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債務奴隷解放宣言  作者: 大垣 壽雄
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3、再会

3、再会


枯葉が舞い冬の訪れを知らせる昼下がり、草野明美は落ち着かない休日をもてあましていた。

36歳、バツイチではあるが、子供もいない独り身である。

ストア・デザイナーという横文字の職業にしては、黒髪を肩まで伸ばした日本的な趣の美女である。切れ長の眼の下の小さな泣きぼくろが憂いをたたえている。

これまで、大滝経営戦略研究所に勤め始めるまでの、休日は計画的に楽しんでいた。少なくとももの思いにふけったり、ため息をついたりするようなことはなかった。

デザイン事務所で働いていた明美は、休日には友人と旅をしたり、益子の陶芸教室へ通ってろくろをまわしたり、時には、気のおけない仲間と飲んで騒いで独身を謳歌していた。しかしこの頃は、いままでのような賑わいから遠ざかっているようだ。

はた目には落ち着いたようだが、そのじつこの頃は気もそぞろなのである。その理由が大滝竜二という男の存在にあることを明美自身、気づかないわけではなかった。

しかし、気づかないほうが楽であることも分かっていた。そうしようと、思えば、思うほど気になるのはどうしたことか。

女ざかりとはいえ、4年前に前の夫と離婚した後、もう男はたくさん、と言ってはばからなかった自分はどこへいってしまったのか。


明美が大滝と久しぶりに会ったのは、9月も終わりに近い底抜けに青い空の午後であった。益子の陶芸教室の帰り道陶芸店のギャラリーで人気作家の個展を眺めていたときのことである。

「草野さんでしたね、大滝です」と声をかけられたのである。

「まあ社長、ご無沙汰しました。今日はおひとりで・・・」

「はい、今日は仕事で益子にきておりまして」

大滝とは明美が、フロンティアの仕事で新店舗のパースを届けたとき以来であった。

明美は、噂に聞いていたフロンティアの経営破たんの話に触れていいものかどうか迷いながら、当たり障りのない話題を考えていた。察したのかどうか、大滝から話をもち出した。

「あるいはご存知とは思いますが会社をたたんで、いま柄にもなく経営コンサルタントをしておりまして、今日はこのギャラリーやレストランなどを経営している会社へ仕事できていたのです」大滝竜二は、屈託がなかった。

「そうですか、あの節は大変お世話になりましてありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ助かりました。ところで、お時間がありましたらお茶でもいかがですか」

「はい、喜んで・・・。お仕事中ではないのですか」

「仕事が終わり、そろそろ帰ろうかと考えていたところです。貴女の方こそお時間は大丈夫なのですか」

「はい、私も陶芸教室も終わり帰り道ですから・・・」

「そうですか、この店の向かいにあるイタリアンレストランは、このギャラリーを経営している会社が最近オープンしたもので、私がお手伝いして立ち上げた店です」

「実はいいお店ができたと思い、いつ入ろうかと考えていたのです」

「それはよかった。ところで焼き物の修行をされているのですか」

「修行なんて、そんな大げさなものではありませんわ。お遊びです」

ふたりは、大きなけやきの木の下にある古い民家を改造したレストラン「けやき」の中へ入った。

アンドレ・ギャニオンの曲「めぐり逢い」が流れていた。

「初めてなのに、なぜか懐かしい感じのするお店ですね。レトロな雰囲気のなかにロマンティックな香りが流れていて、ステキですわ」

「貴女に褒められて、素直にうれしく思います」

「大滝さんは、陶芸はなさるのですか」明美は自然に、呼び方を社長から苗字へ変わっていた。

「いいえ、もっぱら鑑賞専門です。どちらかと言うと、手びねりのものが好きです。益子焼といってもデザインといい、色合いといいかつての民芸風なものとは一線を画すものに魅かれます。貴女はだいぶ上達しているのでしょう」

「それが、思うように上達しません。私って不器用なのでしょうか、ほかの方にどんどん、追い越されてしまいますわ」

「貴女の美的センスからすれば、信じられませんがね」

「とんでもありません」

ちょっと間をおいて明美が聞いた「お仕事をご一緒させて頂いた時、一度お聞きしようと思ったのですがですが、大滝さんはデザインか、美術の勉強をなさったのですか」

「いいえ、特別にはしていません。どうして・・・?」

「色彩感覚や造形について鋭いなぁ、と何度となく思ったことがありましたから」

「あれは、お客の目にどう映るかという視点からの思いつきを並べ立てていただけです。言いたいことを言って、素人がうるさい奴だと思ったでしょう」

「いいえ、的を射たご指摘を頂き、勉強されていらっしゃる方だと思いましたわ」

「ただ、子供の時から絵は好きでした。いまもときどき描いています」

「水彩ですか」

「いえ、油です」

「油絵ですか。今度ぜひ見せてください」

「人さまにお見せするほどのものでは・・・。でもチャンスがあったら見てください」

「どのような絵を描かれるのですか」

「もっぱら、風景や静物です。いずれは人物に挑戦したいと思っています」

明美にとって、穏やかで楽しい時間が流れた。

大滝は、フロンティアのことや、コンサルティングのことなど、明美の質問に対して、最小限度の話しかしない。しかし、絵のこと、陶器のことになると、目を輝かして話をした。

明美はこれまで、大滝に対しては、合理的で、ムダのない生き方をしている仕事人間というイメージしかもっていなかった。かつてのクールでシャープな彼と今日の彼の隔たりが不思議であり、新鮮でもあった。

明美の話にうなずき、あいづちを打ち、ときには自分のことのように喜んでくれた。

その、相手を大きく包み込む優しさと、さりげない気遣いは、戦いの後のつかの間のやすらぎを慈しむ兵士のようにも思えた。

そういえば、プライベートで話すのはこれが初めてである。だからこうも親しみやすいのかも知れない。それとも、かつてのように気負いのようなものがないのは人を使う会社から個人企業にかわったせいなのか。明美はいろいろ考えをめぐらした。

ただ、気になったのは、時折見せたどこか遠くを見る寂しそうな表情であった。

そして、明美がいまの職場を変えようと思っていることを話したとき「あなたのような人に私の仕事をお手伝いしてもらえたら、助かるだろうなー。何よりも私のモチベーションがどれだけ上がることか・・・」とポツリといったのである。

「いま、何人でやられているのですか」

「じつは別に学習塾を経営しているのですが、忙しいときは講師に手伝ってもらうことはありますが、基本的にコンサルタント事務所の方は私一人です」

「では、大変でしょうね」

「一人だと何もかもやらなければならないので結構忙しいのです」と言いながら大滝がさし出した名刺には、株式会社大滝経営戦略研究所とあった。

「奥様には手伝ってもらわないのですか」思わず聞いてしまった明美。

「いま、いないのです…別居中です」といったが、多くは話したくはなさそうである。

「そうですか・・・・・」

瞬間の沈黙のなかで、なにか事情があることを察した明美が、話題を変えるように言った。「実は11月にグループの作品展があるのです。もし、ご都合がつきましたらご覧になってください」

大滝は、手渡されたリーフレットを見ながら約束した。「はい、うかがわせて頂きます」

取りとめもない話しが続いた後2人は別れた。背を向けて、自分の車の方へ歩く大滝の後ろ姿は、やはり遠くを見つめていたあの寂しさと同じものであった。


明美が大滝に電話をしたのは、その日から10日も過ぎた頃であった。

「先日はご馳走様でした。楽しい時間をありがとうございました。早速ですが、私を大滝さんの事務所で使ってくれませんか」

驚いた様子の大滝にかまわず、明美は言ったのである「この間もお話いたしましたが、いまの仕事は嫌いではありませんが、人間関係で嫌になり退職願を出しました。どこかで使ってもらわないと私、困るのです」という言い方は明美らしかった。

話はとんとん拍子に進み、明美は大滝経営戦略研究所の社員になったのである。

明美は、大滝が自分の入社を希望するようなことを言ったのは、社交辞令だと思わないわけではなかった。そして、ああは言ったものの、これまでの職場の人間関係に耐えられないというほどではなかった。

しかし、新しい世界を知るのも悪くはないし、コンサルティングという仕事に興味があったことも事実である。

明美には前ぶれもなく他人には理解しがたい行動に出ることが、何年かに1度あることを、自分でも知っていた。そして、そんな自分が嫌いではなかった。自分では、何がしかの計算とひらめきのようなものを大切にしているつもりではある。

ただ、人に相談するとか、根回しなどをしたためしはない。それが、人の目には唐突に映るらしい。母にさえ「貴女は刹那的に行動することがあるので目が離せない」とよく言われたものである。

今回の決断も、その類かもしれない。しかし、明美は一連の行動を後悔したことはなかった。それは、いつも結果として何かを掴むことができたからだと思っている。

これまでの、自分の意思決定をゆっくりかえりみて自分で納得していた。

しかし、今回の転職だけは、大滝竜二という男の存在を無理に意識の外へ置くことにしていることに違和感があつた。

それにしても、大滝竜二は不思議な男である。明美の察するところ、苦境の連続であったろうが、愚痴や苦労話ひとつ言わずに淡々としている。もっと、へこんでいる様子を見せてくれれば、励ましの言葉のひとつくらいはかけられるものを・・・。

「社長、睡眠時間はどのくらいとられているのですか」あまり忙しいようなので、聞いた時のことである。

「うん、昨夜は四時間寝たかな」

「もっと睡眠をとらないと体によくありませんよ」

「起きているときが生きているときだからね。死んでからゆっくり寝るさ」とこともなげに言うのである。

「まあ・・・」

あきれて睨む明美に大滝は続けて言った。「そう、4時間といっても、そのうちの2時間は寝ている夢を見たから合計すれば6時間寝たことになる」と真面目な顔をして言う。

明美は思わず吹きだしたものである。

世間の噂や大滝との細切れの会話をつなぎ合わせれば、漂然としているあの顔にたどり着くには、想像を絶する苦闘の日々があったことだろうと明美は思う。


明美が、突然ひらめいたのは、休日のその日、夕暮れどきのことであった。

会社のために、そして自分のためにスキルアップしておくことが、いまの自分の心を安定させることになる。そのことが、大滝のために役立つことに繋がるはずである。

明美はノートパソコンを開くと、インターネットにアクセスした。気にとめていたマーケティング関係の本を五冊まとめて近くのコンビニで受け取れるサイトに発注した。そのことによって、気持ちがいくらかは落ち着いたようである。


一方大滝は、ご機嫌であった。まさか、草野明美が自分の会社のメンバーになってくれるとは、思ってもみなかった。たまたまの出会いのときに、言ってはみたものの、こうもうまくことが運ぶとは思わなかったのである。

デザイン、マーケティング、文章力、パソコンの知識と技術など大滝にとっては、まさに強力な助っ人の出現である。

草野明美が勤め始めてから、1週間が過ぎた頃には、事務所の雰囲気が驚くほど変わった。整理整頓、清掃はもとより必要とする小物などが揃えられて、不必要なものは姿を消していく。

明美は大滝の許可や意見を求めることと、独断でやることを的確に判断しているようである。

いつの間にか小さなルールらしきものがつくられていく。何事も徹底しているようだ。なによりもスピーディなのが気持ちいい。

事務所のホームページのリニューアルと更新をいとも簡単にやってのけ、メールマガジンの配信も明美の提案で始まった。お蔭で大滝も情報の発信に拍車がかかった。

情報は発信するところへ集まるといわれているが、大滝の情報収集量は格段に増えてきた。大切なことは、情報の選択と活用の方法である。

明美はと言えば、さながら、時間と空間を優雅に泳ぎ回るアスリートの風情である。

明美と行動を共にするときは、心が弾むし、目的地へ行くのに迷わないから助かる。

方向音痴の大滝は、ときとして失態をやらかすのである。大滝の車にはナビゲーターが付いていない。勘を頼りに走ると必ずと言っていいほど遠回りしたり、迷ったりするのである。

訪問先で用事がすんで帰る時、玄関とは反対のトイレやキッチンの方へ歩き出して恥をかくことがよくある。

出張先のホテルからぶらりと出かけたある夜のことである。近くにおでん屋があったので、軽く酒を飲み、食事をした。帰り道の四つ角でどちらの方から来たのか忘れてしまったのである。大滝にはよくあることなのでさほどあわてなかった。それでも、なんとはなしに右の方向だと思った。そこで、いつもは思った方へ行って間違えることが多いので左へ曲ったのである。はたして20メートルほど歩くと、泊まっているホテルが見えてきたのである。大滝は方向音痴の克服法をひとつ開発したことになる。

そのとき以来大滝は、迷った時は自分でなんとなく考えている方の反対方向にいくことにした。70パーセントくらいの確率で当たるので、それなりの効果は発揮していることになる。

場所を正確に覚えることは、大切なことであるが、大滝にとっては目的を果たした後はどうでもいいことのようだ。だから、ショッピングセンターなどの広い駐車場で、自分の車のある場所を探すのにひと苦労するのは、いまだに変わらない。

大滝は思う。道を間違って時間の損をする。物をなくす。財布を抜き取られる。人の保証で損をする。人に頼りにされるほうでありながら、相も変わらず危なっかしい自分に違いはない。方向音痴ではあるが、せめてこれからは、人生の方向だけは間違えないように生きたい。

大滝は想像以上頼りになりそうな明美が、ナビゲーターの代わりをしてくれれば心強いのだが、などと虫の良いことを考えていた。


師走に入った日曜日、大滝は益子へ出かけた。明美との約束した彼女たちのグループ展を見るためである。

「社長、来て頂けたのですか、せっかくのお休みの日にありがとうございます」

明美は、よほどうれしかったと見え、居合わせた数人の仲間に、弾んだ声で大滝を紹介した。

 はしゃいでいる明美は可愛いく美しい。

老若男女10数人のグループだそうだが、優しくて、人なつっこい人ばかりのようである。その中で明美の笑い声がよく響いた。

大滝にとってビジネスの世界から遠ざかった時間と空間は新鮮でなつかしかった。

そして、明美の仲間を知り、作品を知ったことは、あらためて明美の人柄を身近に感じることができてうれしかった。


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