した時期もあった。
“債務奴隷”大滝はいつか、どこかで聞いたことのある、この言葉を反芻していた。
そんなとき大滝は、大先輩でありフロンティアの顧問の会計事務所である越路公認会計士から京都にある禅寺の老師を紹介された。
大滝はその名を、松田無弦と聞いて以前読んだ禅の本の著者に違いないと思った。
運のよいことに、松田老師は東京のある財界のグループに招かれて時々講話をするために上京するが、その時に会ってくれるというのである。
大滝が赤坂のホテルで松田無弦老師に会えたのは、秋も深まった夕暮れ時であった。
ホテルの和食の店で酒を飲みながら話ができたのは、気楽に話ができるようにという老師の心遣いであった。
老師は、かくしゃくとしていたが、その顔を見ただけで大きな懐に抱かれるやすらぎを感じさせた。
「はじめまして、大滝でございます。お忙しいところ、またお疲れのところ私のためにお時間を頂きありがとうございます」
大滝は、恐縮しながら深々と頭を下げた。
「松田です。私にはかしこまったあいさつは要りませんのに」
老師はにこにこしながら言った。
「今日は講話をされたそうですが、長時間であったのですか」
「2時間ばかり話をさせて頂きました。あなたの、お話は越路先生から電話で聞かせてもらいました。えらいご苦労をされているそうですね」
「はい、元はと言えば、身から出たさびですが・・・」
「あなたが、心の底からそう思えるのなら救われるでしょう」
「・・・」大滝は、自分の軽率な外交辞令のあいさつを恥じた。この人には、自分をどう繕っても、すべてを見透かされると思った。そして自分のすべてをさらけ出せる人に違いないと感じたのである。
ひととおり、大滝の現状と心境を聞いた老師は言った。
「大滝さん、もっと力を抜いたらいかがですか、捨てるのです。いま、あなたを縛り付けているものは、あなた自身です。それにとらわれているうちは、楽にはなれません。真に解放されません」
「はあ」
「心をお臍の下に置くと言うことも大切ですが、心のあり場所は決まっておらず、いつでも、どこにいても自由にとびまわっているのだと思うことも必要なのです。これは“金剛経”というブッダの教えにあるのですが、“応無所住而生其心”まさに住むところなくして、しかもその心を生ず、というのですが、いいかえれば、心は身体の中のどこにもあるが、その場所は一定ではない。つまり、心を臍の下に閉じ込めておくうちは未熟であるということです」
「おうむしょじゅうにしょうごうしん?」
大滝は、この言葉を参禅のときや書物により知った言葉であるのを思い出し、今の自分にこそ必要な言葉なのであろうかと考え込んだ。
「はい、とらわれないことです。捨てることです」
「私はいま、失敗した自分の人生を取り戻すべく全身全霊を賭けています。この思いにとらわれていたのではいけないのでしょうか」
「それは、それでいいのです。しかし、そのことに凝り固まっていては大滝さんの念願は達成できないでしょう」
「・・・・・・・」
「どこかに力が入り過ぎると、いつか、どこかで壊れます。それはバランスを失うからです。変化に対応する方法は自らの変化です。変化するには常にしなやかさを持っていなければなりません。つまり己をひとところに留めていては、変化に対応できません」
「・・・・・・・」
「江戸時代に沢庵宗彭という禅の達人が、柳生但馬守に与えた剣法と心法の接点を論じた“不動智神妙録”(ふどうちしんみょうろく)という書を残しています。その中で“物一目見て、その心を止めぬを不動と申し候”と説いています。これは、禅を通じて兵法を解いたものですが、人の心のある場所を決めていることは不動と言わないのです。青い空も刻々と変わる、白い雲が常に変化して流れるように定まっていないのです。それが、自然なのです。もし剣を交えた時、相手の剣尖を見ても剣尖にとらわれないことです。面を見ても面にとらわれないことです」
「なんとなく分かるような気もしますが、いまひとつ明瞭には理解できません」
「それでいいのです。理屈で分かろうとしなくとも、座禅をするとか、瞑想の時間を持ってください。いずれお分かりになることでしょう」
「はい、そうしたいと思います」
2時間あまりが、あっという間に過ぎた。
老師は、難しい話をできるだけやさしく、実際に起こった事例をあげながら終始にこやかに大滝をさとした。
老師は、自分の力で考えて、考えて、考え抜くことの大切さも教えてくれた。そして、別れ際にいった、いかなるときも心を解き放てば“針の穴くらいの抜け道は必ずある”という言葉は、後に大滝の座右の銘となるのである。胸に刻み込んだこの言葉は、大滝を幾度となく救ってくれたのである。
大滝にとって、この瞬間が真から復活の狼煙を上げたときでもある。
このままでは死んでも死にきれない、などと大げさに考えなくても人並みに生きる方法はある。もはや見栄や誇りのためではなく、一人の人間として今日という日をひたすら生きることが、難関を乗り切ることに繋がるはずだ。自分の責任を果たすという結果はおのずと後からついてくると思えるようになったのである。
諦めることは、“身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ”に通じることなのかも知れない。
大滝は以前ある画廊で会った画家の話を思い出す。その画家は絵画の世界で名を残さなければ、自分の存在価値はないと思いつめて修行に励んでいたが、あるレベルからはなかなか上達せずに苦しんでいた。
あれほど好きだった絵を描くことが、苦痛にさえなったという。
ある時、その画家はプロの画家になることを諦めた。世間から認められたいなどと思わなくなっていた。しかし、好きな絵を描くことは続けたいという思いで絵を楽しむように描いた。するとどうであろう。いままで味わうことのなかった絵を描く喜びが分かってきたという。絵の奥行きの深さも分かってきたというのである。
結果として彼の絵は多くの人に感動を与え、画商たちの評価も得られ売れっ子になれたというのだ。
大滝が、いつの間にか連帯保証債務を負わせた友人森山のことを忘れるようになったのは、松田老師との出会いから間もなくのことであった。それは、大滝にとって大いなる救いになった。被害者意識を引きずったまま復活することはできなかったかも知れない。
すべては身から出たさびであることを、ごく自然に自覚したことが、気持ちを楽にした。
過酷な試練を耐えることに苦痛を感じなくなっていた。
大滝はどんな日も、一日少なくとも三十分は心静かに瞑想の時間をもつ習慣がついていた。
いつの間にか森山商事の倒産から四年、フロンティアの整理を始めてから三年の歳月が経っていた。