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債務奴隷解放宣言  作者: 大垣 壽雄
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17、居酒屋チェーン

17、居酒屋チェーン


セミナーの最中にスマホのバイブレーターがなった。大滝はセミナーで話をしているときは当然マナーモードに設定しており、休憩時間には着信履歴を見たり、録音メッセージを聞いたりして、できるだけ早めに対応するようにしている。

大滝がセミナーの休憩時間にスマホを覗くと「月刊フードサービス」の小山からの電話と、明美からのメールが入っていた。メールをすばやく読むと、セミナー終了しだい小山に電話を入れるようにというメッセージであった。着信時間を見ると小山の着信の数分後に明美からのメールである。

小山は、大滝のスマホに電話を入れたが留守電になっていたためメッセージも入れずに事務所に電話を入れている。どうやら急ぎの用件らしい。小山とは先月上京したとき麻布十番の焼肉屋で酒を飲みながら夕食をして以来である。大滝はセミナーが終わるとすぐ小山に電話を入れた。

「大滝です。先日はどうも・・・」

「お忙しいところすいません。至急相談したいことがあるのですが今夜空けられませんか」

「六時以降なら大丈夫です」

「よかった、突然で恐縮なのですが今夜“花車”の竹中社長に会って頂けませんか」

「花車、あの居酒屋チェーンの?」

「はい、細かいことは会ったときにお話しが出ると思いますが、いま“花車”がピンチなのです」

「わかりました、それでは乗る前に何時に乗るか電話を入れてください。着く時間に駅までお迎えにあがります」

「承知しました。私が御一緒できればいいのですが、所用で行けません。竹中社長は社長室長の橋田さんも連れて行くと思います。申し訳ありませんがよろしくお願いします」


小山がいった通り、橋田らしい男を伴った竹中社長が宇都宮駅に降りたのは、午後六時を回ったころである。業界誌に何度となく出た竹中の顔には大滝も見覚えがあった。

小山の話では、何年か前に70歳を過ぎたという竹中社長は見るからに人の良さそうな風貌であった。大滝は、今は亡き父を思い出した。父が死んだときと同じ年頃ではなかろうか。

車で迎えに出た大滝は、駅での立ち話をあいさつ程度ですませて、大滝経営戦略研究所に案内した。車中で竹中がポツリと言ったのは「若いということは何にも増して素晴らしいことですね」

「社長さんもまだまだお若いではありませんか」

「いやぁ、昔と比べてこのごろは何ごとにも気力がわかなくなりましてねぇ」

そのことばの響きには、長いこと経営者として戦ってきた者だけが知る、体力の衰えに対する無念さが滲んでいた。できることなら、いまは遠のいた若い力を呼び戻したいと考えているのであろうか。

竹中は事務所に着いてから、ひととおり“花車”の現状と問題点を説明した。大滝は、話の最中にときおり深いため息をつく竹中を見るにつけ、自分でできることなら力になりたいと思わないわけにはいかなかった。


竹中の説明を要約すると次の通りであった。

群雄割拠の居酒屋業界である。大手チェーンは陣取り合戦と顧客の目先を変えての別働隊を立ち上げ、さながら戦国時代の様相をていしている。

加えてエム・アンド・エーによる業界再編成の兆しも見え隠れしている。

居酒屋業界では老舗の花車は、株式の上場を勧められた時期もあったが上場すると、常に目先の利益を追求せざるを得ないという竹中の判断から資本を市場に求めず今日まで来ている。

このことが、大企業になる機会を逃したといえないことはないが、その代償として個性的なチェーンを築けたともいえる。

現在直営店が28店舗、フランチャイズの加盟店が130店で関東、中部、東北を主なエリアとしている。

最近の“花車”はデフレの波と不況のため、出店速度の鈍化と1店あたりの売上の低迷が加わり成長に陰りを見せている。売上の低迷が顕著なのは、北関東と東北の中小都市に多い。

そして、もっと深刻な問題は、このところの内部紛争である。社長の義弟である、専務の木下がことあるごとに竹中社長の方針に反対し、社内の統制が乱れているという。

木下専務は主にフランチャイズの店舗開発を担当している。

3年前の増資の際は積極的に出資を申し出て、竹中はそれを認めたがどうもそれ以来態度が大きくなったというのである。しかし、持ち株数は竹中の半分にも満たないし、竹中の持ち株構成比率は、60パーセントを超えている。

企業の社内紛争にはよくあることだが、最近は専務派と呼ばれるグループを形成し始めたという。個性の強い木下専務は、ある種のリーダーシップを持っているものの、ものごとを大所高所から考えたり長期的展望を持つことに欠けているというのだ。また、人事面で公平さを欠き、実力よりも自分におもねる人材を多く登用するために、一般社員のモチベーションは下がる一方だという。

そして、長く加盟店の募集業務に携わっていたこともあり、古参の加盟店には気心の知れたオーナーが多いこともあって近頃では、加盟店の中で株を持つ不満分子を取り込んで、社長交代の気運を高めるための工作をしているふしがあるという。

竹中社長が言うには、なによりも懸念すべきことは、竹中社長とのコミュニケーションを避けるようになったことである。こうなると、組織は機能不全に陥るのは当然の帰結である。

竹中は、一とおりの説明が終わるとほっとした様子でコーヒーを飲み込んだ。

「もとより私は、木下を後継者と考えていたからこそ専務にしたのです。歳のことを考えれば既に社長は交代していてもいいはずです。ただ、木下がもう少しバランスの取れた人間になるのを待っていたつもりでしたが、彼にはそれができなかった。私が最も嫌う傲慢さが見えてきたのです。こうなれば、話は別です。私には私の経営哲学があります。それを理解できる人間に会社を継がせたいと思うようになりました」

「お気持ちはよく理解できます。そういう人材がいるのですか」

「木下より増しな人間はおりますが、まだ納得できる人材はいません。この頃では、必ずしも社内にこだわらずに考えたいと思うようになりました」

「社長は理想像を追われ過ぎているのではありませんか。人間は与えられた立場が創るとも言います、社長の指導力が強いいまのうちに、社内から新社長をつくるのも一つの方法かと思います」

「そのことも考えています。それをも含めてもう少し頑張ってみたいと思います。ところで肝心の先生は、私に力を貸して頂けるのですか。先生のお人柄や実績は小山さんからよく聞かせてもらっています」

「はい、ぜひお手伝いさせてください。わたしが担当させていただきます」

「助かります。どうかよろしくお願いします」


チェーンストアの原点であるローカルチェーンのあり方も業種や業態によって変わりつつある。ローカルチェーンとは、店舗と店舗があたかも鎖で繋がれたように、商圏を隣り合わせて拡大し、食材等の供給、人材の交流や宣伝広告の効果、知名度などの相乗効果を生み出した状態をいい、その店舗が多数(団体によっては、11店舗以上と定義)形成されたチェーンとされている。しかも重要な条件として各店舗は標準化されていなければならない。ところが、居酒屋チェーンなどでは適正な立地は都市圏に限定されつつある。理由は飲酒運転の法的規制が厳しくなり、行政処分や罰則も強化され、民事上の責任や社会的責任も重くなるばかりである。

公共交通手段の限られている地方の飲食店は大きな打撃を受けて、じり貧状態になっているところが多い。もともと酒を飲むために車で出かけることは、矛盾をかかえている。初めのうちは運転代行車を利用して帰えるが、だんだん経済的負担や代行車がくるのを待つことが億劫になってくる。

都会のように交通網の整っている場所以外は著しく不利な立地であることは間違いない。

“花車チェーン”でも、ロードサイドや地方の郊外店の売り上げは減少の一途をたどっている。

チェーン本部としては、これらの立地条件による不振店は、業態転換や撤退、または移転などを進めない限り大きな改革はできない。

「この大事な時にお家騒動が起きたのは、すべて私の責任でございます。不振店対策と組織の健全化を成し遂げたうえで、私は引退したいと考えております」

竹中は、自らを鼓舞するように決意を語った。

「社長の目的が達成できたときが、多くの加盟店やそこで働く人たちの未来が見えるときでもあります。およばずながら私も、お力添えができるよう頑張ります」

「ありがとうございます」

竹中は、強く大滝の手を握りしめた。

「何か必要な資料がございましたら、直接橋田君に申し付けください」

「わかりました、橋田さんよろしくお願いします」

「かしこまりました。早速ですがここに私どもの会社案内と直営とFC別の店舗の分布図など最小限の資料を用意してまいりました。これからよろしくご指導のほどお願いいたします」

これまで、竹中と大滝の会話をひたすら聞いているだけであった橋田社長室長が、初めて言葉を発した。声は澄んでいるし歯切れもいい。


花車の社内は大きく揺れた。大滝の名前があがるとどこから聞いたのか、やれ自分の会社をつぶした人間だとか、田舎のコンサルタントに何ができるとか、そんなうわさでもちきりであった。これらの話をする者は木下専務派であることはいうまでもない。

橋田が武者震いをしていたのは、大滝と別れたつぎの日の朝には、すでにメールにより、結構な量の宿題を与えられたからである。

なるほど、ありきたりの資料だけではなかった。

特に興味を引いたのは、立地条件をパターン化して、その分類ごとの売り上げ成長性や客数と客単価の推移と時間帯別売上高の比較などであった。また、橋田が調査したことのない各店舗の地域でとれる、青果、鮮魚、精肉の生鮮三品とそれをどのようなメニューに商品化しているかという調査の依頼である。地産地消の観点から、戦略を考えるのであろうか。

“花車チェーン”では、本部の稟議がとおれば、すべての食材を本部から調達しなくともよいし、本部指定の仕入れ先から買わなくともよいことになっている。そして、店舗独自のメニュー開発を許しているが、積極的な店と消極的な店によってばらつきがでてしまうのが課題であった。

大滝から要求された資料はできたものから順次メールで送るが、大滝からの要求はつぎつぎにくる。

そして、橋田が首をひねった課題は、直近五年間に出店した店舗を拾い出して出店年度ごとに、投資効率を調べろというのである。

「大滝先生はやる気だなぁ、今夜も残業だぞ」

独り言を言いながら橋田は、久しぶりに燃えている自分に気がついた。


“花車“の本社会議室である。

大滝は、初めて幹部たち全員と顔を合わせた。コの字型に並べられたテーブルの中央に掛けさせられ、隣には竹中社長が掛けた。右手の列の端に木下専務が掛け、総務、経理、商品開発の各部長と左手側に宣伝広告・販売促進、店舗開発の2人の部長に、セントラルキッチンの調理長、橋田社長室長の総勢9名の会議となった。

竹中社長が開会のあいさつをした。

「これから、経営会議を開きますが、その前にこのたびコンサルティングをお願いしました、大滝竜二先生を紹介します。

“月刊フードサービス”の小山編集長から紹介されて先生を知ったのですが、先生は自ら外食産業を経験された方で私は先生のお話を聞いて、なぜか、闘志がよみがえってきたのです。私は数多くのコンサルタントの先生を知っていますが、会っただけで自分が燃えるものを感じたのは初めてです。

話の内容も観念的ではなく実践的で分かりやすいものでした。必ずや危機に瀕しているわが社の力になって頂けると思います。それでは先生、一言お願いいたします」

促されて大滝が立った。

「ご紹介を頂きました大滝でございます。ご縁をいただきましてこのほど御社のお手伝いをさせて頂くことになりました。何卒よろしくお願いいたします。私は、改善・改革は現状を否定することから始まると考えております。創造的破壊を恐れて改革はできません。もちろんすべてを否定するものではありません。

多くの場合否定されたことを自己の否定、場合によっては人格を否定されたと思い感情的になりやすいものです。私もその1人ではありますが、務めて冷静かつ客観的に判断したいと思います。したがいまして、反論されるのは大歓迎で、反論があってこそよりよい道が発見できると思います。

これから先、皆さんにとって耳触りの悪いことをお話することも多々あるとは思いますが、会社を強くするための問題提起やご提案であり、コンサルタントという立場からでもございますので、お許しいただきたくあらかじめお願いいたします。以上です」

「ありがとうございました。つぎに、それぞれの自己紹介をお願いします。こちらの木下専務からどうぞ」

 肩どおりの自己紹介が終わった。

「それでは、これより経営会議をはじめます。本日出席の皆さんには前回の経営会議において申し上げましたが、大滝先生にはわが社のデータをお見せいたしました。あれから、まだ半月、非常に短い時間ですが現段階における、先生のわが社に対するご意見、ご感想を一言お願いできればありがたいのですが」

竹中は最初から大滝に振ってきた。

「確かにある程度のデータは頂戴いたしましたが、分析はまだ中途半端です。しかし、折角のお申し付けですので申し上げます。

売れない店は活気がなくなり、モチベーションが下がります。客数が少ないからメニューの数があるだけに材料の鮮度が落ちます。当然ロスが増え粗利も下がります。欠品も増えるでしょう。そうすると店舗段階では、採算を合わせるために人を減らしたり、安い時給で使える人間を使ったりします。その結果オペレーションも接客サービスも落ちます。つまり、売れない店や儲からない店が増えます。そうするとチェーン全体のブランド力が低下して、ますます売れない店が増えるという悪循環に陥るのではないでしょうか。チェーンに加盟を希望する人も、志の高い人は敬遠します。こうして、多くの王国は衰退していくことになるのだと思います」

「どうすればよいと思います」

竹中が質問した。

「まず、店舗を増やすことばかり考えずに、もっと加盟店希望者の人物や資金力、そして立地調査を厳密にやるべきだと思います」

「それはわかりますが、出店速度が落ちると資金繰りに影響します。会社がつぶれたら元も子もありませんよ」

木下が店舗開発担当重役だけあって、強い口調で言った。

「FCの出店に頼る資金繰りは、自転車操業です。速度が落ちたとき会社は倒れます。確かに加盟店が増えて資金調達ができることはいいことです。しかし、店数を増やす本来の目的はスケールメリットによる、果実を得ることです。資金繰りだけを考えた出店計画をするのは本末転倒で危険です。資金繰りの方法は別の考察が必要です。いまは出店以外の資金調達を考えるべきだと思います」

「あなたは、新規出店がどれだけわが社に貢献しているかご存知ないから軽々しくいいますが、もっと現実を知ってほしいと思います」

「お言葉ですが、資料によると過去の数値と比較して最近の新店舗のオープン景気は2カ月も続かないのはどうしてだと思いますか。開店のキャンペーンが終わると同時に組数も客数も激減しています。私は明らかに店の質が落ちているのだと思いま。店は、オープン景気が終わってからが本番であるはずが、本部はもうつぎの新店舗の方を向いていると思われます。新規加盟店のアンケートを見れば明白です。開店にはこぎつけてもまだ素人です。1店1店局地戦に強い店をつくり続けることが、開発担当者の役割であり、本部の責任なのではないでしょうか。」

「酒を売る居酒屋は特殊です。ファミリーレストランのように簡単にはいかないのです」

木下は、最後はふてくされて、わけのわからないことを口走っていた

「どのような、業種業態の方も皆さんおっしゃられます。ご自分の仕事だけが特殊だと思っているようですが、みな特殊といえば特殊なのです。特殊事情を目標達成の阻害要因としてあげていたらいかなる業種業態も体質改善はできません。特殊だから、仕事が面白いのです。それを知った上で特殊事情を乗り越え、むしろそれを活かすのが仕事だと思うのです」

大滝は、手をゆるめなかった。

「それに、開店時の売り上げは決して悪くはないにもかかわらず、最近の出店後1カ月の時点の財務内容を見ますと投下資本の回転率が悪いことが気になります。この数値は投資額の12分の1で開店の月の売上高を割った数字を見るのですが、1にも満たないのです。これは売上高が低いのではなく、店舗のイニシャルコストが高すぎるからです。いま、建築コストは上がるどころか下がっているはずです。内装工事や設備、備品店舗の大きさどれをとっても変わってないように見えるのです。開発の方々はもっとシビアになってイニシャルコストを下げる工夫をして差し上げないと加盟店のオーナーがかわいそうです。これでは、開店した時にはもう勝負が決まってしまいます」

これには、うつむいて聞いていた木下も、最後の一言にはキレたようだ。

「ちょっと待ってください。開店時に勝負が決まっているとはどういうことですか、さっき、オープン景気の後からが本番と言ったのは誰ですか。開店後の血の出るような努力を重ねていい店をつくろうとしているのに失礼ではないですか」

「イニシャルコストをかけすぎると、あなたがおっしゃる血の出るような努力もムダな努力に終わるのです。私は、売上を上げるための努力もイニシャルコストを下げるための努力も両方必要だと言っているのです。発注の仕方は随意ですか、見積もり合わせをしているのですか、それとも入札制度でもあるのですか」

「長い間の取引先が何件かあり、信頼関係で結ばれていると思いますが・・・」

これまで黙って聞いていた竹中が話を引き取った。

「長い取引関係はよい面もありますが、悪い面もあります。甘くなるし不正も発生しやすくなるのです」

なぜか、木下は一言もなくうつむいていた。

「わかりました、今後店舗の投資額の妥当性を重点課題としましょう。それでは、本日予定されていた課題に入りましょう」

竹中の一言で会議のテーマは商品開発と販売促進策へと移った。

その日の会議は3時間におよび終了した。

その後、大滝は花車本部への出張が増えた、ときには財務コンサルタントの山形を、時にはマーケティングコンサルタントの風間を伴い事務所をあげて花車の再生に取り組んだ。

木下専務とは、何度となく打ち合わせや意見交換をする機会があったが、相変わらず話は噛み合わなかった。

大滝は、木下が自分に敵意さえ持っているように感じるのであった。

3か月目に入った時であった。突然大滝のもとへ木下が辞表を提出したという情報が入った。理由は一部の建築業者、内装工事業者、設備工事業者からリベートを貰っていたことが発覚したことが原因だという。

後日竹中は、木下専務の辞任から退職に至ったいきさつを話した。その話によると辞表は書いたのではなく書かされたことになる。これは、竹中の親心で解雇では退職金は出せないので、本人が辞表を提出したということにしたのである。

「先生が初めて出られた経営会議の時、鈍い私もさすがに遅まきながら察したのです。役員賞与も出せない状態にもかかわらず、会社の増資に応じたことやこのところ、金の使い方が荒いという噂が流れていたのを思い出しましてね」

「それで?」

「調査させてみたのですが、簡単に尻尾をつかみました。業者に探りを入れさせるや否や、専務に対する苦情が出たそうです。リベートの要求ばかりか飲み屋の請求書まで回されていたとか、これでは業者も工事費を水増ししたいのは当たり前です。なれあいは部下にも及び始めたところでした。それもこれも、すべては私の責任です」

「問題はこれからですね、一時的にせよ出店が止まれば資金の流れが悪くなりますから、至急対策を講じる必要がありますね」

「だからというわけではないのですが、銀行に新たな借り入れを申し込んでおいたのですが、減額されました。資金が足らなくなるのは目に見えております。そうかと言って、銀行の返済の条件変更はしたくないし、仕入れ先の支払いサイトも延ばしたくはないのです」

「つかぬことを伺いますが、料亭“御所車”はこれから先も経営するつもりですか」

「と申しますと・・・」

「独立採算では赤字のようですね」

「文字どおり“花車チェーン”の、シンボル的存在である“御所車”は続けるつもりです」

「お気持ちは分かりますが、冷めた目で見るとこだわるのは、あまり意味がないように思います」

「“御所車”は花車の象徴です、そして社員の誇りでもあるのです」

「お客さんにとつてはあまり関係ないのではないでしょうか」

「そう言われますが、客ダネのよい常連さんが付いていて、初めてご来店されたお客様は必ずまた来て頂けます、マスコミにもよく取り上げられます」

「それでも赤字なのでしょう」

「私は、“御所車”には目には見えない利益があると思っています」

「それはあるでしょう、ただ、“花車”のお客と比べてみて来店動機が全く違いますし、客層も違います、そして、社長や社員が思っているほど“御所車”が“花車チェーン”であることを知っている人はいないのではないでしょうか。つまり、相乗効果を発揮していないと思います」

「・・・・・」

「私を無粋な奴、ロマンのない奴とお思いになるかも知れませんが、いま“花車”は緊急事態です。私なら迷うことなく“御所車”はお金に変えます。こんないい方をするとお叱りを受けるかも知れませんが、ご自分で満足する店は目的を達成してから採算を度外視していくらでもつくれます。いや、ぜひそうしてほしいと思います。

それに、私が赤字と言いましたのは、単に損益計算書からだけではないのです。貸借対照表から見ると気が遠くなるような赤字です。最近10年間に黒字の時が3期ありましたが、黒字決算のときの平均総資本純利益率が1%に満たないのです。すなわち、よいときでも投下資本の回収に100年以上かかる商売をやっているのです。これは、趣味の世界の話です」

しばらく、沈黙が流れた。竹中は腕を組んで目をつぶっている。

言うだけのことは言った、後は竹中の意思決定に任せるだけである。

「考えさせて下さい」

ポツリと竹中がつぶやいた。

「大変失礼なことを言いました。お許しください」

「いいえ、ありがとう」

竹中の顔はいつもの笑顔に変わっていた。


“花車チェーン”は雰囲気が変わった。竹中が陣頭指揮をするさまは、かつて急成長した時の“花車”であった。そして、竹中の英断により“御所車”を手放したことは社員を奮い立たせた。

土地神話が消えて久しいが、赤坂の一等地にしては今昔の感があった。帳簿価格より、かなり安かったがこれもサンクコスト(埋没コスト)である。

イニシャルコストやランニングコストと違ってサンクコストこそ経営者の決断一つできまる。かけてしまったコストは元へ戻せない。肝心なのは、損を出し続けないことである。それは、失敗を認めるという苦しい決断を必要とする。

これだけ投資しているのだからやめるわけにはいかないといって、赤字を垂れ流す事業は国家や自治体でも取りざたされているが、悠長な時間を持てない民間の会社は、即座に根を断たなければならない。

相場の世界に“見切り千両”や“損切り万両”という言葉があるが、損を覚悟で決めたことが、後々起死回生となることは多いのである。

一口にスクラップ・アンド・ビルドというが苦労は多い。もちろんビルドよりスクラップは大変である。特に加盟店のスクラップが大変である。成功を夢見て、財産をかけて出店した店をたたむのだから、精神的にも経済的にもダメージは大きい。大滝は、加盟店との契約によれば加盟店の都合で廃業するのであるから本部が法的な責任を問われることはないが、道義的責任を感じて奔走する竹中に共鳴している。

竹中は業態転換、店舗の売却、テナントの場合の居抜きの譲渡などケースによって使い分けて支援する体制づくりに腐心していた。社員の努力と誠意が実りスクラップ・アンド・ビルドは着々と進んだ。

新規出店もぼつぼつ増えてきた。1店1店の収益構造をしっかりした店づくりをすべく、ていねいに局地戦に強い店が出現してきた。

しかし、資金繰りはまだまだ厳しかった。資金繰りがひっ迫した理由は、出店を止めたことが直接の原因であることは分かっている。だからと言ってこれまでのような安易な出店を続ければ、“花車チェーン”は崩壊するであろう。


金曜日の午後竹中から電話が入った。

「先生、突然恐縮ですが、今夜時間をとれませんか」

「なんとかしますが、急にどうされました」

「資金繰りのことでお知恵を拝借したいのですが、これから、先生の事務所へお伺いさせて頂きます」

「そうして頂くと助かります。お気をつけていらっしゃってください」

竹中は事務所に着くなりいった。

「花の金曜日の夜にすいません。先生、いよいよ正念場です」

「五菱銀行は、書き替えに応じてくれましたか」

「それがダメでした」

“花車”は、五菱銀行からの借り入れの中の通称「単名」と言われる七千万円の借入金があった。単名とは、単名手形の略で、銀行や貸金業者から貸し付けを受ける際に、借用証書の代わりに発行する。手形債務者として、署名した人が二人以上いる場合は、複名手形という。

単名手形の貸し付けは、ふつう一年未満の短期の貸付の場合が多い。

これに対し長期の貸付金の場合は、証書借り入れといって、借入額、返済条件、利率などを借り手側が条件を記載した借用証書を発行させられて、借入を行う方法である。この場合期間は五年以上が多い。

証書借り入れの場合は、一回分の返済額は少ないから楽なようであるが、返済の回数を重ねるにごとに企業の体力は消耗していく。       自己資本比率の少ない中小零細企業は、事実上銀行の資金で事業を行っているのだから、借入の返済が進むと再び借入しないと運転資金が欠乏して経営ができなくなる。そこで、銀行へ頼みこむたびに担保の提供、保証人を増やすこと、金利を上げることなどの無理を聞かなければならなくなるのである。

短期借入の場合、期日に利息だけを入れて手形の期日を書き換えてすむ場合もあるが、銀行は一時的にせよ返済させるという試練を与える。金がある時ならよいが、ない時に返済を迫れてもない袖は振れないということになる。

マチ金などの場合と違い銀行の場合は、手形交換所に回して不渡り手形を出させるようなことはないが、その後の面倒を見てもらえないということになりかねない。

また貸すからいったん返してくれといって返済させておいて、後は貸せませんというような貸しはがしによって手形が落とせず倒産する中小零細企業もある。手形の書き換えですむか、いったん返済しなければならないか、返済した後確実に借りられるかどうかは銀行との力関係によって決まる。

「自力で、なんとか2,000万円は工面できたのですが、後の5,000万円が難しくて頭を痛めております」

大滝は数年前の“花車”であれば、なんでもない金額であったろうにと思う。

「上場しないとなると、自己資本を増やさないことには、当分資金繰りの課題は続きますね」

業績は持ち直してきたが、財務内容には定評のあったかつての“花車”への復活はいまだ道半ばである。

「そうです。抜本的な資金調達の方法は、増資を考えなければならないと思います。しかし、増資するにはそれ相当な時間を要します。新たな株主を探すのも大変です」

竹中は沈痛な顔でいった。

「いまどき、寝ている金を持っている人はそうはいませんからねぇ」

言いながら、大滝は野原大介の浅黒い顔を思い浮かべていた。

「しかも、辞めさせた専務が株を買い取ってくれと、妹をとおして催促してきて困っています」

竹中は本来なら背任行為で辞めさせた木下に対し、退職金を払ったのは義弟ということもあるが、竹中の優しさであろう。しかし、公私混同でもあり、甘さでもある。これは、未だ同族会社の範疇から脱け出ることのできない“花車”だからこそ起こることである。

「木下さんは、いま何をされているのですか」

「妹がいうことには、兄貴とは違うタイプの居酒屋をやると意気込んでいるそうです」

「そうですか、どんな居酒屋を考えているのでしょうね」

「どうせ、たいしたことはできないでしょう」

「いやいや、あの出店に対するどん欲さと、バイタリティは相当なものです、そして、スカウトの腕もなかなかのものだったと聞いています」

「後で問題が起きなければ、いいのですがね」

「と言いますと?」

「できない約束を平気ですることが多いので、困ったものです」

「そうでしたか」

竹中としては珍しく、具体的な案や打ち合わせのテーマもなく大滝を訪ねたようである。よほど困っているのであろう。大滝は自分の過去と重ね合わせて資金繰りのつらさを思い起こしていた。

「社長、ちょっとお待ちいただけますか、私電話で打診してみたい人を思い出しました」

「どうぞ、よろしくお願いいたします」

別室に移った大滝は、野原に電話を入れた。野原は大滝の電話を待っていたかのように「何か儲け話でもありましたか」と聞いてきた。

「単刀直入に言います」

「はい!」

「私の顧問先なのですが、“花車”という居酒屋チェーンがあるのですがご存知ですか」

「はい、知っています」

「そこの、株主になって頂けませんか」

「ほう、上場でもする気ですか」

「いいえ、しません。いまは苦戦していますが、必ず良くなる会社です」

「いくらくらい?」

「できれば五千万円、いかがです?」

「大滝さんがお勧めであれば、考えなければなりませんが、裏金を表通りに引っ張り出せますか。それができればこちらからお願いしたいところです」

「表通り・・・・・」

マネーロンダリング、つまり資金洗浄のことだ。

「お金は、さびしがり屋なのです。そろそろ陽のさす表通りに出してあげないとかわいそうなのです」

さびしがり屋か、どこかで聞いた話だ。大滝はもっともな話だと思い苦笑した。

しかし、さすがの大滝も考え込んだ。野原から裏金でもらった土地代金はたしかに役に立った。明日の行方が見えてこないあのころは、倫理観を持つほどの余裕はなかった。あれから五年以上の歳月が流れ、事情は変わっている。いまは曲がりなりにも経営コンサルタントとして多少は知名度も上がってきた。借金も大分減ってきて待望の無借金状態も目の前である。

いまさら、火中の栗を拾うような真似はするべきではないことは分かっている。

しかし“花車”は、大滝の顧問先で最初の知名度の高い企業である。なによりも竹中社長が好きである。その社長がいま塗炭の苦しみにあえいでいる、なんとか力になりたい。そして、恩人である野原の期待にも応えたい。

でも、仮に自分の中で割り切れたとしても、なにかよい方法が見つかるのであろうか。

大滝は、結論の出ないまま竹中の待つ応接室へ戻った。

竹中は腕を組んでソファに頭を預けて寝ているようである。竹中の顔には長いこと戦い抜いてきた武将の風格があった。戦いの最中のつかの間の休息を邪魔しないようにしよう。

寝顔を見ながら大滝は、この問題は自分の手で必ず何とかしようと心に決めた。

「あっ、寝てしまったか」

竹中が起き上がった。

「社長、結論は出ませんでしたが、話の流れはよい方向へ向かっています」

「急な話です。そう簡単にはいきますまい。それにしても、先生にまでご迷惑をおかけして申し訳ございません」

「いいえ、それより社長もお疲れでしょう、今夜は宇都宮にお泊りになったらいかがですか」

「うん、そうしようか。酒でも飲みましょうか」

「そうしましょう、いまホテルの予約をさせますから」

その夜の大滝は、竹中の笑顔で酔うことができた。

竹中にとっても、大滝のところは心の休まる場所になっていたようだ。

大滝にとっては、いつの間にか竹中が、オヤジと呼びたい人になっていたのである。竹中はある面では父の正反対である。しかし、真面目で自分に厳しく、一本気で、お人好しなところは、そっくりであった

大滝の父は三年前の夏の暑い日にこの世を去った。その翌年に後を追うように母が逝った。

大滝の父は男4人の子供を育てるために、ひたすら小さな木工所の経営に励む厳格な父であった。大滝は2番目の自分には特にきつい親であると思って育った。ある意味で父を憎んでいた。

父は頑固で融通がきかなくて、ジョークの一つも言えない男である。貧しく育って学歴がなくて不利な人生を歩んだと信じているふしがあった。そのせいか、苦しいなか子供全員に大学を卒業させた。

経営者というより職人であった父は、来る日も来る日も建具をつくっていた。材木屋から小割り材を仕入れて障子、吾妻障子、ガラス戸などを組み立てるまでの一貫作業を一人で行っていた。

大滝が、多くの職人が無口な人間が多いことに気がついたには、フロンティアの経営でコックを使ってからである。すべてのコックや、板前がそうとは言えないが、なぜか、大滝の知る職人はコミュニケーションが苦手な人が多かった。言葉や数字で教えられるより、身体で覚えてきたからであろうか、知識や技術の再現性に欠けている。つまり、教育力がないということは否めない。

いきおい頼りにするのは勘と経験である。

職人気質の良い面と悪い面が混在している調理部の社員を見るにつけ、大滝は父と重ね合わせて父を思い出したものである。

頑固で無口で、短気な父。それを支えた母もえらかった。愚痴一つ言わず父をたて、子供たちを大きな愛情で育てた。口癖は「いまにいいことがあるから」であった。

賢物の父にとって、楽天的で柔軟性のある母はどんなにか頼りになったことであろう。

大滝は、いくらかでも家計を助けようと考えて、中学、高校と新聞配達をやりぬいた。

中二のときの真冬の寒い朝であった。いつものように午前4時30分に目覚まし時計が鳴った。ふつうなら、がばっと跳ね起きる大滝は腹のあたりを押さえてうなった。腹痛である。たまにはこんなこともある、と思いじっと腹を温めて待ったがいっこうに直る様子が無い。

「母さんお腹が痛いので、今日は新聞配達ができそうもない。だから、タバコ屋さんの前の公衆電話から新聞屋さんへ電話してきてくれない?」

大滝は隣の部屋のふすまをそっと開けて、母の枕元で小さく囁いた。

母が起きる前に寝ているとばかり思っていた父が、起き上がって言った。

「お前が新聞配達を休むと、どれだけの人が迷惑するのかを考えたうえで休むなら、それでいい。俺はお前の腹の痛みは分からない。お前の責任と腹の痛みをはかりにかけられるのは、おまえだけだ。代わりに配達する人、新聞がいつもより遅れて読まずに会社へ行く人、お客さんからの新聞が遅いというクレームの対応をする人もいるだろう。株の動きを読まずに会社に行ったために損をする人が出ないとも限らない。それらをよぉく考えて休むなら休みなさい」

(また説教か、俺だって好きで新聞配達をしているわけじゃないのに)

兄弟たちは、枕を並べて寝息をたてている。

「行けばいいんでしょ、行きますよ」

思わず口走ったことをいまでも覚えている。

「大丈夫なの」

母が心配そうに声をかける。

「ああ、大丈夫」

大滝は意地でも配達してくると心に決めて家を飛び出した。

いまでは兄弟たちはみんな成人して独立して家庭をもっている。

角の取れた父は、年に2度ほど孫を連れて遊びに来る息子たち家族を心待ちにしていたようだ。

そんな父が病に倒れたとき、看病できる境遇にあったのは大滝だけであった。

長男の公一は外務官僚になり、海外勤務が多く弟たち二人もそれぞれ商社や、金融マンになって海外勤務や転勤が多くいつも、両親の近くで生活するのは大滝であった。

父も若いうちは、安定した生活を送る大滝の兄弟たちを自慢の種にしていたが、遠く離れて暮らす息子たちに、何とも言えないもどかしさを感じ始めたようである。

父は末期のがんであったが、死ぬ1週間ほど前にやっと聞き取れる声で「世話になったな、もう充分だよ、すまなかった」と言った。

「なにを言っているの、まだまだこれからじゃないか」

「ありがとう、お前には面倒かけたな」と言いながら父は、目を見開き大滝の顔をいとおしむように、なぜ回した。

「そんなこと言わずにがんばれよ」言いながら、大滝はこの時初めて父と和解したような気がした。そして、父の瞼の濡れているのをみて、自分も涙した。

なぜ、竹中を見ていると父を思い出したのか分からない。

風貌も生い立ちも違う2人の共通点は、ただひたすら家族を、そして周囲の人たちの幸せを願って仕事に励む姿である。報われるか、報われないかにかかわらず、ひたすら今日やるべきことをやりぬく、そして明日を信じて眠る。そんな日々を繰り返すなかで、人生の喜びを探し当てているのであろう。

大滝はホテルで竹中が眠っている頃、マネーロンダリングのできる人の条件を書いたメモをじっと見ていた。そこには、箇条書きでつぎのように書かれてあった。


1.高収入で、過去に税金をたくさん払ってきた人

2.現在は預金を持っていて払い戻した金を形だけ貸したことにして、金はどこかへ隠せる人

3.一またはニに合致する人で、口が堅く野原と大滝が信頼できる人

この条件に合致する人間がそういるとは思えないし、いたとしても簡単に見つかるはずがない。でも、どこかにいるはずだ。大滝はいつまでも、何時までもメモを見つめていた。

「いる!」飲み始めたコーヒーをこぼすところであった。その人間は身近なところにいるではないか。いままで、気がつかなかったことが、おかしくなった。

その人間こそ大滝竜二自身である。

大滝はこの五年間、無我夢中で働いてきた。その金のすべては役員報酬として明らかであり源泉税という形で税金も払ってきた。そしてその金の大部分は借金の返済に消えて行った。つまり、過去の事業の借金、正確には自分の会社や他人の会社の保証債務の弁済にあてたのである。

いくら税務署でも、税金を納めた残りの金まで使い道を詮索することはないはずである。

大滝は、時間をも忘れて野原に電話を入れた。

「野原さん!条件に合う人が見つかりました」

「ほう、誰です?」

「わたしです」大滝は一部始終を説明した。


大滝のもとへ野原自ら車を運転して、5,000万円を届けに来た翌々日のことである。

「わざわざ恐れ入ります」

「いいえ、お金は世の中のためになることを望んでいます。さぞかし、旅立ちを喜んでいるでしょう。この金には言い聞かせておきました。“旅に出すからお友だちをたくさん連れて戻っておいで”とね・・・」

笑いながら野原がいった。

「とりあえず私の名前で預り書または借用書を切りましょうか」

「大げさなものは要りません。わたしと大滝さんが忘れないためにメモ用紙に金額と日付とサインがあれば結構です」

「承知しました」

相変わらず、すべてにシンプルな野原大介であった。

「そろそろお昼です。お食事でもいかがですか」

「そうですね」

「どんなものがよろしいですか」

「わがままいってもいいですか」

「どうぞ」

「この近くで看板を見たのですが、牛丼でも頂きましょう」

「牛丼?」

「はい、むしょうに牛丼が食べたいのです」

2人は、牛丼を食べるというよりかっ込んだ。牛丼屋で食事をしている2人の男を見て、いま、5千万円を渡した男とそれを受け取った男たちと誰が思うであろうか。

一万円札一枚が約一グラムというから、野原から預かった5千万円は約5キロということになる。しかし、大滝には別な重さを感じないわけにはいかなかった。この重さを背徳的な重さとでもいうのであろうか。


火の車であった“花車”は、順調に走り出した。

1店舗、1店舗が競争に強くなった。局地戦に強い店が増えて初めてチェーン全体が強くなる。

会社全体に活気が出てくると、悪循環ならぬ善循環が起こるものである。

エネルギーが守りから攻める方へシフトする。言い換えれば、自然に「節約」から「稼ぐ」ことへテーマが変わってくるものである。具体的には労働分配率ばかり気にしていた幹部たちは労働生産性を重要視するようになるのである。言葉を換えれば節約より稼ぐことに目が向き始めるのである。

情報の収集も積極的なものが多くなってくる。つぎつぎに新たな試みが行われ、それがマスコミに流れる。そのことによって、新たな商談が舞い込み、選択肢が増え、有能な人材も寄ってくる。

“花車”における、大滝の説得力は、復活への道を開いたプロフェッショナルとしての評価もさることながら、5千万円の株主でありながら謙虚さを失わないところにも原因があった。

竹中を除いて、大滝の株が名義株であることを知る人間はいない。

出店に拍車がかかってきた。以前のように資金集めのための加盟店募集ではないから、加盟希望者を吟味し、オープン前の研修の水準を上げて計数管理と、オペレーションの実習も増やした。

当然のことであるが、開店後に本部のスタッフが引き揚げてもオペレーションやサービスの品質が落ちるようなことはなくなった。

そして、このところ竹中は、大滝と相談して、顧客満足度を高めるための手を矢継ぎ早に打っている。

まず、メニューの食材の産地や生産者や採取者などの情報、有機栽培の情報などを分かりやすく表示した。これは、安心、安全による信頼感を得る必要性を感じていたからである。

つぎに、接客のレベルアップのために本部の接客指導陣を充実させ、直営、FCにかかわらず臨店指導を徹底した。特にマニュアルは最低限守るべきことであって、正社員、準社員にかかわらず、店で働く人のすべてが、マニュアルを越えるサービスの提供をするにはどうしたらよいのか、というテーマと取り組む議論を起こした。

合いことばは「もてなしの心を徹底する!」である。

効果的であったのは、臨機応変のサービスを実施するためのアンケート調査にもとづく課題の設定と、課題についての職場会議の実施、店ごとの提案制度と表彰制度の実施であった。これまで、各店の売上高競争はあったが、サービスの品質の競争が起きたのは初めてである。売上高の競争は上位になれば気分はいいが、下位になれば、立地条件や規模の大小のせいなどにして、上位の店をひがむのが関の山であった。しかし、判定はお客さんのアンケートによることと、外部スタッフの隠密行動による調査票が判定する仕組みを採用したのである。

この競争の結果、顧客満足度の高さと、売り上げの伸び率の高さとが比例することを、全社的に知るところとなったのである。

「これは、私が言っているのではない、お客様の声であるデータが言っているのです」

竹中が、役員や社員に対して顧客満足度の話をするとき、こんなセリフが増えてきた。

サービスは、形にないものばかりではない。店の雰囲気作りに欠かせない内装、色彩、照明、香り、ユニホーム、音楽、温度、清潔ひとつ一つのテーマについて少しずつ変えていった。お客さんによっては半年後あたりから話題になり始め、後日談ではあるが、ほとんどのお客さんが店の変貌に気付いてくれたのは2年かかったことが、アンケートによって分かったのである。

新生“花車“の出店が、加速されてきたのは、大滝が経営顧問になって2年が経ってからである。毎月5店舗から8店舗のペースで出店が続き始まったのである。この調子が続けば年間八十店舗も夢ではない。

今度こそ、誰の目にも“花車”の快進撃は続かに思えた。

しかし、大滝も竹中も考えがおよばぬところに罠があった。

人事部長の小竹森が竹中の出社を待っていたように、社長室を訪れた。

「社長困ったことが起きました。昨日社長が帰られた後、真崎店舗開発部長に開発課長の関谷から一身上の都合で退職したいと言う申し出があり、退職願いが出されたというのです。真崎部長は、責任感が強く、店舗開発では貢献度の高い関谷くんらしくない、と驚くばかりでした。

今朝その対応策について真崎部長と話し合っているとき、経理部長の阿部さんが社長に渡してくれと言って辞表届と書いてある封書を置いて行ったのです。いくらなんでも、部長たるものが突然の辞表はないだろう、といったのですが、とにかく渡してくれ、自分は体調が悪いのでこれから病院へ行くので退社すると言って出て行きました」

「阿部部長に、そのような兆候は見えなかったのかね」

「はい、そのような様子は見られませんでした。少なくとも私は、まったく気が付きませんでした」

「関谷課長の方は?」

「私は、仕事上あまり接触する機会がありませんので分かりませんが、真崎部長も心当たりがないとのことでした。ただ・・・」

「ただ?」

「このところ、出張が減っていることや、定時に帰る日が増えたようだ、と言っておりました」

「二人に繋がるような線は考えられるかね」

「いまもそのことで真崎部長とも話していたのですが、過去を含めて、仕事の上でも個人的な関係でも二人を結びつけるものは見当たりません」

「しかし、突然で不可解な退職願いという点では一致していることになるな。わかった、とにかく2人が顔を出したら私のところへ連れてきてください」

「かしこまりました」

社長室に戻った竹中は、しきりによぎる、嫌な予感を振り払おうとしていた。大滝に電話をするかしまいか迷っていた。

大滝は、経営顧問として契約しているコンサルタントであって役員ではない。株主には違いないが、それは、他の出資者と同じように資本家の1人である。何かあると、すぐ大滝に頼るのはよくない、と時々自分を戒めている。

いまにしてみれば、これまで事あるごとに大滝が、人材育成と組織づくりを強く主張してきたのに、後回しにしてきたのは、自分の怠慢以外の何物でもない。

竹中は、これから本腰を入れて人材と組織に取り組もう、と強く決意をしていたところである。

小竹森人事部長は、このところ、各店の日報を見るのが怖かった。正社員の退職が増えているのである。しかし、怖がってばかりいられない。人事部長としては何とか打つ手を考えなければならない。

小竹森は竹中社長のところへ報告かたがた相談にいった。

竹中は知っていたようで、用件を聞く前に「このところの、退職騒ぎかね、小竹森君、悪い情報ほど早く私に知らせてくれなくては困るよ」といったのである。

「申し訳ありません。じつは、そのことでご相談にあがりました」

「それで・・・・」

さすがに竹中も、今日ばかりは不機嫌のようである。

「私にはどういうことかさっぱり分かりません。社長、この際大滝先生の意見を聞かれてみたらいかがでしょうか」

「うん、私もいまそのことを考えていたのだが、いちいち細かいことまで大滝先生に相談しても迷惑かと思って躊躇していたのだが・・・」

「社長、これは決して細かいことではありません。社長に対する報告や相談が遅くなった私が、いえる資格はありませんが、いま、わが社は営業に支障をきたし始まっているのです。私には何か重要なことが隠されているような気がしてならないのです」

「君もそう思うか。わかったすぐ大滝先生に相談してみよう」

竹中は、小竹森の進言を聞いてほっとしたようであった。

大滝は“花車”の難題のいくつかが解消して、これまでに停滞したほかの仕事を大車輪で片づけていた。

竹中社長から電話が入った。

「大滝です。ごぶさたしております」

「先生、お忙しいところすいません。ちょっと気になることがありましてお電話したのですが、いまお話して大丈夫ですか」

「はい、何でしょうか」

竹中は大滝に、このところの退職者続発のいきさつを、かいつまんで告げた。

話を聞いた大滝に、驚いた様子はなかった。落ち着きはらった声で言った。

「社長、至急退職者の出た店舗名と勤務状況を調べてメールしてください。いずれにせよ明日は無理ですが、明後日はお伺いしたいと思いますが、社長のご都合はいかがですか」

「私なら明後日は、何時でも結構です」


翌々日大滝は早朝に家を出た。上京する前にさいたま市の大宮に立ち寄るためである。竹中との約束の時間である午後2時に“花車”の本部に着いた。

「社長、木下さんを見くびっていたようですね」

竹中の顔を見るなり大滝は竹中に言った。

「木下がどうかしたのですか」

「今回の仕掛け人は木下さんでした」

「木下が・・・、まさか」

「その、まさかなのです」

大滝は、竹中から退職者続出の情報を得る以前に不穏な動きがあることを察知していた。

だから、竹中からの話には驚かなかったのである。

最近大滝は、“花車”の取材を月刊フードサービスの小山へ薦めるために電話をした。

業界誌の特集記事に載ることは、集客にも役立つが、それ以上に社内のモチベーションアップに役立つことを、大滝は経験上知っている。それで小山に特集を組めないか相談したのである。小山は快諾するとともに大滝に言った「ところで大滝さん“花車”を辞められた木下さんの動きをご存じですか」と聞いてきたのである。

「いいえ、何も知りませんが、何か?」

「西洋居酒屋のフランチャイズ展開を始めるようです。すでに実験店はオープンしておりまして、なかなかのものだと言う噂です」

「西洋居酒屋ですか、店名は分かりますか」

「西洋居酒屋“男爵”です」

「なるほど、どんなコンセプトやメニューかご存知ですか」

「いまのところこだわったハムやソーセージ、チーズ、ピザなどが“売り”だそうですが、コンセプトは気軽に、おしゃれに飲める店だそうです。ただ、加盟店の募集に問題がありそうです」

「というのは?」

「じつは、私どもに加盟店募集の広告と説明会の告知広告の話がもち込まれたのですが、内容が誇大広告に近いものがある、ということでウチが注文をつけたら、あっさり引き下がってヨソさんへ持ち込んだそうです。ユニークなのは、開店に際して一定期間は熟練度高い調理人や管理者などの人材を貸すというのです」

この話を聞きながら大滝は、会社をつくったばかりの木下のところに熟練した人材が貸し出すほどいるわけがない。日本料理と西洋料理の違いがあるとはいえ、まさか“花車”の社員をうまい話で引き抜きなどしないとは思うが、目的のためには手段を選ばない木下の性格を考えて、一抹の不安を覚えたのであった。

大滝は、小山から聞いていた話を竹中に話した。

そして、今回の竹中からの電話で、もしかして木下が仕掛けている男爵と関係があるのではないかと考えたこと、竹中に依頼した退職者名簿のなかの1人である大宮店の店長であった山中とは気心が知れていたので面談を求めたこと、今日ここへ来る前に山中に実情を白状させたいきさつを話した。

「山中店長を知っていたのですか」

「はい、彼の実家は宇都宮でして、以前店長研修会のあった日に帰りの電車で私と一緒になりました。彼は当時大宮店の副店長でしたが、病気の母を見舞うため宇都宮の病院へ行く途中でした。幸い駅の近くの病院でしたから私は、近くの花屋で花を買って彼と一緒に見舞うことができました」

「ほう、そんなことがあったのですか」

「はい、それいらい何かあるとメールで知らせてきたり、質問してきたりしていたのですが、このところ、音沙汰がないのでどうしたのかと思っていたところへ例の退職者リストで驚きました」

「なるほど」

「母1人、子1人の彼は母の長い療養生活でお金に困っていたようです。そこへスカウトの話が持ち込まれたのです。迷った末に話に乗ったのです。彼は長いこと世話になった“花車”を裏切る結果になってしまったことで苦しんでいました。罪滅ぼしでもないのでしょうが、“花車”社員の狙い撃ちの一部始終を話してくれました。この話は、社長の胸の中だけにしまっておいてください」

「わかりました、何も知らなかった私が恥ずかしい限りです。それにしても、木下の奴許せない」

「道義的にはともかく、スカウトは合法的です。すきを突かれたことを反省して、これからの対策を考えることが先決ではないでしょうか」

「それは確かにおっしゃるとおりですが・・・」

「まず、現在の社員を落ち着かせることが大切です。私が考えますのに、これまでの職場での話はいつも生産性をあげること、ムダを省くことや節約をすること、それに顧客満足度を上げることばかりのような気がします。これからは、ミーティングのテーマに働きやすい職場、働きがい、生きがいなどもっと働く人自身の幸福感にかかわるようなことと取り組んではいかがでしょうか、災いを転じて福とすると言いますが、いずれやらなければならないことだと思うのです。CS(顧客満足度)はES(従業員満足度)ともいいますから・・・」

「それは賛成です。かねがね私は、縁あって“花車”で働いてくれている多くの人たちが幸せでなかったら、何のためにこんな大変な仕事をやっているのかわからないと考えていました」

「そうでしたか」

「先生それはそれとして、具体的には何から始めましょうか」

「当面不足する人材を洗い出して至急に人集めしなければなりません。本部の重要なポストで緊急を要するポストは何でしょうか」

「まず経理部長クラスの人間、できれば財務会計だけでなく、先生がよく言われる経営の意思決定のための管理会計を熟知している人材が欲しいと思います。ついで、店舗開発課長の穴を埋められる人、加えて、店長候補が最低十名は欲しいところです」

「至急に人材募集の提案をさせていただきます。そして、私も心当たりを当たってみます」

「よろしくお願いします」

竹中は、大滝に深々と頭を下げた。

その夜、東京から帰りの新幹線に乗ってうとうと始まったとき大滝の携帯電話がなった。

「先生ですか、大変です竹中社長が倒れました」橋田室長である。

あろうことか、竹中が脳梗塞で倒れたのは大滝が“花車”の本社を出て間もなくのことだという。

橋田室長が、すばやく救急車を呼んだというのである。

大滝は、途中の大宮で降りて、東京へ逆戻りした。

車中の大滝は、もはや“花車”は単なるクライアントではなくなっていることを改めて感じていた。

病院に顔を出したが、竹中は絶対安静の状態で、もとより面会はかなわなかった。

その夜遅く、臨時役員会が召集された。

木下専務の退職後は、小竹森人事部長と、橋田社長室長が中心になって竹中を支えてきたが、組織上八名の部長は並列であり、橋田室長はアシスタントが一人いるだけで部下のいないスタッフであった。スタッフは部長クラスのようにラインのトップとは違うから命令権は持たない。

仕事は、トップに対する提案する権利と義務だけである。長いことスタッフであったせいか、有能な橋田もリーダーシップがあるとはいえない。

取締役は部長のうちの五名であった。皆沈痛な面持ちで会議室に集まっていた。

小竹森部長が、議長を引き受けたようだ。

「これより、臨時取締役会を開きます。今日はオブザーバーという立場で大滝先生にも出席頂きました。先生、よろしくお願いいたします」

「よろしくお願いします」

「早速本日の議題に入りたいと思います。ご承知のようにわが社にとって稀にみる重要課題が山積している折も折、竹中社長が急病で入院されてしまいました。わが社創業以来の危機といっても過言ではないでしょう。私たちが、いまやらなければならないことは、速やかに社長の留守を預かるリーダーを決めて、この危機を乗り切ることであります。

つきましては、誰がリーダーにふさわしいか皆さんのご意見を聞かせてください。私はこの際、自薦他薦はもちろん、社内、社外を問わずお考え頂きたいと思いますがいかがでしょう」

「賛成です」

「異議なし」

「全員の意見がまとまったようです。ありがとうございます。ついで具体的な人選でのご意見がある方はおりませんか」

「はい、私に意見があります」

宣伝・販促部長の稲垣が手を上げた。

「稲垣部長どうぞ」

「私は、この際大滝先生に副社長として会社に入って頂きたいと念願します。先生にはご迷惑かと思いますが、いまわが社を救える人は大滝先生以外には考えられません」

「異議なし!」全員の声が揃っているところから考えれば、これは周到な根回しができているとしか思えない。

「ちょっと待ってください。私には自分の会社があります」

「先生がお忙しいのはわかっております。私たちでできることは、やらせてもらいます。肝心なときのご判断や皆のまとめ役ということで、ぜひお引き受け頂けないでしょうか」

いちばん年上と思われる総務部長の中島が懇願するような口調で言った。

「お願いいたします」

口ぐちに頼みこむ役員たちの結束は固いようだ。

コンサルタントが、顧問先の役員を引き受けることはあまり感心できないことである。しかし、大滝はこの場に至って断るすべがなかった。

「分かりました。私は竹中社長が近い将来必ず復帰できると信じています。したがいまして、あくまでもショートリリーフということでお受けいたします」

期せずして拍手が起こった。皆の安堵した顔を見ながら大滝は、身が引き締まる思いに胸がきりりと痛みを感じたものである。


翌日、帰りの新幹線の中である。大滝の脇を通り過ぎて行った男を見て驚いた。後ろ姿ではあるが、忘れもしない晃陽銀行の星野に違いない。何メートルか歩いてから、思いついたように立ち止りこちらを振り向いた。間違いなく星野であつた。星野はこちらを見て、軽く会釈をしてから踵を返して近づいてきた。

「大滝さん、ご無沙汰いたしております。あの節は大変お世話になりました」

「こちらこそ」

大滝は、短い言葉で返した。

会社をたたんだときは、あれほど憎んだ男であったが、いつの間にか忘れかけていた男である。忘れていたということは、恨みも消えていたのであろうか、大滝は自分に聞いてみたがそこには過ぎ去ったことはどうでもいいと思う自分がいた。

「差支えなければ、お隣へ掛けさせてくださいますか」

「どうぞ」

短く返したが気分がよいはずがない。

幸か不幸か、自由席の車両の中はすいていた。

「一度は大滝さんとプライベートでお話をしたかったのです」

「そうですか。いまはどちらの支店ですか。それとも本部?」

「いや、銀行は辞めました」

「本当ですか、またどうして?」

「自分の生き方を変えたのです」

「どういう風に?」

「言いたいことを言う生き方です」

「これまで、自分の言いたいことを言えなかったのですか」

「金融庁や本部の上層部にいうことはすべて正しいのが銀行です」

星野は、ためらいなく言い放った。

「意見くらいは言えるでしょう」

「自分の本音のところの意見を言えば、終わりだと思っていました。これが、多くの銀行マンの単なる思い込みならよいのですが」

「いったのですか」

「いいました。溜まりに溜まっていたものを一気に吐き出しました」

「そうしたら?」

「いい気持ちでした。しかし左遷されました」

「それで辞めたのですか」

「左遷されたから辞めたのではなくて、自分の思っていることがいえるような仕事がしたくなったから辞めたのです」

「へぇー、星野さんがねぇ」

「私もロボットではありません。これでも赤い血が通っています」

「それで上司に対してどんなことをいわれたのですか」

大滝が初めて星野に興味を持って聞いた。

「かねがね私は、お客さんを定量的分析だけではなく定性的分析を加味すべきだと思っていましたが、実際のところ銀行はほとんど定量性分析だけで評価していました。最近それがますますひどくなってきたような気がしたのです」

「つまり顧客を数値だけで評価して、数値に表れない経営者の人間性とかヤル気とか将来性などは評価しないということですか?」

「そのとおりです。私は人間が人間を見るために面談や打ち合わせをするのだと思います。しかし、最近はすべてが数値に頼ります。たとえそれが粉飾でも・・・」

「なるほど」

大滝には思い当たるふしが多い。

「数値がゴーサインをさせば、たとえその貸し付けが焦げ付こうがあまり咎めは受けません。しかし、担当者の意見を取り入れて決済した案件が焦げ付いたら大変です。つまり、貸付担当者は意見を持たない方がいいのです。わたしは人間だからこそ分かることが多いと思うのですが・・・」

「それで、つぎの仕事は決めたのですか」

「これからです」

星野は人が変わったようだ。単刀直入な物言いといい、人の顔を見て話すようになっていた。

「ある、中堅の居酒屋チェーンで財務の管理職が欲しいのですが、考えてみませんか。ものが自由に言える会社です」大滝は、あれほど憎んでいた星野を顧問先に推薦しようとは、この瞬間まで考えてもいなかった。

「お断りします」

じつに、あっけなく断られた。

「どうして?」

「私に大滝さんの仕事を手伝わせてください。というより、修業させてください。一人前になるまで給料はいくらでも結構です。これは、前から考えていたことです。大滝さんの仕事ぶりも多少は調べさせて頂いております」

「前から?・・・。急に言われても、一応考えさせてもらいますが時間をください」

「そうおっしゃらずに、わたしをすぐ使ってみてください。私は真剣なのです」

「では、こうしませんか。私の会社へ入って頂きます。ただし、最低六か月間は“ 花車”へ出向社員として派遣します。これは、私の“花車”に対する義理であり、あなたの値踏みを早く終了するためです。力を発揮してから、会社へ戻ってきてください。なお、出向中とはいえ、週に一度は本社に出勤して、私とのミーティングや会議などに参加することを義務付けます。これでいかがですか」

「わかりました。どうかよろしくお願いいたします。決して社長を後悔させません」

星野が、大滝の片腕になるのに、それほどの期間は必要としなかった。


企業が拡大しているときも危機に瀕したときも大切なのは、いかに組織が機能しているかである。

チェーンストアは製造業などと比べて多数の事業所を広い地域に分散して運営している。

そのため、成功はいかにして打てば響くような組織をつくれるかにかかっている。しかも、流通業やサービス業は直接ユーザーとの接点を持つだけに、素早く変化に対応できる組織をつくらなければならない。そして、その組織をつくるのも活かすのも人材にほかならい。

仕事は組織でするもの、と言ったところでそこで働く人間が組織というものを理解していなければ組織は動かない。

企業は人なり、とは言いつくされたことばではある。しかし、そのことばは古くてますます新しいことばである。


いまの“花車”にとって人材が育つのを待っている時間はない。

大滝は有能な人材の確保と育成に心血をそそいだ。特に即戦力を集めることが急務であった。

大滝は人柄を知っていて、かつて、自分が熱い試練を与えた、フロンティアの元社員たちに声をかけることにした。

宇梶を通して八名のタフな連中が大滝の事務所に集まった。

いまでも外食産業が好きでさまざまな業態の外食産業で働いている人間ばかりである。

店舗開発の早坂、本部の調理長をしていた菊田、店長経験者の川添、桜田などつい数か月前の記念パーティーで旧交を温めた面々である。

彼らは、いまの職場に物足りなさを感じているようだ。話を聞いてみると、会社のトップにビジョンがないことが原因の多くであった。

大滝はいった。

「私は臨時の副社長です。しかし、いまの職を退いても“花車”の株主でもあるし、経営顧問としても残るでしょう。そして、竹中社長は私の尊敬する人です。どうか皆さん存分に力を発揮して、いずれ会社の幹部となってください」

「なんかフロンティア時代を思い出しますねぇ」

菊田がかつてを懐かしんだ。


再び“花車”の快進撃が始まった。

店舗数が伸び、当然売上も伸びる。粗利益も増えて労働生産性も目標額に到達した。

“花車”は一度緩んだタガが、きりりと締ったのである。

社員はもちろんのことであるが、取引先や金融機関、そしてそれは、お客の目にもはっきりと感じとるところとなったのである。

そんな折に業界に激震が走った。男爵チェーンの本部が複数のフランチャイジー(加盟店)から訴訟されたと言うのである。その内容は、加盟店の募集の広告の内容に男爵チェーンに加盟すれば必ず儲かるととれるような表現があり、店舗買う初の営業マンがそう言いきっていたというのである。しかも、そのことは、メールという動かぬ証拠まで残していたのである。

そのうえ、有能な人材を貸すと言う条件で加盟したにもかかわらず、アルバイトの手伝いしかよこさなかったというクレームが多いというのである。

公正取引委員会も動き出し、どうやら、男爵の進撃も止まったようだという。

大滝は、一時の迷いから花車を去った人間に対して門戸を空けておくように指示をすることを忘れなかった。


大滝は、長い間自分が理想としてきた“打てば響くような組織”が“花車”において実現できつつあることがうれしかった。

うれしいことが続いた。脳梗塞で倒れた竹中社長の退院の知らせが入ったのである。

竹中の病状は、毎日のように大滝のもとへ報告されてきたが、これほど順調に回復の道を辿るとは思えなかっただけに喜びがひとしおである。

脳血管障害と称される脳の病気は、時間との戦いといわれているが、早期の治療が功を奏し大事に至らなかったという。竹中が「なんだか、手足に力が入らない」と言った瞬間、橋田はその言葉が普段と比べて歯切れが悪いのに気がつき、救急車を呼んだという。

橋田の的確な判断によって、竹中の命は救われたと言えるのかも知れない。

竹中は、短時間ではあるが、時々会社に顔を出すようになるまで回復した。

この頃は、会社の数字を見るのが楽しくて仕方がない。

経営資料を見ながら、「すばらしい!」を連発している。

竹中と大滝が、雑談しているとき橋田がやってきた。

「お揃いで助かりました。さきほど加盟店会の梁嶋会長から電話がありまして、社長の病気などで延び延びになっていた創業30周年の記念行事を、そろそろ考えてもいいのではないかという提案がありましたので、報告しておきたいと思いまして」

「そうだねぇ、このへんで気勢を上げるのも悪くないですなあ」

竹中は大滝の顔を見ながら言った。

「社長、まだ無理はされない方がよろしいと思いますよ」

大滝にしてみれば、折角よくなったのだから、もう少しの間は心身ともに安静にしていてほしかった。

「なあに、大丈夫だよ。皆さんに心配かけたし、見舞いの礼も言いたいし、ぜひ企画させてみましょうよ」

竹中は、そう言いながら大滝が、新社長として式辞を述べる姿と、自分は会長としてそれを見守っている光景をイメージしていたのである。

「副社長いいでしょう」

竹中は念を押した。

「社長がそうおっしゃるなら、異存はありません」

1週間後に竹中が仕事に復帰して初めての取締役会が開かれた。社長が休職していた約半年間の営業成績と出店状況の報告が主な議題であるはずであった。

橋田が、読みあげるⅤ字回復した数値の発表を皆誇らしげに聞いていた。もっとも満足そうに聞いていたのは他ならぬ竹中であった。

ひととおりの報告が終わった時、突然竹中がいった。

「皆さんよくここまで頑張ってくれました。感謝に堪えません。本当にありがとうございました。ここで、突然ですが私から提案があります。これは、正式な取締役会としての議題にしたいと思います。私はこの際社長を辞任したいと思います。そして、大滝副社長を代表取締役社長に推薦したいと思います。ぜひとも皆さんの同意を頂きたいと思います」

一同が思わず顔を見合わせた。もとより、大滝が社長になることに不服はない、しかし、竹中が社長を辞めることに対してもろ手を挙げて賛成はしづらいところでもある。沈黙が流れたその時、大滝が発言した。

「私を社長に推薦してくださる社長の気持ちは、大変うれしく思います。もったいない話です。しかし、私は“花車”の社長には向いていません。」

「どうしてですか、理由を教えてください」

竹中がいった。

「私にも小さいながら会社があります。社員もいます。私を頼りにしているクライアントもいます。私の勝手でこの人たちを放り出すわけにはいかないのです」

みんな黙って聞いている。

「それに、申し訳ありませんが、“花車”の社長より、もっと好きな仕事に巡り合ってしまったからです。その仕事は言わずと知れた経営コンサルタントです。コンサルタントは私の天職なのです。

何年か前の私でしたら天下の“花車”の社長なんていったら、飛び上がって喜んだことでしょう。

でも、いまの私は明らかに違うのです。

夢を求めて多くの人たちが事業に挑戦しています。しかし、事業にリスクはつきものです。志の高い人ほど失敗の確率は高いものです。しかし、1度や2度失敗したからといって人生の終わりではないはずです。また、立ち上がればいいのです。しかし、そんな人を励ましながら、巻き返しの手助けをしてくれる人は極端に少ないのが現実です。これは、誰かがやらなければならない仕事だと思います。私は志をもって事業に挑戦する人に、失敗させたくない。もし失敗したらその人が再起するための力になりたいと、強く思っています」

竹中は、目をつぶって身動きひとつしなかった。そして、つぶやいた。

「失敗しないためには、何もやらないことだ。しかし、それでは生きている意味がないからなぁ」

その一言は竹中の潔さを物語っていることになる。竹中は考える。大滝を無理にでも社長に据えたい気持ちは山々であるが、経営コンサルタントとしても活用しがいのある男に変わりはない。それもよいだろう。

相変わらず竹中の決断や割り切り方は電光石火の早さである。そしてきっぱりと言った。「分かりました。ここはあきらめます。ただし、これからも花車をよろしくお願いしますよ」

「ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いいたします」

取締役会の空気は一転して緊張感が漂った。それは、自分たち一人ひとりが自立しなければならないという覚悟の表れでもあった。


その夜大滝は、東京発最終の新幹線「那須野」に乗っていた。酒宴は“花車”会議室でのささやかなものであったが、半年限りの務めとなった副社長の労をねぎらう皆の友情が伝わってきた、心地よい酔いであつた。

大滝が、意欲ある中小零細企業の経営者の前に立ちはだかる難問や矛盾を、斬り裂くような手伝いがしたいと思っていることは事実である。

この思いを、言い切った大滝の話は表面的には他人も自分も納得できたはずである。しかし、大滝はもっと深いところで己に迫っていた。

カッコの良いことを言ったが本音は別なところにあった。それは、自分にはまだ経営者の器が備わっていない。その証拠にいまの自分は借金が恐ろしい。再び債務奴隷にはなりたくはないと思っている。

“花車”が株式上場を果たし株式市場から資金調達ができる大企業への道のりはまだ遠い。中小企業であるうちは、代表取締役が会社の債務の連帯保証人にならなければならない。

だから自分は、多くの資金を必要としない仕事、経営コンサルタントの道を選んだのである。

以前の自分から見ればちっぽけな男になり下がったのかも知れない。

理由はほかにもある。会社を倒産させたうえに、背に腹は代えられない状況であったとはいえ、道義心をかなぐり捨てて裏金をつくり、資金洗浄などに手を染めた。そんな自分が晴れがましい舞台に立つことは許されないはずである。

「とにかく、いつの間にか汚れてしまった自分を洗い流そう」大滝は自分に言った。

明美の白い顔が目に浮かんだ。オレも彼女のように自分に素直に生きてみたい。

車窓から見えるまちの灯が、人恋しい夜を運んできては遠ざかって行く。(おわり)





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