4、債務奴隷
4、債務奴隷
新しい年を迎えたと思ったらもうすぐ春である。大滝経営戦略研究所の仕事は順調に増えている。
特に企業再生の仕事が増えているのは、中小企業の経営環境が相変わらず厳しいことに起因しているのであろう。大滝はコンサルタントを増やそうと考え始めていた。
明美もだいぶ仕事になれて欠かせない存在になっている。
最近になって大滝のデスクの後の壁にA三の紙が一枚貼られた。
そこには「債務奴隷解放宣言」とスローガンらしき文字が書いてある。
「この間から聞こうと思っていたのですが、これはどういう意味ですか」と明美が尋ねた。
会社というには小さ過ぎる事務所ではあるが、大滝は企業理念として最近掲げたものである。大滝はいずれ社員第1号である明美には、このスローガンを説明しておこうと考えていたこともあって話し始めた。
「金融機関というところはお客が困ればこまるほど、困らせる仕組みができているんです。企業がひとたびつまずくと、担保を増やせ、保証人を増やせと迫り、金利を上げますとくる。そのうえ、書類が増え、審査の時間がかかり決定までには途方もない時間を要するのが一般的です」
「はい」
「連帯保証人という人質をとられた経営者の心労は並大抵のことではない。一度連帯保証人を立てたら最後、いつ解放してあげられるかわからないのがふつうです。
だいたい先進国の中で、連帯保証人という封建的ともいえる制度がいまだに残っているのは日本だけだという。ヨーロッパでは百年前に姿を消し、アメリカでも八十年前にはなくなっていると聞いています」
「そうなんですか」
「しかし日本にはこの制度が厳然と存在する。だから一度つまずいた人間が再度事業に挑戦することはほぼ不可能なのです。だから、日本では金持ちやその御曹司以外で事業を起こす人は、ますます、少なくなるのです」
「でも、お金がなければ事業は起こせないし、続けるのが難しい・・・」
「そう、なんとか起業できても、その後もお金で苦しむことが多い。基本的に日本の中小零細企業は自己資本比率が低いからです。自己資金の増えない大きな理由のひとつは外国に比べて税金が高いことにもよります。経常利益の四十パーセント近いお金が持っていかれてしまう。そんな状態で利益を蓄積して資本を充実させるのは容易ではない。日本の中小零細企業の自己資本比率は、製造業で約二十五パーセント、卸売業が一九パーセント弱、小売業にいたっては一六パーセントとわれています」
「なるほど・・・」
「事業に使用する総資産の75から84パーセントが金融機関のお金で事業をしているわけです。言い換えれば銀行の資本で経営をしていることになる。借入金という名の他人資本は、儲からなくても利息という名の配当をしなければならない。むしろ、儲からない会社ほど高い利息という名の配当を要求されるのが常です」
「大変なんですねぇ」
「問題は配当だけではすまないことにある。資本(元金)をも返済しなければならない。これは資本金を引き揚げられることに等しい。お金は企業の血液です。血液を抜かれた分輸血してもらわないと死んでしまうのは人間と同じです。すなわち、血を抜かれた分また借入を申し込まざるを得ない。そのとき、金融機関は担保の増加や連帯保証人の追加を迫るのです。中小零細企業の経営者が爪に火をともすようにしてやっと住宅ローンの返済が終わってもほとんどの場合は事業資金の借入の際に共同担保に取られている。これが、常に事業資金を借りなければ行きづまる中小零細企業の宿命なのです。背に腹は代えられないから、金融機関の言うなりにならざるを得ないのです」大滝はともすれば力が入りそうなのを務めて冷静に解説する。
「連帯保証することは自分が借りたことと同じですねぇ」
「そう、友人、知人、親戚に連帯保証を頼むときには、この先やっていけるかどうか心配だけど、連帯保証人になってくれとはいえない。多くの場合、この先心配はないと嘘をついて頼みこまないと保証してくれる人はいないはずだから」
「嘘をついて・・・」
「嘘はお金が付かせるのです。かくして、自分の事業に関係のない人を巻き込んで借り入れは増えていく。返し続ければ、借り続けるほかはない。借り続ければ、返し続けるしかない。返せなくなって、この悪循環が止まったとき、命運は尽きる」
「・・・」
「借り入れた本人はその日から眼には見えない鎖で繋がれた債務奴隷のようなものであるが、じつは連帯保証人も保証した、その日から同じように債務奴隷となる。ただ、多くの保証人はこの先危険なことが起きるとは夢にも思わない」
「怖いことですねー」
「借り入れた本人は、といえば大切な家族や友人・知人などを人質に取られていることがいつも頭の中から離れることはないでしょう」
「そうでしょうねぇ」
「その点大企業は社長個人が連帯保証することはまずない。万が一経営破たんをしても会社更生法や再生機構などで救われる。少なくても社長自身がすべての財産を失うことはないのです。それに比べて中小零細企業の経営者はストレスと闘いながら綱渡りを続ける。安穏に生活し、ハッピーリタイアできるという保証はないのです」
「経営者も他から見るよりは大変なのですねぇ」
「債務奴隷とは古くはギリシャ時代からあったそうですが、生活費を高利で借りるため債務が永久になくならず、その債務は子供たちが代々働かされて払い続ける人たちのことであったそうです。そこからは一生抜け出せない状況が何世代も続く。奴隷が悲惨なのはだれかの所有物という人権を無視した屈辱に加え、自由意思を奪われて強制労働に従事させられることが果てしなく続くことにあったと思われます。いまではそれはなくなったが、日本では現代も奴隷という言葉こそ使わないが、他人の資本で事業を行い一度つまずいたために命を削りながら不安におののく債務者はおびただしい数にのぼるのです。
私自身、一番苦労したのが連帯保証人という人質を取られている債務でした。妻の父親に頼んで保証してもらった光陽銀行の2千万円を優先的に返済しなければならなかったときです。
それは、自分が保証債務のために塗炭の苦しみを味わっただけに、あの思いを義父にはさせたくなかったからです。」
「・・・」明美がうなずく。
「話をギリシャ時代に戻すと、当時ギリシャでは都市で生まれた成年男子だけが市民となることができたそうです。したがって法的に財産の所有者になれたのは父だけであったのです。もしその父が債務を負い返済が不可能になれば、彼の妻、子供に加え使用人まで債務奴隷とされた。その期間は債権者が彼らの労働によって損失を回収できるまでの間ということになるわけです」
「家族にも未来はないわけですか」
「しかし、ギリシャの多くの都市国家では、債務奴隷となる期間は5年間に限られていたそうです。また、債務奴隷は生命と手足は保護されており、これは一般の奴隷には与えられていない保護であったそうです」
話しながら大滝は、なりふり構わずどんなことをしてでも返済しようともがいたころを思い出していた。妻や子供たち名義の定期預金はもとより、保険の解約、会員権の処分、はては、消費者金融からも借りまくったものである。
そして、屈辱的なサラ金の無人借入機の中にいる自分が目に浮かぶ。向こう側からはこちらが見えてこちらからは相手が見えない個室である。誇りもなくひたすら屈辱に耐えて、事務的な質問や指示に従いいくらでもない金の貸付決定を待つのである。
せめて自分が苦しむことは耐えてみせる。
しかし、家族はもとより連帯保証人を巻き込むことの怖さは想像を絶するものがある。 債務者に代わり保証債務を返済できる連帯保証人はどれだけいるのであろうか。
とにかく払えなければ、取り立て、法的手続きによる差し押さえと攻め立てられる。
行き詰まった末にすべてを失うことを覚悟で自己破産をするしかないのである。
一度連帯保証人になると、時限爆弾を抱えた債務奴隷のようなものである。
今日の日本では、ひとたび債務や保証債務を負うと完済するまでは目にはみえないが想像以上の重圧にさいなまれる。債務には時効というものがあるがそれを待つには相当の根性がいるし、債権者には時効の中断という法的手段もある。長い期間のプレッシャーで病気になる人も多いし、自殺する人もいる。
連帯保証人を立てたくなければ、借金をしないことだとか、保証債務を負いたくなければ保証人にならないことだということはたやすい。しかし、事業欲に燃え、事業を継続したいと思うのは人情である。そして、そう考えるのは健全ともいえる。事業は借入ができてこそ継続もできるからだ。
そのことが経済を活性化させていることも事実である。しかしながら、人権を無視した連帯保証制度はこのままで良いのであろうか。
特に第三者の連帯保証制度には大きな疑問を感じないわけにはいかない
倒産した経営者で自殺する人の多くは保証人に合わせる顔がないことと、借金の重圧に耐えられなくなった結果だと聞いているが、その気持ちは理解できる。
中小零細企業の経営者は、文字通り命を賭けて経営している。会社の借り入れも個人保証し、大切な不動産を担保に入れ、挙句の果てには連帯保証人を頼むはめになることが多いようだ。
明美と話をしながら大滝は、友人の弁護士横田輝夫と飲んだ時に話し合ったことを思い出していた。
大滝が持論を展開した。
「いまどき連帯保証という基本的人権を無視した制度はおかしい、他の先進国のように廃止にすべきだ。何よりも資本主義の原則に反するではないか。何のために法人がうまれたのか。法人というのは事業に失敗した経営者が失うものは会社に投資した資本金と経営権だけでよいという考え方ではないのか。つまり資本主義社会は有限責任制度を確立した社会ではなかったのか」
横田言った。
「言いたいことは俺にも分かる。しかし、もしいま連帯保証制度をなくしたら裁判所は自己破産申立書の山だろう。いまでも何と簡単に自己破産を申し立てる人の多いことか。しかも最近は、金額がそれほど多くもないのにかかわらず・・・」
「それは貸しつける方に問題があるのではないか?手抜きをせずしっかり審査していればそう潰れる会社ばかりに貸すことはあるまい。そうすれば審査能力も高まるものを、担保や保証人頼りの審査だから会社の将来が見抜けないのではないのか?」
「それは、確かにいえる。金融機関は融資した金でその企業をどうすれば伸ばせるかを考えるより、どうしたら貸した金を回収できるかばかり考えているからな」横田が賛意を示した。
だからといって、大滝は自分に落ち度がないと思っているわけではない。
ときには、銀行につぶされたという被害者意識を持つこともあるが、本音では非は自分にあると思っている。
大滝自身反省することは、連帯保証した森山の会社が倒産したことが契機となって倒産の憂き目にあったが、考えてみれば大滝自身にも自分も保証してもらうという下心があったことは否めない。つまり、自分の持つ力以上の仕事をしようとして失敗したともいえる。
機が熟すときを待てなかった、言い換えれば、焦ったことが不幸な結果を招き多くの人たちに迷惑をかけたことになる。志が高かったと言えば聞こえは良いが、身のほどをわきまえなかったことになる。
脚下照顧という言葉があるが、自分の足元こそ常に見なければならない。他に向かって理屈を言う前に身近な自分を、自分の弱点を見据える勇気と知性がなかったのである。
「社長の掲げた債務奴隷を解放しよう!というスローガンの意味がよくわかったような気がします」明美が感慨にふけるように言った。
「ただ最近かすかな明かりが見えてきたようです」
「というのは?」
「わたしたちコンサルタントや一部の評論家などが、事あるごとに個人保証は人権無視もはなはだしいなどと講演などで話したり、執筆したりしたせいか、ここへきて個人保証、その中でも特に第三者保証をなくそうという民法の改正案が浮上してきたのです。そして、最近金融庁は監督指針において中小企業に対する第三者連帯保証を求めないことを原則とするような姿勢を見せ始めたようです。ただ、原則には例外がつきもので、第三者が自ら担保提供を求めた場合はその限りではないなどと歯切れが悪いのが気にかかります」
「運用上の解釈に幅ができますね」
「そう、そして懸念されるのは貸し渋りの原因になってしまうことです」
「この運動は継続していきたいですねぇ」
「そうしたいね」
「質問してもいいですか」
「どうぞ」大滝は明美がこの話にのっているのに気付きうれしかった。
「金融機関や金融制度だけに問題があって倒産が起きるのですか」
「ウーン、もちろんそれは違う。私の場合を例にとれば失敗の原因は、他にもありました。直接の原因は連帯保証債務の発生ですが、真の原因は私自身にありました。それは成功をあせり身の丈以上の事業規模を追求したため、そのとき会社に蓄積がなかったたからです。
あせりです、あせりは最も頼りになるはずの、時間を味方につけることを放棄することです。わたしは、待つことは勇気であることを最近になって理解できるようになりました。
これは消極的になることとは全く違うことなのです。機が熟すのを待つことはそれなりの勇気に加えて計算と忍耐を必要とします。もし、あの頃その度量があったとすれば、保証債務など乗り越えられる力を蓄えていたと思うのです」
「あせり、ですか」
「そうです。おかげで満身創痍の中で再生をめざしたわたしは、人生の大切な時期を非生産的な借金との闘いで過ごしてしました」
「でも社長の場合は御苦労された分の見返りはあったのではないですか」
「まったくないといえない。その一つは人の情けを知ったことであり、復活のための心の持ちようを学べたことです。セルフコントロールによっては、ともすれば挫折しそうな心を奮い立たせることができることを知ったことは、その後の生き様に大いに役立ちました。
しかし、復活のための時間とエネルギーは途方もなく大きかった。それは、メリットと比べようもないほどの代償であったと思います。
すべてのことについていえると思うのですが、時間を味方にできないようでは、成功はおぼつかないでしょう。機が熟すのを待つ勇気が大切だと思います。
特に若い経営者で積極的な人にとって、これは大きなテーマだと思うのです」
話しながら大滝は忘れることのできない大森商事の経営破たんに思いをはせた。