2,裏金
2、裏金
土地建物の取引の日は、猛暑がぶり返している。残暑というよりは炎暑といったほうがふさわしいようだ。
地球は壊れ始めたのかと思うほどである。
取引は東京の品川駅の港南口にある東都銀行品川支店で午後一時三十分に行われることになっていた。
大滝が銀行に着いた時には、仲介人の大木と買い主の野原大介らしき男が一足先に着いていた。
銀行の応接室で待っていた野原は日焼けして黒くなった腕に、金の腕時計と金のブレスレットをしていた。五十歳前後と思われる細身で、いかにも敏しょうそうな男であった。
大木の紹介を受け「野原です、よろしく」と言いながら差し出した縦書きの名刺には、氏名と住所と携帯電話だけが書かれてあった。肩書より中身で勝負と言いたげな名刺であった。住まいは、駅ひとつ先の大崎のマンションである。
「いま無職です。なにか、いい商売があったら教えてください」人なつこそうな笑顔で、社交辞令と思われるようなあいさつをする野原には明らかな余裕を感じさせるものがあった。
「大滝です。このたびはありがとうございます」
大滝の名刺を受取った野原は「大変なお仕事ですね」と言いながら大滝の名刺を眺めながら言った。名刺の肩書には大滝経営戦略研究所チーフコンサルタントと書かれてあった。子分なしの親分である。
「柄にもなくこんな仕事をやらせて頂いております。まだ駆け出しですがよろしくお願いいたします」
「大木さんからお聞きしております。ご苦労なさったそうですね。これからの、巻き返しを期待しております」
「ありがとうございます。地獄に仏といいますが、わたしはあなたと今日という日は生涯忘れないでしょう」大滝は、深々と頭を下げた。
「とんでもありません。私には私のもくろみがあってのことですから、感謝するのはこちらの方です」
間もなく応接室に担保権者の光陽銀行の田中次長が入ってきた。
仲介役の大木がかたどおりの重要事項説明書による不動産の説明と、契約書を読み上げる。
ついで二人とも署名捺印をすませる。形通りの名刺交換をしたとき以外は黙っていた東都銀行の担当者は書類に目をとおすでもなく「それでは社長」と言って銀行振り出しの額面一億三千五百万円の小切手を差し出して、応接室から出て行った。察するところ、この金は借り入れたものではなく野原の預金から振り替えられるのであろう。
この男いくらの金を持っているのであろうか。噂に聞いた裏金は首尾よく表に出せたのであろうか。大滝はいくぶん嫉妬の眼差しで野原を見つめた。
光陽銀行宇都宮支店の田中次長は、担保を解除するための銀行の委任状などと引き換えに渡された銀行振り出しの小切手をカバンにしまい込んでからいった。
「私はこれで失礼させて頂きます。ところで、大滝社長さんに私どもの星野から、できるだけ早くお越し頂きたいとの伝言です。よろしくお願いいたします」といい残してそそくさと消えた。
以前貸付担当課長であった星野政男は二年ほどほかの支店にいて、最近宇都宮支店長として戻ってきたのである
今は誰もいない事務所に一台残された電話の留守録を聞いて、星野から何度か電話があったことは知っていたが、大滝は無視していた。
大滝と野原と大木だけになった時、野原は脇に置いていたバックの中から古びた書類袋を出した。分厚い。まさか?大滝は動揺した。取引をすませた銀行の応接間で堂々と裏金を出すのではあるまいか?
書類袋から出されたものは、まぎれもなく百万円の札束十五であった。
「約束の金です。金額をあらためてください」
札束の帯封は数か所の銀行のものであった。
「間違いなく一千五百万円受け取りました。ありがとうございました」金額をあらためた大滝がいった。
野原は素早く一枚の書類を出した。大木を介して取り交わしてあった裏取引に関する二人の覚書である。遅れまいと大滝も同じものをバックから取り出す。
「では、書類を交換してお互いに破りましょう」野原は交換した覚書をいくつにもちぎった。大滝も野原の手つきをまねるようにちぎった。
野原のかすかなほほ笑みを見て大滝も声を立てずに笑った。
かくして、一千五百万円は無事に事大滝の手中に収まった。
大滝は野原と大木を品川駅まで送った。
「いつか、ゆっくり話をしたいですね」別れ際に野原が言った。
「はい、その節はよろしく」大滝は心から頭を下げたが、このときの二人の別れのあいさつは単なる外交辞令で終わらないことになるのである。
大滝は、その足で金のはいったカバンをしっかり手にしてやはり港南口にある東京四葉銀行品川インターシティ支店に飛び込んだ。幸い三時までには三十分ほど間があった。
近頃は頻発する振り込め詐欺事件のおかげで不便になったものである。ATMでは現金の送金が十万円、口座からの送金が50万円以下まできり送金できなくなったという。それ以上の金額は窓口から送金しなければならない。
大滝は窓口で三行の自分名義の銀行口座へ送金した。何年も使ってない口座でかつて店舗があった関係でつくった遠方のまちの銀行口座に分散して送金をすませた。宇都宮にはそれぞれの銀行の支店がありすべての口座のカードは持っている。
大滝にとってこれは危機管理のひとつである。いまの状況では忘れていた債権者や税務署などから差し押さえされないとも限らないので、宇都宮市にある金融機関は避けたのである。
債権者は債務者の住まいの近くの銀行を片っ端に口座と預金の有無を確認して差し押さえることがある。特に自動車税などの税金の未納金は早い。
大滝は最後に、よれよれになった息子たち清志と厚志の大学の学費の納付書を取り出して送金した。
二人の大学から大滝あてに学費未納による登校停止の通知書がきていた。前期の学費延納許可期日を過ぎているのである。
大学とはありがたいもので、決められたように夏期と冬期の休暇前にこの通知をよこす。つまり、今回は九月の登校日までに送金すれば支障をきたさないことになる。延滞金もかからない。大滝は資金繰りを考えて、いつも期限ぎりぎりになって納めることに決めていた。
彼らは奨学金とアルバイトでかろうじて生活はしているようだ。彼らにはすまないと思うが、いかんともし難い状況である。
幸いなことに息子たちは苦労している分、たくましく成長しているようだ。
二日後大滝は、光陽銀行宇都宮支店に向かっていた。
これから大滝が会おうとしているのは、自分に挫折感を与えた男、光陽銀行宇都宮支店長、当時の次長であった星野政男である。
大滝は敵にあうような心境である。
ことの始まりは森山商事が受け取っていた手形が不渡りになったときである。冷静に考えればそれまで森山商事は綱渡りの資金繰りをしていたのである。
森山商事の社長森山薫とは飲み友達で何かと行動を共にすることがあった。それが、あるとき少額の借入金の連帯保証をしたのがきっかけで、いつの間にかお互いに保証するまで密接な間柄になっていた。
その森山商事が不渡り手形を喰らって破綻したのである。連帯保証をしていたフロンティアも窮地に陥った。がんばればがんばるほど深みにはまっていく。半年が過ぎたころ、大滝はフロンティアを、任意整理という方法で廃業する結論を出した。
大滝に腹を決めさせたのが、メインバンクであった光陽銀行の星野の対応であった。
再建のための資金融資をめぐっての交渉は何度となく行われたが、不調に終わったのである。光陽銀行は、大滝から森山商事の保証債務を回収するやいなや、フロンティアの融資を事実上断ってきたのである。あえて事実上というのは、新たな担保の差し入れの要求を飲めれば融資をするといってきたからである。
しかし、大滝はその要求に応えられる状態ではなかった。
大滝は当時の貸付担当者であった次長の星野が、応接室に入ってくるなり見せた不吉なあの眼を忘れない。
そして言った言葉を・・・・。
星野は事務的にいった。「社長、申し訳ありませんが、今回の五千万円のご融資のお申し込みの件ですが、本部から連絡がありまして、新たな担保の提供を条件にご用立てさせて頂きたい、という結論になりました」
これは、事実上のゼロ回答である。大滝に無傷の物件があろうはずがないことは、星野が充分承知のはずである。
本部の連絡といっても真実はわからない。銀行の支店はお客に対して、悪い情報はすべて本店のせいにすることを大滝は知っているからだ。
「担保なんかあるわけないですよ。何とかならないのですか」結論を一カ月近くも延ばしてきたあげくのこの回答である。大滝は怒りを抑えながら言った。
「まあ、有力な保証人でもいらっしゃれば、本部とかけ合ってみますが」
「いまの私が他人様に保証を頼める訳がないでしょう。だいたい、いまどき連帯保証人になってくれるような人がいるわけありませんよ」大滝は星野を睨みながら言った。
「そうですか・・・」星野は、それでは仕方がありませんね。と言わんばかりに黙り込んだ。
大滝は我慢の緒が切れて一気にまくしたてた。
「だいたい森山商事の借金を私に払わせる時、あなたが、私になんと言ったか忘れたのですか。今後のフロンティアさんのためにも、ここは社長無理でもお金を工面してください。と言ったじゃないですか」
「・・・・・」
「だから私は、次の出店の準備金ばかりか、会社の運転資金まではたいて、おたくに返済したじゃないですか」
「・・・・・」
「黙っていないで何とか言えないのですか!」大滝の声が大きくなった。
それでは、言わせていただきます、とでもいうように星野は口を開いた。
「さきほど、社長は、森山商事の借金を私に払わせたと言いましたが、社長が森山商事さんの連帯保証人として印鑑を押された時点で、社長は私どもに対する保証債務が発生したのですよ」
「・・・・・・」今度は大滝が黙る番であった。
「つまり私どもにとっては、お二人にお金を貸したと同じことなのです。銀行はお客様の大切なお金をお預かりしているのです、そのお金を守るためには、法律に基づいて払えるところから回収させて頂くしかないのです」星野の大滝に対するこれまでの態度からは、明らかに豹変していた。
星野がたたみかけてきた。「それに、社長も出店を少し急がれ過ぎたのではありませんか。無理をされると、今度のように何かあったとき命取りになります。危機管理としても、常に資産と負債のバランスをとることが重要だと思いますよ」
若くして、支店次長に抜擢された星野の言葉がそらぞらしく響いた。
大滝は、いまさら大きなお世話だ、と言いかけたが黙って星野を睨んでいた。確かに一理あることも言われただけに、その分余計に怒りが込み上げてきた。
(たしかに自分の夢は、資金や、経営能力に比べて大き過ぎたのかも知れない。そのために、前傾姿勢で走り過ぎたきらいはある。しかし、森山の保証枠を増やす時、躊躇したオレに、形だけですから、と言ったのはお前だろう。もちろんその形が命取りになる場合もあることは分かっていたことだが・・・。
そして、出店しろとあちこちの物件を不動産屋のように持ち込んだのもお前だろう。出店したうちのいくつかは、光陽銀行の不良債権の処理に役だったはずではないか。
ついでに言えば保証人の債務は、不良債権になって初めて発生するのであって保証した瞬間に債務が発生したという言い方はないだろう)と言おうとしたが、大滝はその言葉を飲み込んでいた。
いまさら、何を言おうが、ムダだということは、わかり切っていた。すべては愚痴となって自分をみじめにするだけである。
形を変えた貸しはがしに対抗するすべはなかった。
大滝が会社の倒産を覚悟したのは、このときであった。
野心家であった大滝の夢は、音を立てて崩れ去ったのである。
忌まわしい過去を思い出しているうちに光陽銀行へ着いた。
光陽銀行宇都宮支店は栃木県庁から近い大通りに面している。
フロンティアの光陽銀行からの借入残高は一億八千五百万円残っていたから、昨日の一億三千五百万円の返済で五千万円になったはずである。大滝個人としての保証債務は、保証協会が代位弁済した一千万円を加えても六千万円ということになる。
「なんとかなる」大滝は自分にいった。
銀行に着くと、応接室に通された。星野がすぐ現れた。相変わらず、色白の無表情な顔である。
「ご栄転おめでとうございます」大滝は、義理とはいえ、心にもないことを言っている自分が腹立たしかった。
大滝は、かつて自分が倒産を覚悟したとき、口元を緩めて負け犬を見るような眼をしていた星野を思い出していた。
「ありがとうございます、どうぞおかけください。昨日はご入金ありがとうございました」つくり笑いをしながら星野が言う。たしか四十歳半ばを過ぎたばかりのはずであるが、一段と髪が薄くなったようだ。
「たびたび電話を頂いたようようですが・・・」
「社長お忙しいと思いますが、できるだけ連絡をして下さいよ・・・」
かつてのようなお客に対する話し方ではなかった。
連絡しないこと、会わないこと、払わないこと、約束しないことが、銀行に対する目下のオレの方針だ、と胸の中で反芻しながら大滝は星野の前に座った。
「どんな要件でしたか」星野の言葉を無視して、大滝が言う。
「たびたびお電話さし上げたのは、一つには今回の不動産の処分の進行状況を聞かせて頂きたかったこと、これは昨日で一件落着ということになりましたが、もう一つは残債の返済計画についてお話合いをさせ頂きたかったのです」
「それは、当分の間毎月一万円返済すると、担当の田中さんにお話ししてあります」
「社長、真面目に考えてくださいよ、昨日のご返済分を差し引いても、いま、元金だけでも五千万円残っているのですよ。それが、一万円ずつの返済では元金だけでも五千カ月、四百十六年年以上かかるのですよ」星野のセリフは大滝の、予想したとおりであった
「分かっています、そのくらいの計算は私にもできます。しかし、いまは、一万円が精いっぱいです。私は、できない約束はしないことにしたのです。そのかわり、約束は守ります。その前に今日現在の会社の残債と、私の保証債務を明らかにした書類を下さい」
「それは、間もなくさし上げます。話は変わりますが、いまどれくらいの収入があるのですか」
「決まった収入はありません」
「収入がなくてどう生活なさっているのですか」
「喰うものも喰わずになんとか生きています」
星野は、大滝の開き直った態度に戸惑いを見せながらも、なおも食い下がってくる。
「聞くところによると、塾の経営と経営コンサルタントをされているようですが、個人の確定申告書の控えはありませんか」
「ありますが、お見せできません」
いまさら借金する気はないし、また金を貸してくれるわけもない光陽銀行に決算書や確定申告書など提出しなければならない理由はない、と胸の中で言った。
会社の決算書や資金繰り表などは社長が提出を拒めば、どうしようもないことであり、個人の確定申告書も本人に提出の意思がなければ、いくら債権者でも強要できないはずである。
担保物件の処分は大滝の気分を楽にしていた。担保がある以上はいつ競売に出されるか分からない不安があったがもはやその心配がない。
もはや失うものはない。担保はすべて処分した。いまさら借入金返済の条件変更を頼みこむ状況でもない。ないものは払えない、ただそれだけである。
「それでは、せめてこれからの収入を得る計画を教えてください。そして、いつ頃から返済を増やせるのか、その予定をお聞かせください」と、星野も執拗である。
「それはわかりません。先ほども言いましたが、できない約束はしません。銀行さんもそうでしょう、お客にいろいろ約束をさせて、書類を書かせ印鑑を押させるが、銀行がお客に前もって、お金を貸す約束をしたという話を聞いたことがありません」大滝は一歩も引かなかった。
話は、平行線をたどった。
大滝は、頃合いをみて「今日はこれで帰らせて頂きます、これから、人と会う約束がありますので・・・、それに、私は留守にしがちなので用事がありましたら、自宅へ文書を送って下さい」と言いながら立ちあがった。
もう、ここに用事があるわけではない。大滝が、ここへ来た目的は、念のため残債を確認する書類を貰っておくことと、うるさい電話をストップさせることにあった。一つの節目におけるセレモニーともいえる。
星野は、残念というよりは悔しそうに座ったまま、考えを巡らしているようであったが、おもむろに立ち上がって言った。
「社長、またぜひお出かけください。それに、社長の携帯電話の番号を教えて頂けませんか?」
「いま、携帯は持っていません」大滝はにべもなく言った。先方の都合でちょくちょく電話されたのでは、うっとうしいだけである。真っ赤なウソをついて星野に背中を向けた。
これから先、金を持て余したときに初めて返済を増やせばいい。返せない場合は借金をあの世に持っていくだけだ、と胸の中でつぶやいた。
大滝は妻や息子たちに、もし自分が死んだときは三カ月以内に家庭裁判所に出向いて、相続放棄の手続きをするよういってある。
財産を相続する人間は、資産だけ相続するわけにはいかない、負債も相続しなければならないことはいうまでもない。もちろん、残されたものが借金だけであっても、そのままにしておくと、それを相続することになるのである。
ある日突然、遺族が債権者から死んだ人の借金や保証したお金を請求されて驚くのは世間にはよくある話である。
そしで、こうも付け加えてある「これは、あまり期待できない話だけれど、もしお父さんが死んだ時、お父さんの財産が借金より多くなっていた場合には、相続しなさい。ただし、不動産の場合は時価に換算しての話だし、いれておかなければならない。そして、財産といってもお金や貴金属、書画骨董の類は登記されているわけではないから財産とみないで、こっそり分ければよい」
大滝は、光陽銀行を出て、車を走らせながらすべての自分の店がなくなった当時を思い起こしていた。
覚悟はしていたものの、収入がなくなり、処分するものがなくなり、自分一人だけになることの頼りなさは想像を超えていた。
よく誰もいなくなった会社の社長室にいたはずだ。今となっては記憶が定かでないがあの頃の自分は抜け殻のようであった。茫然自失とはあのことであろう。
虚ろな心とは裏腹に何かをしなければならないことは、絶えず意識していたように思う。自分という存在と社会との緊張感との隔たりの中で、鉛のように重い頭を稼働させようと必死であった。
思えば森山商事の経営破たんの頃を境に、直前までは、銀行マン、食材業者、証券会社や不動産の営業マンなどが、大滝の出社や帰社を待っていたものだ。それがある時期から、ぴたりと誰もこなくなっていた。
会社のすべての動きが止まり、人が消え、音が消え、静まり返った。
憶えているのは債権者の多くが会えばもちろんのこと、電話や文書で攻め立てられたことである。用件は判で押したように返済の見通しはどうなっているか、時々は近況を知らせてくれないか、ということであった。債権者にしてみれば当たり前のことであるが、大滝にしてみれば、今日、明日どう暮らしをたてていくかが、先決問題であった。
中には月に一回くらいは顔を出してくれという債権者もあった。債権者は十数社あり、営業日を二十日とすれば毎日のように債権者を訪問しなければならない。それでは、破たんした企業のトップはたまったものではない。借金の返済どころか、生活費さえ稼げないことになる。