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債務奴隷解放宣言  作者: 大垣 壽雄
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12、会社売ります

12、会社売ります


大滝経営戦略研究所は、さまざまな課題を抱えたクライアントが増えてきたため、コンサルティングの仕事は大滝一人では間に合わなくなっていた。そのため大滝は、コンサルティングの心得のある男子社員2名を増やした。

大滝経営戦略研究所のメンバーは皆よく働いた。大滝以下4名の力は連携プレイよく相乗効果を発揮して、クライアントの信頼を得ていった。

仲間が増えると大滝のモチベーションもいやがうえにも上がった。

大滝は顧問先およびセミナーに参加してくれる企業を組織化して「フェニックスクラブ」という経営の研究団体をつくった。

フェニックスクラブは情報交換の場であり会員は見込み客でもある。会員に対するサービスとして無料購読のメールマガジン発刊による経営情報の提供を行う一方、2カ月に一度はトップや幹部のためのセミナーを格安に開いた。これが思いのほか評判がよかった。その理由は大滝の経験に裏打ちされた戦略的かつ実践的な理論や時期を得たテーマの設定が共感を呼んだからである。


夏にしては涼しく秋のような青空に心がなごむ午前である。大滝の形態電話のメロディが鳴った。ときどき食事にいく割烹「晃山」の女将高科美代子からである。

「先生ですか?」

「はい、大滝です」

「いつもありがとうございます。晃山の高科です。いまお話しできますか」

「どうぞ、どうぞ」自分がひいきにしている店ではあるが、高科美代子からは、ときどきスポットではあるがクライアントを紹介されているから、大滝にとっても大切なお客である。

「突然で申し訳ありません。じつは東京のお客さんであり、私どもの仕入れ先でもある社長さんが昨夜お店にこられまして、いろいろ話をされたのですが、経営のことでお困りになられているご様子なので勝手なことですが、大滝先生の話をしてしまったのです」

「へぇー、それで?」

「はい、昨夜は宇都宮にお泊りになり、今日は鬼怒川温泉と川治温泉のお得意さんを回って今夜また、私どもの店にお寄りになることになっているのです。そこで、お願いがあるのですが、先生のご都合がつくのでしたら、一度お話だけでもお聞きになって頂けないかと存じまして、お電話さし上げたのです」

「先方さんはご承知なのですか」

「はい、もし先生のご都合がよろしければ、ぜひ会わせてほしいとのことでした。もし、先生のご都合が悪ければ、東武日光線で新鹿沼駅から東京にお帰りになることになっております。いずれにしても今夜は私どもの店でお食事されるそうです」

新鹿沼駅から特急スペーシアで浅草駅まで1時間20分少々で着くはずである。

「晃山」という名はさつきの品種のひとつであり、薄いピンクの凛とした気品のある花である。割烹晃山は、宇都宮市の鹿沼街道沿いにある。鹿沼土と鹿沼のさつきは全国的にも知られている。

「どのような御商売をされている方なのですか」

「主に酒の肴を中心とした高級食材で、珍味と呼ばれている商品の業務用卸売です」

「なるほど、それで鬼怒川」と大滝は合点がいった。

「はい、このところ売上の低迷、売掛金の焦げ付き、板前のリベートの問題などいろいろご苦労されていらっしゃるようです」

「わかりました、今夜お伺いさせて頂きます。それで、何時がよろしいのですか」

「はい、先生のご都合がつけば夕方七時頃だとありがたいとおっしゃっていました」

「なるほど、そうさせて頂きます。七時ですね。ところで、本社はどちらにあるのですか。そして、こちらに営業所などがあるのですか」

「はい、本社は築地です。栃木県内には、宇都宮市と那須塩原市。群馬県には高崎市と渋川市に営業所があると聞いております。会社名は潮の屋本店、社長は塩田良平さんという方です」

「分かりました。それでは今夜お伺いいたします。いつも、お気遣い頂きありがとうございます」

「とんでもございません、私、先生のお役にたてればうれしいですわ」高科美代子は最後にちょっと砕けてみせた。

50歳に手が届く歳だというが、まだまだ、色香をたたえた女性である。とにかく、小さな居酒屋から始まりいまでは押しも押されもしない割烹の女将である。女手ひとつで娘たち三人を育て上げ、長女の美由紀と娘婿が中心的な戦力である。

「今夜はお出かけですか」携帯電話の長話が終わるのを待っていたように明美が聞いた。

「うん、晃山の女将が、クライアントを紹介してくれるらしい」

「そうですか、いま、エフマートの藤野社長から電話がありました。折り返し電話を差し上げます、と言っておきました。それから、ヘアーサロン“メルヘン“チェーンの和代社長からも電話がありました。こちらは、これから出かけるので出先からあらためて電話するそうです」

「わかりました」

「社長への電話は女性ばかりですね」

「たまたま、今日だけだろう」と言いながら大滝は、明美のほどよいやきもちが、うれしかった。


その夜、大滝は割烹晃山に約束の7時より10ほど前に着いた。

「お待ちしておりました」大滝が暖簾をくぐると笑顔の女将が迎えた。

「こんばんわ、今朝ほどはありがとう」

「こちらこそ、ご無理を言って申し訳ありません。お客様がお待ちしております。ご案内いたします」と言いながら大滝の先になって廊下を歩く。

女将は歩きながら「塩田社長は先生に会えるのを心待ちにしている様子です。突き当たりの白玲の間でございます」と囁いた。白玲とは、やはりさつきからその名をとったもので晃山系の小輪で先のとがった、白く気品のあるのが特徴である。

白玲の間に入ると、床の間を空けて白髪でメタルフレームの眼鏡をかけた老紳士が向きを変えて座り直した。見るからに人の良さそうな笑顔である。

座布団から下りて丁寧に頭を下げ「潮の屋本店の塩田でございます。このたびはご無理を申して恐縮でございます」とあいさつをしてから、名刺を差し出した。

「大滝でございます。若輩ものですが、こちらこそよろしくお願いいたします」大滝のあいさつはいつもながら、相手にふさわしい言葉を用いるようである。

「かねがね、こちらの女将から先生のお噂は聞き及んでおりましたが、いつか、このような場面があるのではないかと想像いたしておりました」と如才なかった。

「と、申しますと?」

「はい、以前から経営のことで悩んでおりまして、誰か安心して相談できる方がいないものかと考えておりましたので・・・」

「東京にはコンサルタントなどは、たくさんいると思いますが・・・」と大滝。

「じつは銀行や取引先の紹介で、何人かのコンサルタントの先生には相談したことはありますが・・・、いずれの先生も私にとっては相性が悪いと申しますか、話がかみ合いませんでした」

「お眼鏡にかなわなかったわけですか」

「はい・・・、と申しますか、高邁な経営理論を聞かされても丁稚上がりで学のない私には難しくて、要するにどうすればいいのですか。と聞いても私の納得できる答えは出ませんでした」

「なるほど」

「また有名なコンサルタント会社に依頼したときは、大学を卒業して間もない若い先生が担当されたのですが、現実を知らな過ぎると言うか、およそ実践的とは思えませんでした。高い報酬を払ってこちらで教えたようなものです。まあ、運が悪かったというか、当初の打ち合わせが甘かったというか・・・」

「そうでしたか。ところで社長さんがいまいちばんお困りのことはどのようなことですか」

大滝は自分で話すことは極力控えて、聞くことに徹した。

時折あいづちを打ち、質問をしながらメモを取ったが、塩田の話を要約するとつぎのとおりである。

本社として築地市場の場外売り場の一角に15坪ほどの事務所を構え、その2階は従業員の寮と、休憩所になっている。狭い道路をはさんで30坪ほどの総2階の冷凍室と冷蔵庫を備えた倉庫と公設市場の中に冷蔵庫があるが、いずれも賃貸物件である。

事業所は築地の本社と本店営業部があり、栃木県の宇都宮店、那須店、群馬県の高崎店、渋川店があり、全部で五か所である。このうち、宇都宮だけは社長は同じだが別法人になっている。

本店は東京を中心にホテル、旅館、結婚式場、料亭、ゴルフ場などを主な顧客としている。

宇都宮店は日光、鬼怒川・川治温泉や宇都宮、鹿沼のゴルフ場や結婚式場。那須店は那須や塩原の温泉のホテル、旅館、高崎、渋川店は群馬県内の温泉ホテル、旅館などを中心にそれぞれ営業活動を行っている。

観光地の不況による売り上げの減少と売掛金の回収の遅れ、そして貸倒れが増えていることが、資金繰りを圧迫している。

勘定足りて銭足らずとはよく言われることであるが、その原因は損金にしていない事実上の貸倒れがあることと、不良在庫が山積していることによる。これは、銀行対策として利益が出ているように見せる逆粉飾の結果である。

消費税など税金の延滞により本社の土地と建物が差し押さえを受けていること。

税務署の調査で、多額の使途不明金を社長個人の所得に認定されて、その税金が滞納していること。使途不明金は得意先の板長やコックに支払ったリベートが主なもので、適当な名義を使った貸付金や仮払金という形で処理されていたのである。

このところの業績悪化により3年ほど昇給はしていないばかりか、ボーナスも五年間支給していない。そのためか社員のモチベーションは著しく下がっている。


大滝はひととおり話を聞いた後「社長さんも大変お疲れのようですが、お身体のほうは大丈夫ですか」と尋ねた。

「それが、この頃持病の心臓の方が、はかばかしくないのです」背が高く、やせている塩田はため息まじりに言った。

「それは心配ですね」

「はい、歳はとりたくないものですね」

「失礼ですが、おいくつになられました」

「76歳です。もうすぐ77歳になります」

「立ち入ったことを聞いて申し訳ありませんが、お子様は・・・」

「それが、前の女房との娘が一人おりまして公務員のところへ嫁いでいます」

「奥様は?」

「はい、私より15歳も下なので本社の経理をしていますが、この頃は金に追われるせいでしょうか、もう疲れたと言っております。なにせ朝が早いですからねー」

「何時に出勤されるのですか」

「朝4時にはでています。帰りは、みんなが配達から帰るのを待ってからですから午後は3時頃になってしまいます」

「社長は?」

「私は最近、会社へは時々しか行かなくなりました。銀行や税務署へ行くのは私ですが」

「それでは、後継者は?」

「いままで、眼をかけた数人の社員はおりましたが、いずれも独立したり、使い込みがばれたりして去って行きました」

「それは不運でしたね」

「私たちの頃とは変わりました、わたしは、築地の海苔問屋に丁稚奉公をして這い上がって独立し、今日までやってきましたがいまどきの若い人は簡単に辞めていきます」

大滝は、社員が定着しないのは、会社や経営者に原因があるのがふつうだと思っているが、そのことには触れず、話を進めていった。

「会社の財務内容について二、三お伺いしてよろしいでしょうか」

「お恥ずかしい話ですが私は経理については、まったくの素人ですが、私で分かることでしたら」

「現時点の本社の自己資本、つまり正味の財産はどのくらいありますか」

「資本金は1千万円です。それに、去年は赤字だと聞いています」

「それは多分商業登記簿上の資本金でしょう。これまでの経営で黒字の累積があれば自己資本が増えているはずですが、赤字の累積が資本金の1千万円を超えていれば債務超過になっているわけです」

塩田の財務知識が無いと言うのは、謙遜ではないようだ。

「月次の毎月の試算表は見ていますか」

「このところ見ていませんし、説明を受けてもおりません」

「試算表は説明を受けないと意味が分かりませんか」

「はい、私は経験だけで経営をやってまいりましたから・・・」

塩田は正直に言った。大滝の質問は、事実を知りたいためなのだがそれは無理のようである。

大滝は、これだけの規模になった会社のトップが数字に関心がなくて、経営が成り立ってきたことが、なんとも不思議に思えた。

「さきほど、いろいろ難問を上げられましたが、私がどこまでお役に立てるか疑問もあります。でも、折角のことですのでお付き合いさせて頂きたいと思います」

「ありがとうございます。そうして頂ければ助かります」

ふたりはコンサルティングの条件や内容などを話し合い、後日大滝が顧問契約書を送ることに決まった。

塩田は、酒と肴を運ぶよう座敷から帳場に電話を入れた。

「社長は最終的には会社を、誰に任せるおつもりですか」ビールを口にしながら大滝が言った。

「はい、いまとなっては難しいと思います。いずれは会社ごと誰かに買って頂きたいと思っております」塩田が言った。

「売る?」

「はい」

「どうしてですか」

「疲れました。もうこれ以上資金繰りで駆け回るのは私には耐えられません。来月も全店合わせると1千3百万円足りません。本店では銀行にも断られ、宇都宮店で地元の銀行に申し込んだのですが、条件付きで貸すというのですが、その条件は保証協会付きで、滞納している税金を納めてくれというのです。借りた金で税金を払わせてくれるよう頼んだのですが、ダメだと言うのです」

「それで、どうされるおつもりですか」

「個人の最後の定期預金8百万円を取り崩し足らない分は、仕入先に待ってもらうしかないと考えております」

ため息の後の沈黙の時間を打ち切るように大滝が話題を変えた。

「さきほど、社長は会社ごと売りたいというお話をされましたが、いくらでお売りしたいのですか」

「そう言ってはみたものの正直なところ、私にはうちの会社どのくらいの価値があるのか、それより売れる価値があるのかないのか見当がつきません」

それからしばらくの間、塩田は大滝の矢継ぎ早の質問に対して、自分の記憶を頼りに応答してくれたが、大滝にしてみれば、数字での答えはなく抽象的な答えばかりで、満足のいくものではなかった。

「とにかく、財務諸表などを見せて頂いた後で、私なりの評価や分析を試み、今後の方策を提案書としてまとめてみたいと思います」

「よろしくお願いいたします」

それから大滝は、塩田から業界の話や築地市場の移転問題などを聞きながら酒を飲んでいた。頃合いを見て女将の高科美代子が話に加わる。

このところの不景気により売上が落ち込む一方の飲食店に話が及んだ。

「社用の接待が著しく減ったことはもちろんのこと、飲酒運転の罰則が厳しくなって以来の客数の減少は目を覆うばかりです」

女将の高科美代子がこぼす。

「私どもの業界も1回あたりの配達料が少なくなり困っています。以前はケースごと仕入れて頂いたものが近頃では小分けでしか注文してくれなくなりました。そして高級食材が売れなくなりましたねぇ」

塩田も近頃の売り上げ不振をなげいた。


4日後、大滝の事務所に潮の屋本店から、過去3期分の決算書などが宅急便で送られてきた。送られてきた資料を見た大滝は、その営業成績と財務内容の悪さに驚いた。

営業成績は1年間の損益計算書に表され利益や損失がわかる。財産状態は、決算時点での資産と負債が比べられて資産から負債が差し引かれた正味の財産が表されている。これを自己資本というが、これは、会社の年輪ともいえ、毎年幹が太くなっているのが理想的である。

しかし、潮の屋本店の場合は、会社の継続すら無理であることは容易に判断できる。このままでは負債は増えるばかりであろう。しかも、負債の質が悪くなることが懸念される。つまり、銀行の借り入れが、ノンバンクやマチ金に変わり、取引先への未払い金が増えるのがふつうである。塩の屋本店は既に資金がショートしているはずであるが、その分手形サイトを延ばしてもらうことや、借入金の条件変更によってしのいでいるようだ。

経理担当の社長夫人や、会計監査する立場の会計事務所に電話で決算書にある明細書の内容を確かめると、売掛金、受取手形として計上してある債権も相手は事実上倒産しているし、社長に対する仮払金や貸付金も返済される見通しが無い。これも不良債権のうちに入ると言わざるを得ない。そして、貸付金は社長自身に金を受け取っているという意識すらないようである。これは得意先の板前やコックに対するリベートがほとんどだというがその真実は分からない。

在庫も評価があまいようだ。本来ロスとして処理すべき売り物にならない商品も計上してある。

これらをまともに会計処理に反映させると、莫大な債務超過になることは疑う余地がない。このままでは、潮の屋本店は早晩経営が破たんするであろう。

大滝は、数字にうといとはいえ、長いこと経営してきた塩田社長の直感で、会社ごと売れるものなら売ってしまいたい気持ちがわかるような気がした。むしろその決断は遅きに失したといえる。

大滝は、どちらにせよ会社を処分する方向で戦略を練る以外に対策はないと考えたのである。

潮の屋本店の資産は、本社のある築地の場外市場の借り店舗と市場内にある賃貸倉庫の中にある在庫と売掛金で、あとは差し押えされている社長の住む東銀座のマンションである。営業所も賃貸物件で不動産はない。あるのは財産目録には載っていないのれんと、得意先、仕入れ先などの営業権である。金額は買い手の評価次第である。

その後数回の打ち合わせや情報交換が宇都宮で行われたが、塩田の片腕となるような人材はいないのか、大滝との打ち合わせに立ち会わせたくないのかいつも、塩田一人である。それに、塩田は築地の本社での打ち合わせを嫌っていた。

会社の命運にかかわる意思決定を秘密裏に進めたい意向のようである。

大滝がたてた潮の屋本店の再生計画は、すべてを救うことを諦めることであった。本社(本店)を継続することはどう考えても無理であった。

できることなら潮の屋本店の象徴である築地の本丸を残したいところであるが、多額の負債と使途不明金、税金の滞納などを考えると本店以外の営業拠点を切り離して残すしか方法はない。

大滝は最初に、別法人になっている宇都宮店、正確には株式会社宇都宮潮の屋の譲渡を提案した。買い手として考えたのは、取締役であり店長である早瀬俊介である。

大滝は塩田とともに早瀬との話し合いに臨んだ。

早瀬は飲み込みのよい男で、大滝の独立を勧める話を聞くと「資金はいくら用意すればよろしいのでしょうか」と聞いてきた。

「あなたは、現在資本金1千万円の10パーセントをもつ株主です、塩田社長が90パーセントを持っていますが、そのうちの80パーセントを買い取って頂きたいのです。額面で800万円ですが内部留保、つまり自己資本がふえている分を計算すると約2百万円、それに、営業権2百万円とのれん代として2百万円をつけて、締めて1,200百万円で買い取って頂けないでしょうか。そのうち、社員の皆さんに株を分けて買い取ってもらうのは自由です」

「1,200百万円ですか」早瀬に驚いた様子はなかった。

「それに念のために申し上げますが、自己資本と言うのは資産から負債を引いた数字ですから、銀行からの借入金や買掛金それに未払い費用などの支払いは引き受けていただかなければなりません。長期借入金には3百万円ほど残債がありますが引き続き塩田社長が連帯保証を引き受けます。これまでのように分割返済を遅滞なく払って頂ければ保証人を変えろとか担保を提供しろというような話はないと思いますが、もしそういわれたときは断ればいいのです」

大滝は早瀬が、宇都宮では名のある餃子屋をチェーン展開する社長の次男坊だと聞いていることからこのくらいの資金は何とかなるとふんでいる。

「会社は皆さんが給料を取られたほか、年間6百万円くらいの純利益は出る状況からすれば、決して高くはないと思います。もちろんこれは、早瀬さんたちの努力のお蔭ですが。それに現在賞与を支払っておりませんが、これは、会社は別でも、潮の屋本店グループの一員としてほかとの釣り合いから出せなかったのだと思います。なお、10パーセントの株主である塩田社長は、株を奥様に譲られる予定です。そこで奥様を、監査役にでもしていただいて、些少で結構ですが報酬を支払って頂きたいのです。これからの塩田社長はあまり高くはない年金で暮らしていかなければなりません。ぜひともご理解いただきたいのです」

「お気持ちは理解できます」

早瀬がいった。

「これからは、あなた次第です。利益がでれば、役員報酬を上げることや役員賞与の支給、株主配当も決して夢ではありません。なによりも、いまのままでは、潮の屋本店と道づれに心中しなければならないかも知れません。これは、じつにもったいない話です」

「お話はよく分かりました。できるだけご期待に添えるよう考えます。いちおうほかの社員たちとも相談して早々に結論を出します」

「ありがとうございます、ご返事は今週中に出せますか。急がせて恐縮ですが、もしこの話が不調に終わったときは別の方に相談しなければなりませんので・・・」大滝はさりげなく圧力をかけるのを忘れなかった。

早瀬は、頭の回転が速いようである。この話がまとまらなかったときは、経営者が変わって自分の立場はどうなるか分からないことを察したのであろう。

「相談は形だけのものだとお考えください。私の腹は決まっております。ぜひお引き受けしたいと思っております」と言ったものだ。


大滝は続いて那須、渋川、高崎の各店長と東京上野の小さなホテルで会議を開いた。

冒頭、塩田から大滝の紹介と今回の打ち合わせの趣旨が説明され、後は大滝が引き受けた。

「お忙しいところお集まり頂いたのは、塩田社長からお話がありましたように、潮の屋本店の危機にどう対処するかという課題についてでありますが、今日は最初から具体的に踏み込んだ提案をさせて頂きます」店長たちは一様に緊張した面持ちで聞いている。

「提案の内容は、できるだけ皆さんの雇用を守ることと、これまでご愛顧頂いたお客様へご迷惑をかけない方法についてであります」一同はほっとした様子である。

「皆さんのお店を守るためには、最初に本社と皆さんのお店を法的に切り離さなければなりません。その理由は、残念ながら本社はもう死に体なのです。皆さんの営業所が本社と一緒にいればいずれ運命を共にしなければならないでしょう。

皆さんの営業所を本社と切り離すことなど可能なのか、と思われるかもしれませんが私は不可能ではないと思っています。その方法は、各営業所を法人化したうえで、新しい会社が、それぞれのお店にある商品、設備、車両、備品それに土地建物の賃借権、それに現金・預金、売掛金などの資産を本社から、適正な価格で譲渡を受けなければなりません。本社は、その時点で存在する買掛金と未払い金などの負債を新しい会社に引き受けてもらうことにして、その分を譲渡価格の中から差し引きます。

もうひとつ大事なことがあります。それは、新しい会社には本社から営業権という、決算書には記載されてない無形の資産を買い取って頂かなくてはなりません」

ここで一息ついて、大滝は「ここまでのところで、質問はありませんか」と三人の顔を見まわした。

「続けてください」高崎店の小林店長が言った。他の二人も同意するようにうなずいた。

「問題は受け皿です。つまり、新しい会社を誰がつくり、誰が経営するかであります。塩田社長は本日お集まりの皆さんに引き受けて頂きたい意向です」

「質問してよろしいでしょうか」小林が口をはさんだ。

「どうぞ」

「塩田社長は役員になるお気持ちはないのでしょうか」

「そのことにつきましては、社長はこの際だから身を引きたいというお考えです。これは、本社をどう整理するかという問題と関係がありますが、仮に会社を自己破産するような場合、会社の金融機関に対しての債務について連帯保証人になっている社長個人としても自己破産をしなければならないでしょう。そうした場合、すべての整理が終了して免責になるまでは社長は法人の役員にはなれません。つまり、社長は会社から身を引かざるを得ないのです」

「これから社長の生活はどうされるのですか」

那須店の関口店長が言った。

「私のことは考えなくていい。自己破産して借金さえなくなれば、年金で質素に暮らしていけます。幸い家内の妹の古い一軒屋がさいたま市に、空き家になっているから、そこで生活するつもりだよ」

「私どもが新しい会社をつくって営業を続けるのに資金はどのくらいかかるのでしょうか」渋川店の清水店長が小さな声で質問した。

「幸いなことに新会社法に変わってから、会社の資本金自体はいくらでもよいことにはなりましたが、皆さんのお店にあるものは本社から譲渡を受けなければなりません。店によって償却の進んでいる場合と、そうでないものがあるなど、資産の内容は違ってきますから、細かく調査したうえでないとはっきりいえません。

しかし、在庫その他の資産は大まかなところ8百万円から1千万円くらいかと思います。それに営業権を5百万円と評価しても会社の設立費用を含めても1,350万円から1千5百万円くらいでスタートできると思います。これまでのように売掛金の回収につまずくようなことが無ければ、さほどの運転資金は必要ないでしょう。これらのことは、現場の皆さんのほうが的確な判断ができるかと思いますが」

「お話はよく分かりました。3人で別の場所で少しの時間話をさせて頂けないでしょうか」小林が二人の顔を眺めた後で言った。

「社長、よろしいですか」と大滝。

「結構です」と緊張気味であった塩田の顔が、いくぶん穏やかになったようだ。

30分ほどたって3人は戻ってきた。

「基本的に3人ともご提案の内容に異存ございません。私たちは法的なことや経営のことはよくわかりませんので、これから、よろしくご指導ください」

会議は、始めてから3時間程度で終わった。後は一気に事務手続きに移るだけである。


その後、潮の屋本店の各営業所の分離独立はうまくいったのは梅雨の明けるころであった。すべての現地法人が順調に営業を続けている。

しかし、大滝は本社の整理のことを考えると気が重かった。順序からいえば必然的にそうなるのであるが、いちばん大きな、しかも難しい問題が残されているのである。

会社を買ってくれそうな人が二人いるというので、それぞれに塩田と2人で会った。そのうちの1人である、上野のアメ横で海産物屋を経営する社長は、潮の屋本店の財務内容を聞いてこの話はなかったことにしてくれ、といって退散した。

もう一人は、潮の屋本店出入りの損害保険の代理店をやっている男の情報である。

青山に本社のある東日本食材開発という中堅の食材卸会社の営業部長をしていて最近退職した人間が、ぜひ老舗の食材卸売業を営む会社を買いたいというのである。これまでいた会社の支援を受けて大掛かりな業務用食材の卸売会社をつくるべく奔走中なのだが、すでに、お客を持っている会社を買った方が時間の節約になるからだという。大滝と塩田は、坂東幸造という60歳になろうかという、その男と会った。名刺を見ると、住所は千代田区麹町になっているNPO法人食材環境研究所の理事の肩書になっている。

「目下浪人中でしてこんな名刺きり持っておりませんが、よろしくお願いいたします。この事務所は非常勤ですのでご連絡は名刺にある携帯電話へお願いいたします」

坂東と名乗る男は、初めての出会いとは思えない親しみを込めた笑顔でいった。

坂東の話はスケールが大きく、債務超過が1億や2億円くらいはあってもかまわないというのである。

しかも塩田がいくら欲しいのか、オーナーとして会社を手放すのに必要な金額を提示してくれと言って塩田を喜ばせた。時期的には、10月頃をめどに新しい体制で進めたいので、契約を9月の中旬頃までにはしたいという。

しかし、あまりにもいい条件なので、大滝と塩田は半信半疑であった。そして、2人の頭をよぎるのは9月の中旬まで会社が持つかどうかという問題であった。

2人は坂東と別れた後、この話が確実であるなら、どんなに無理をしても会社を存続させたうえで、会社を譲渡すべきであるということを確認し合った。


築地の潮の屋本店の本社務めの全社員を集めた会議が行われることになったのは、すべての営業所が法人として独立してから3カ月が過ぎた頃である。早いもので、大滝が塩田と初めて会ったときから10カ月が過ぎていた。

大滝は地下鉄日比谷線の築地駅で降り、築地本願寺の前で塩田社長と待ち合わせた。

ひと雨降ったせいか、さすがの暑さも一休みと思わせる午後である。

「先生、本店にはわけのわからない社員が多いので驚かないでください。社員をわがままに育ててしまったのはわたしの責任です」道すがら塩田が言った。

「どういうことですか」

「忙しい時代に、去る者は追わず、来る者は拒まずという姿勢でやってきましたが、吹きだまりみたいになってしまいました」

「去る者は追いかけて、退社したいほんとうの理由を聞き、来る者はしっかり人間性や適性を探ったうえで採用しなければ、よい人材の会社はつくれませんよね」

「たしかにそうなのですが・・・」塩田はため息交じりにつぶやいた。

二人は、昼食をとるために築地本願寺の裏通りを数分歩いたところにある、小料屋へ足を運んだ。昼どきは近くのビジネスマンのために限定メニューでランチをやっているという。塩田がよく使う店であり、店の主人は塩田の小僧時代からの友人だという。店の主人は自家用の客間を用意いてくれた。

「先生、午後1時半には東京の全社員が集まれるという報告がはいっています」食事をしながら塩田がやや緊張した面持ちで言った。

「さきほど、吹きだまりと言われましたが、うるさい社員はいるのですか」

「はい、3人ほどおります」

「それは誰と誰で、どううるさいのですか」

「まず、営業本部長の大橋です。いちばん古参で仕事はできるほうなので、一度役員にしていたことがありますが、使い込みがばれて、取締役を下ろしたのです。いまでも公私混同のクセは直らないようです。これまで各店の仕入れや、営業の統括をしてきましたが、各店が独立して権限が小さくなって面白くないようです。大橋は、私が後継者と考えていたその頃の常務仲山に仕込まれました。その頃は素直で私も仲山も期待していました」

「その仲山さんはどうしたのですか」

「彼は病死したのです。40歳を越えたばかりでした」

「それは、不運でしたね」

「仕方なく直ぐ大橋を仲山の後釜に据えたのです。しかし、大橋は若くして、リーダーになり有頂天になってしまい世の中を甘く見てしまったのでしょう。以前ほど仕事に身が入らないようです」

「つぎに、本店の営業を任せている中込です。黙々仕事をするのですが、報告、連絡、相談のないのが欠点です。リーダーシップもあるとは言えません」

「報・連・相の欠如ですか」

「最後は中込の下で次長として働いている嶋田ですが、これが曲者で、中込の分まで彼がしゃべります。入社して5年くらいしか経っていませんが、ぬしのように大きな顔をしています。入社して、しばらくしてからわかったことですが、真実は定かではありませんが、もと極道だという話です。とにかく口うるさい奴で、キレると何をするか分からないという話です」

「これは一筋縄ではいきそうもありませんね」

「何から何まで先生にお任せして申し訳ありません。どうかよろしくお願いたします」塩田はあらためて頭を下げた。

塩田は、意外にしたたかで前もってこんな話をしたら、誰でもしり込みするだろうと考えて、彼らと対面する直前まで黙っていたのではないかと大滝は思った。

二人は、外へ出たが無言で歩いた。大滝はこれから起きるであろうドラマに考えを巡らせていた。

塩田は六十年あまり過ごしてきた築地の街並みを考え深そうに眺めながら歩いていた。自分の一部であるこの界隈も、間もなく遠い存在になるはずである。こういう結末になるとは夢にも思わなかった。“終わりよければすべてよし”と言うがその逆である。俺の人生は一体どういう意味があったというのであろうか。しかし、すべては自分でまいた種である。こうなった以上流れに任せるしかないのだ、と自分に言い聞かせていた。

ほどなく場外売り場の裏側の路地の両側に、ひしめくようにさまざまな海産物の会社が軒を連ねていた。塩田は通りすがりの何人かとあいさつを交わしながら歩く。いずれも「しばらくです」とあいさつされているところをみると、あまり会社には顔を出していないことが想像できた。やがて潮の屋本店の看板が見えてきた。

事務所のガラス戸をあけるとすぐ、八人分の事務用のデスクが向き合って並び、古いタイプのパソコンが二台と書類や伝票が雑然と置かれてある。そこに、ポツンと一人で伝票の整理をしていた女性が「いらっしゃいませ」と立ち上がって迎えた。

「妻の勝子です。こちらが大滝先生です」と塩田が紹介した。

「塩田の家内でございます。いろいろとお世話になります。どうかよろしくお願いいたします」と哀願するような面持ちであいさつした。

事務所の奥が会議室のようである。ドアを開けると大きなテーブルがあって、そこに総勢12名の社員が額を合わせるようにして話しこんでいいた。

「こんにちは」と大滝が大きな声であいさつをした。

「こんにちは」と力のない声がかえってきた。こちらを見ながらあいさつしたのは女性二人だけで、ほかの男性陣は申し訳程度に口を動かした。

「お待たせしました」塩田は独り言のように小さな声で言いながら、皆が囲んでいるテーブルの真ん中に二つ空いている席の一つを大滝にすすめながら自分も座った。

皆が大滝の顔を値踏みでもするかのように、上目づかいに見る。

「まず、ご紹介します。ここにおられるのは経営コンサルタントの大滝先生です。これまで私がいろいろ相談に乗って頂いた先生です。今日は折り入って皆さんにお話があって、お集まり頂くことについてご無理を申しあげてご同席願いました」

「大滝です。よろしく願いします」大滝は皆の顔を見渡しながらあいさつをした。

塩田が口火を切った。

「皆さんもご承知のようにわが社も年々売り上げが落ち込み、売掛金の焦げ付きも増える一方で会社の経営はますます苦しい状況が続いています。そのうえ、税務調査がありこんなに苦しいのにもかかわらず会社は増額更生決定を受けたうえ、私個人も税金が払えず財産を差し押さえられております。そのためか、頼みの綱であった銀行に融資を頼みましたが、あっけなく断られました。私は、ここ半年くらい夜も眠れない日が続いています。」

一同黙って、うつむいて聞いている。

「これまで私は、大滝先生のアドバイスを得ながら、生き残る道を模索してまいりました。しかし、もう少し早く考えるべきでした。すでに遅かったとしかいいようがありません。もちろん責任は私にあります。ですから、私はどうなってもいいのです。問題は皆さんにいくらかでも償いができる状況をつくって会社を整理したいのです」

ざわついた雰囲気が流れた。塩田は続ける。

「皆さん、ご承知のように営業所がそれぞれ自立することができたのは、そこで働く人たちが私の無理を聞き入れて出資してくれたお蔭です。問題は皆さんの働く本店ですが、いまのところ会社ごと買い取ってくれる人を探している段階でございます。引き合いはいくつかありますが、まだ決まるまでには至っておりません」

「身売りするのもいいが、俺たちのことはどう考えているのかを先に話すのが筋というもんだろう。えー?オヤジさんよ」

図体の大きな男が、大きな声で吠えるように言った。

この男が嶋田らしい。

大滝は、口のきき方は悪いがこの男の言うことは間違っていないと思った。

いまここに集まっている誰もが聞きたいことは、自分たちのこれからの生活のことであるはずだ。

「すまなかった。皆さんのことを決して忘れているわけではなくて、皆さんにとって最もいい方法は、この会社を引き継いでくれる人を探すことだと思っているのです」

「わかったよ、オヤジさん。俺達の聞きたいことは、もし売れなかったらどうするつもりかってことよ」と嶋田が目を剥く。

「そこまでは、まだ考えていませんが…。その辺のところはよく皆さんと相談して・・・」

「ざけんじゃねぇよ、オヤジ!てめえがこの会社をダメにしたのだろう。こちとら朝の暗いうちから仕事をしているのに、朝会社へ顔を出したことあるのか。たまに会社にくるときは、お天道様が真上に上がってからだろう。そして、ものの一時間もいないでどこかへ消えてしまうだろう。

出張だということにして、女を連れてやれゴルフだ、やれ温泉だといい身分だぜ。それでいて、身体が悪い、歳だって、チャンチャラおかしいぜ、これまで奥さんがいるので黙ってきたが、こちとら何でもわかっているんだよ」

塩田は黙って、ただ唖然としている。夫人も黙ってうつむいているが、驚いた様子を見せないところをみると、女がいるということは、先刻ご承知のようである。

大滝はといえば、晃山の女将からは銀座のママをしている愛人がいることは聞いてはいた。というより景気がよい時代に、銀座にバーを出してやったといっていた。しかし、社員までが会議の席であからさまに話題に出したのには、いささか驚いた。

「社長、黙っていては分かりません。正直のところ、我々をどうしてくれるつもりなのですか。ほかの店が生き残って、のうのうとしているのに、なぜ俺たちだけがこういう目に遭うのですか」

これまで黙っていた大橋が、低く響く声で言った。塩田が、おろおろして大滝の顔を見ている。

「私からお話してよろしいでしょうか」

見かねて、大滝が後を引き取った。皆のうなずきを見てとって大滝はゆっくり話し始めた。

「いかなる企業にも危機はあります。これまで何度となく塩田社長と潮の屋本店の危機を乗りきるための方策について話し合ってきました。もっと早く皆さんにお話しできなかったことは、私も申し訳なかったと思っています。しかし、できることなら、皆さんに心配をかけずに再生策を見出してから提案したかったのが本音です。

いま、質問がありましたが、ほかの店がのうのうと生き残るのに、なぜ本店だけがこういう目に遭うのか、ということですが、これは、ほかの店には収益構造ができているからです。儲かる仕組みと、体質が備わっているからです。残念ながら本店にはそれがありません。続ければ続けるほど赤字が増えていくのです。

どんなに頑張っても、一生懸命やっても赤字は赤字です。それは、がんばって赤字をつくっていることと同じなのです。言い換えれば、無駄な努力をしているのです。

いまのままでは、固定経費を上回る粗利益を出すことは、至難の業だと思います。現在の経費のままだとしたら、いまの人員で現在の売り上げの1.4倍売らなくてはなりません。もし、いまの売り上げで黒字にするためには、現在の給料を最低35パーセントはカットしなければなりません。

しかも、これは損益計算上の話でありまして、資金繰りからすると、借入返済や未払い税金を加えなければなりませんから、もっとハードルは高くなります。

このところ、競争が激しいらしく、粗利率も落ちているようですから、ますます、赤字が増えるのではないかと予測しています。

この赤字を働く皆さんで補ってくれるなら話はべつです。でもそれはできない相談でしょう。

この垂れ流しの赤字を止めるには、会社を整理するしかないのです。

それともこの中の誰かが社長になってやりますか。塩田社長は、もし、銀行の連帯保証人を銀行が認める誰かが自分に代わって引き受けてくれるなら、今すぐにもこの会社は無償で譲りたい気持ちだと、私は思います。

もちろん、こうなった最大の責任は塩田社長にあることは、確かでしょう。

しかし、この場に至って誰が悪いとかいう議論より大切なことは、どういう方法が、いちばん傷が浅く処理できるか、どうすればひとり一人がつぎのステップを踏めるかを考えることではないのでしょうか」

「先生に具体的な善後策は、あるのですか」

中込が、ぼそっと言った。

「ないことはありません。まず、最悪のことを考えた、対策を考えることです。会社が倒産したときに優先されるのは、税金です。次に人件費、つまり労働債権は他の債権に優先して支払われることになっています。

しかし、ない金は払えません。支払えるか支払えないか、支払えるとしてもいくら支払えるかなどのすべては状況次第なのです。ですから、お金があるうちに支払うべきところに支払わなければなりません。また、土地など不動産は、多くの場合金融機関の担保が設定されていますから働く人には回りません。

ですから、経営者と働く人が協調して整理を進めることが大切です。つまり、自分たちでお金が自由になるうちに給与や退職金などの未払いのないように支払ってしまうのです。

ただ、決められた人件費以外に勝手に支払うことは、詐害行為ということになって後で管財人から返還を求められることがあるかも知れません。

一方、会社を売却する方法についてですが、これは会社を買ってくれる人が買いやすいよう皆さんの協力が欠かせないのです。会社を買う人は、設備などの資産もさることながら社員の質や協力体制を問題にするからです。それには、いまどっちが悪いなどと、内輪

もめしている時ではないのです」

皆が真剣になって、質問や意見が交わされるようになって、険悪な雰囲気が少しずつ和らいてきた。

会議は3時間ほどで終わったが、社長は大滝とともに会社の買い手を探すことと、社員はもっと効率の良い経営にするための努力をすることなどを確認し合った。

「先生、私はこんな会合がもっと早くしてほしかったのです」

嶋田が帰り際に大滝に耳打ちをしたのである。大滝は複雑な思いでうなずいた。

「あの野郎、言いたいことを言いやがって・・・」

一方塩田は、ほっとしたのであろうか、皆が帰ったあとで強がりを言った。


先日会った、会社を買いたいという坂東から、大滝に電話をしてきたのはそれから2日後の夜であった。

「あの節はお世話になりました。いま塩田さんに電話をしたのですが、出られなかったので大滝さんにさせて頂きました。近々お会いしたいのですがご都合はいかがでしょうか」

「結構です、あなたはいつがよろしいですか」

「わたしは来週でしたらそちらの日程に合わせることができます」

「分かりました、至急塩田さんと日程を調整してご連絡いたします」

塩田は、大滝の知らせを喜んだ。

大滝と塩田は火曜日の午後1時に新橋駅で待ち合わせをした。コーヒーを飲んでから、坂東に指定された弁護士事務所が入っている駅近くのビルへ着いた。事務所のテナントばかりの古いビルは、静まり返っていた。その事務所は十階にあった。加納法律事務所と書いてあるプレートが貼ってある、ドアを約束の1時30分にノックする。

中から品の良さそうな白髪の老婦人がドアを開いて、招いてくれた。

「いらっしゃい、わざわざお越しいただきましてありがとうございます。どうぞこちらへ」

奥から坂東が迎えに出た。応接室へ招き入れようとしたとき、思い出したようについ立の向こう側のデスクにいた老人の方を向いて「あ、紹介させて頂きます。先生、さきほどお話ししました塩田さんと大滝さんです。こちら、弁護士の加納先生です」

億劫そうにおぼつかない足どりの加納弁護士を紹介された。もう1人40がらみの男が先導するように応接室に入る。2人がそれに続く。ソファに座る。

「紹介します。今回の取引についての法的な手続きなどをアドバイスしてもらう、織田さんです」

「大滝です。よろしくお願いいたします。こちらの事務所の方ですか」

言いながら、大滝は名刺を出した。

「いいえ、私はいま司法試験の準備中でして職場は決まっていません。でも、これまでこちらの事務所をはじめ法律事務所勤務が長かった関係で、法手続きのアルバイトをして食いつないでおります」

弁護士志望にしてはいささか世間慣れしているようだ。

「私もこの事務所の加納先生とは長いお付き合いでしてね、今日もずうずうしく応接室を貸して頂いたのです。ここは、場所的に便利でしてね」と坂東が言った。

「なるほど」とうなずく塩田は、早くつぎの話が聞きたい様子を隠せないようだ。

「早速ですが、私どもの考えている具体的な手順などについてお話しさせて頂きます」と坂東切り出した。

「はい」

「まず、会社の譲渡金額ですが条件付きで6千万円にさせて頂きます。もちろん、すべての負債は当方で肩代わりいたします。ただし、条件は6千万円のうち3千万円は手数料その他の名目で私どもにバックして頂きます」

大滝は、何かあるとは思ってはいたが、そういうことか、と察したが、塩田は飲み込めずにポカンとしている。

つまり、出資者の会社から6千万円出させ、自分たちで3千万円は頂戴しようというわけである。

坂東は、スポンサーである東日本食材開発の目を欺いて、二束三文のぼろ会社を高く買ったうえに、自分の利益を得るためにリベートをバックさせようという魂胆であるらしい。このように胡散くさい方法で手に入れた会社がこれから先うまくいくのであろうか。坂東が出すという1千万円は自分で経営するのだから分かるが東日本食材開発という会社にとって営業権以外はおよそ価値のない会社に大枚5千万円を出すだけのメリットがあるのか。それだけ坂東という男は信用があるのか。

しかし、売る側にしてみれば、そんなことには、関知する必要はないのかもしれない。大滝はこのとき、逆にこの話に信ぴょう性が無いとはいい切れないと思った。それは、会社を買いたいという窓口の人間にとってこの話をまとめれば相当なメリットがあるからだ。とするなら、この話真剣に取り組む価値は充分にある。

「わかりました、私に異論はありませんが社長はいかがですか」と塩田の顔を覗いた。

「ええ、結構です」あわてて、塩田が賛意を表した。

「ありがとうございます。さて、具体的な方法とスケジュールについては、織田さんから説明をお聞きください」

坂東は、そう言って織田をうながした。

「では、私から具体的なことがらをいくつかお話しさせて頂きます。まず現金を振り込んだその日のうちに半分はキャッシュで返して頂くわけですが、これをスムーズに行うために塩田社長名義の新たな銀行口座を設けて頂き、半分はその口座に振り込みます。新口座の通帳と印鑑、キャッシュカードは私どもに預けていただきます。もちろん新たな口座はどこの銀行でかまいません。半分の3千万円は塩田さんがお持ちになっている口座へふりこみます」

織田は、早口で言った後、用意してあった株式譲渡契約書、役員変更のための株主総会の議事録、労働者代表との合意書などに加えて、手回しよく仕入れ先や得意先への役員変更のあいさつ状まで用意しており、それらについて説明したのである。

そして、至急会社の登記簿謄本と過去3期分の決算書を織田の自宅へ送ること、株主である、塩田夫妻の印鑑証明書をそろえておくよう要求した。

そして、次回の打ち合わせの日時と場所を確認して2人が弁護士事務所を出ようとしたとき「あ、それに決算書は私どもの手で多少の改ざんをしますのでお含みおきください」と織田がいった。

「承知いたしました」塩田がいった。

塩田は、帰りの道すがら会社の譲渡が現実味をおびてきたことで、いささか興奮しているようである。「先生今日のことを社員に話してもいいでしょうか」

「いや、もう少し確実性が増してからの方がよろしいのではないでしょうか」

塩田は、やや不満の表情を見せながらもうなずいた。


大滝と塩田は坂東たちと新橋の弁護士事務所で会ってから、1週間後の午後2時に待ち合わせ場所の半蔵門線の水天宮駅近くのホテルのロビーで待っていた。しかし、約束の時間を過ぎても坂東の姿が見えなくてやきもきしていた、10分を過ぎた時大滝の携帯電話が鳴った。

「坂東です。いま青山一丁目です。これから、地下鉄でそちらへ向かうところです。時間を過ぎたのにご連絡できなくて申し訳ありません。事情はお会いした時にお話しいたします。もう少々お待ちください。塩田社長によろしくお伝えください」

「承知しました。気をつけていらっしゃってください」

それから、十五分ほどして坂東と織田が姿を現した。2人は小走りにこちらへやってきた。

「遅くなって申し訳ありませんでした」

汗をふきながら坂東が頭を下げた。

「どうされたのかと思って心配しておりました」

塩田が正直に言った。

四人はホテルにあるコーヒーショップへ入った。

「それが聞いて下さいよ。私たちはいままで青山の会社で新会社の立ち上げの打ち合わせをしていたのですが、いまになって財務部長から横やりが入ってしまいました。会社は五千万円用意したが、私が出す予定の1千万円は用意できないと言うのです。私がこの話を進めてきたのは前提条件として全額会社で用意して、わたしの持ち分の1千万円は私の持つ三軒茶屋のマンションが売れてからでいいということでした。

つまり、私のマンションが売れるまでは、百パーセント会社の金でスタートするということになっていたのですよ。私はそんなことを突然言われても無理です。私にも都合があると言ってやったのですよ。

話は平行線を辿りまして時間は気になるし、ついに私も頭に来てしまいまして、勝手にしろと言って出てきたようなわけなのです」

一気にまくしたててから坂東は、ため息をついた。

「そうですか、なにかいい方法はないものですか」

話を聞いていた塩田の落胆ぶりは相当のものであった。

「ところがですね、偶然というのでしょうか会社を出てすぐ私のマンションの売買の仲介を頼んでいる不動産屋から電話が入りまして、以前から引き合いのあった人から、連絡がありやっと銀行ローンが決ったというのです。ただし・・・」

「ただし?」

塩田は、身体を前に倒さんばかりに坂東の顔を覗き込んだ。

「これも、条件がつきまして、当初頭金なしで銀行ローンを組めるはずだったそうですが、頭金を1千万円用意する、という条件で貸し付けが内定したのだそうです。問題はその金を用意するのに10月中旬まで待ってほしいというのです。社長さん、会社を買うという、この話もう少し先へ延ばせますか」

「いつまで?」

「十月の中旬まで、最悪の場合は私が別の方法で11月までには1千万円を用意します」

「・・・・・」

塩田は、それまで会社が生き残れないことを創造したのか、困った顔で大滝の顔を眺めるが、大滝は知らない顔をしていた。坂東のつぎのセリフを聞きたかったからである。投げかけられたからといって無理に返事を探すこともない、坂東にはつぎの話が何かあるような気がしてきた。それが、何かは分からない。

「社長さんにもいろいろご事情があるでしょう。もし、待てないのでしたらこの話はなかったことにしてくれ、というのもなんですからご提案申しあげます。もし、支払いサイト四カ月、額面1千万円の社長さんの会社のお手形を振り出して頂ければ、私がそれを現金にいたしまして御社を買いとらせて頂きます。手形の支払期日には、わたしがお引き受けした会社が落とします。

そのようなことはないと思いますが、万が一何らかの事情で支払期日までに経営権が私どもに移す手続きが、間に合わない場合は、正味の譲渡金額3千万円の支払いはお手形をお借りした分を含めて4千万円振り込ませて頂きます。これらのことは、すべて覚書を締結させていただきます」

「先生、どうしたものでしょう?」

塩田は、心配半分期待半分の複雑な顔で大滝の顔を窺った。

「社長、ちょっと席を外させていただき相談しましょう。坂東さん、よろしいでしょうか」

大滝はそう言いながら、塩田と坂東を交互にみた。

「どうぞ、どうぞ」

坂東が笑顔で応じた。

大滝の答えは決まっていたが、最終的な意思決定は塩田がしなければならないので、意志を確かめたかったのである。

「先生はどう思いますか」

大滝の発言を待てずにロビーへ出るなり塩田が聞いた。

「私は反対です」

「どうして?」

「危険だと思います」

「危険って先生、この話が壊れたらそれこそ危険ではないのですか」

「その危険はいまに始まったわけではありません。どうも、私どもは足元を見透かされているようです。彼らは手形のパクリ屋だと思います」

「手形のパクリ屋?」

「そうです、詐欺師だと思います。もし、そうであればこの話が壊れてお金が1銭も入らなくても手形は落とさなければなりません。お金がなければ不渡りです。例え会社が売れなくてお金が入らなくても手形は落とさなければなりません。手形はどこの誰の手に渡るか分かりません。そうなったら会社の整理をするにも支障をきたします」

「もし、そうでなかったら?」

「いま確かめます、彼らの気分を損ねて、話が壊れるのを恐れてこれまで踏み込んで調べませんでしたが、こうなったら仕方ありません」

「どうやって?」

「東日本食材開発へ電話を入れます」

「大丈夫ですか」

「わかりませんが、やるしかないでしょう」

いいながら大滝は携帯電話を取り出した。いざという時のために電話番号を調べておいた東日本食材へ電話を入れる。

「もしもし、東日本食材開発さんですか、私は山田と申しますが、財務部長さんはいらっしゃいますか?」

「川内部長でございますね」品のいい女性の声である。

「ああそうです、川内さんです」

大滝は偽名を使った。そして財務部長は川内という名であることがわかった。

相手が電話口に出た。

「川内です。どちらの山田様でしょうか」

「突然恐縮でございます。私はエム・アンド・エーのアドバイザーを仕事としております山田と申します。じつは、最近まで御社の営業部長をされていらっしゃった坂東様から、川内部長様のお名前をお聞きしておりまして、お電話をさせて頂きました。電話で大変恐縮ではございますが、御社でも企業買収をご計画だという話をお聞きしたものですから、その件で一度お話をさせて頂きたいと思いまして」

川内なる男は大滝に全部を言わせず、話をさえぎった。

「ちょっと待ってください。何か勘違いしておりませんか。私は坂東という人は知りません。まして、わが社の営業部長だなんて、そんな名前の人は私の知る限りではいません。もちろん、わが社が企業買収というような計画もありません」

「さようでございますか、私の勘違いだったのかも知れません。大変ご迷惑をおかけいたしました。深くお詫びいたします」

大滝が電話に向かってお辞儀しながら電話を切ろうとした時であった。

「ちょっとお待ちください。思い出しました。そういえば昔営業に坂東幸造という男がいたことがありますが、何かの事情で会社を辞めさせられたはずです」

「そうでしたか、ありがとうございました。失礼いたしました」

大滝は話の内容を塩田にかいつまんで話した。

「うーん、驚きました」

塩田がうなった。

2人は重い足取りで待たせている坂東たちのところへ戻った。

「お待たせいたしました。いま、社長とあれこれ相談しましたが、手形の件今回はないものとお考えいただくことにして、あなたがおっしゃられた11月まで待てるかどうか資金繰りを見てからご返事させて頂きます」

大滝は、当たり障りのない答え方をした。

「そうですか、仕方ありません」

笑顔で言った坂東であったが、目は笑っていなかった。

その後、坂東からの連絡は全くなくなった。

大滝が、何度か電話を入れても出なかった。織田の名刺にあった携帯電話に電話を入れてみたが、応答はなかった。

一度知らんふりして加納弁護士事務所に、坂東が来ないか電話してみたが、あれから一度も顔を出していないと老婦人は言った。話のついでに聞いてみると、先日大滝たちが訪れた何日か前にひょっこり5年ぶりで訪ねてきて、来るが早いか、事務所の応接室を貸してくれと頼まれたというのである。このところ応接室はあまり使うこともないことと、坂東には以前仕事を依頼されたことがあった手前断れなかったと言うのであった。

自己破産しか道はない、大滝と塩田は覚悟を決めた。

潮の屋本店は、本来仕入れ先や銀行に対して支払わなければならない、売掛金を回収したお金で社員の給料や最低限の退職金を払い、残りの金で、かろうじて自己破産の申し立てをしたのである。

塩田夫妻は、夫人の親が遺産として残してくれた、空き家になっていた埼玉県の春日部の古い家で暮らしている。

大滝の仕事としては、あまり後味の良くない仕事ではあった。しかし、その後送られてきた塩田夫人の手紙によれば、一時悪かった塩田の体調も良くなり、元気に暮らしていると言う。そして、法人化した元の営業所からは遅れることなく報酬が送金されてきて助かっていると書いてあった。

最後の一行に大滝に受けた恩は忘れないと記されていたのが大滝の救いであった。


「会社を買う・・・か」潮の屋本店が会社を売ることに失敗して、自己破産をしてから一ヶ月がたった頃である。

知見塾の副塾長菅原康弘は、腕を組んで考え込んでいた。昨夜のミーティングで大滝から思いがけない提案があったのである。このところ多忙な大滝とまとまった時間話し合えたのは久しぶりである。

経営の業績や塾生の成績についての説明と新たな教室を開くための準備と、それに伴う組織変更についての議論が終わった後、大滝がいったことを思い出していた。

いつもながら、大滝の物言いは端的である。

「菅原さん、じつは知見塾を昨年法人化したのは、身売りするときの布石でもあったのです。法人にしておいた方が売る時に会社ごと売れるので何かと都合がよいからです」

「えっ、知見塾を売ってしまうのですか」

せっかくこれまでにしてきた塾を売ろうなんて、菅原にとってはまさに青天のへきれきである。

「そのつもりです、コンサルティングの仕事の面白味も分かり始め、軌道にも乗ってきたし、私のエネルギーのすべてをコンサルティングの仕事に集中したいのです。私はかねがね塾の生徒や父兄に対して潜在的に後ろめたさを感じていたようです」

「後ろめたさ?」

「はい、塾の開業の動機が食べていくためであり、つぎのステップのための資金づくりためであったことです。そのせいかこの頃、私には大切な子供の教育に携わる資格がないように思えてならないのです」

「私にはそう思えません、塾長のこれまでの姿勢や方針が正しかったから生徒や父兄に支持されて、これまでになったのではないでしょうか」

「そう言われるとうれしいが、これは、私の心の問題なのです。仕事の適性とは知識や技術だけではなく、その仕事に命を賭ける覚悟があるかどうかだと思うのです。しかもその覚悟が悲壮感や義務感ではなく、無理なく自然であるのが望ましいと思うのです」

「お気持ちは分かります。しかし、だからと言って身売りしなくともよいのではないでしょうか。現場の仕事は私たちでやっていく自信があります。塾長にはオーナー経営者としてこれまでどおり基本方針や計数管理をして頂ければうまくやっていけると思います。私には知見塾を手放すなんて考えられません」

大滝には、菅原の言葉のひとつ一つがうれしかった。

「でも私には、あれもこれも、できないようです」

「選択と集中ですか」

ややむっとしたように菅原が言った。

「そこで菅原さん、私が考えるに知見塾の経営者にいちばんふさわしいのはあなたです。いや、あなた以外には考えられない」

「わたくしが・・・?」

「ええ、菅原さんの仕事ぶりを見てきて確信しました。この会社、知見塾を買ってくれませんか」

「・・・・・・・あまりに突然で・・・・」

「この際ですから、条件を言っておきます。まず、譲渡価格は、貸借対照表の自己資本で考えてください。会社の10パーセントの株は菅原さんが持っていますからその9掛けでいいわけです。知見塾は資本金5百万円に利益剰余金などの8百万円をたして1千3百万円が自己資本ですから、その九掛けで1千百70万円、支払方法は分割払いでも結構です。回数は月々いくらずつ払えるか計算して提示してもらえれば結構です」

「私はこれまで出資金は出していませんが・・・」

「法人化するとき菅原さんの持ち株を10パーセントにしてあります。その金は私が菅原さんに貸したことにしてあります。これは自己資本を増やすことに貢献してくれたお礼としてさし上げます」

「ありがたい話ですが、妻や実家の親とも相談させてください」

菅原にしてみれば決して悪い話ではなかった。塾生は増えているし5つの教室すべての採算がとれている。

なによりも、この仕事が自分の性に合っているようだ。譲渡価格についても、大滝は自分以外の人間に売るのだとしたら、収益力からみてもこんな金額で売るはずがないかもしれない。

ただ、菅原を躊躇させているのは、大滝とコンビを組んできたこれまでの居心地の良さと、大滝から受ける熱い刺激がなくなることへの寂しさであった。

菅原は、自己資本は年輪であるということをとよく言っていた大滝の言葉を思い返していた。1年ごとに幹を太くすることが、経営者の責任であるという意味は言葉としてはわかっていた。経営の仕方がまずければ、せっかく育てた幹の年輪を減らすこともあるという例えもわかりやすかった。いまにして、その意味が実感できたのである。

菅原は寝付けない昨夜に続き、休日の今日も頭の中はそのことばかりである。

妻の由美子は乗り気である。今日はしばらくぶりで実家へ帰って父の意見を聞いてみようと思っている。


菅原が、大滝に譲渡の話を引き受けたいむねの返事をしたのはそれから五日後であった。それは、銀行へ融資を申し込んだ結果融資の決定の知らせがあった日であった。ただし、菅原の父が連帯保証人になるという条件が付いていた。いかなる場倍も銀行に抜け目はない。

大滝がよくいっていたことばを思いだす。「経営は無理な拡大はするべきではない。少しずつ年輪を太くすることが筋肉質の企業をつくることになる」

大滝の教えを守って地道な経営をしていこう、菅原は自分に誓っていた。


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