テディベアがほしかった
姉の持っていた、テディベアがほしかった。
茶色くて、赤いリボンがついていて、ふわふわのテディベアがほしかった。
私は白いテディベアをもらった。白色で、青いリボンがついていてるテディベア。姉は白がほしいと言ったが、当時5才の私が泣いたら譲ってくれた。5つ年の離れた姉は、お姉ちゃんだからと私にたくさんのものを譲ってくれるのだ。
「いいよ、妹ちゃんにあげるね。だって私のかわいい妹だもん」
それが姉のいつもの言葉であった。
茶色のテディベアを大事そうに抱き締める姉を見て、私は自分の持つ白いテディベアが価値を失ったことを知った。姉のもつテディベアは柔らかそうで温かそうでとても可愛らしく見えるのに、私のはただの無機質な毛玉。
どうしてだろう、私は、姉の持っていたテディベアがほしかった。
「妹ちゃん、お姉ちゃんね、結婚しようと思うの」
姉はとても柔らかい笑顔でそう言った。
姉の連れてきた婚約者はとりわけ大きな魅力もなければ欠点もない、優しそうな普通の人だった。強いて言えば、大きな泣きぼくろがあるだけ。特徴はそれだけ。
こんにちは、なんて月並みな挨拶をして、いい人そうだね、なんて適当なこと言って、私の心はぐしゃぐしゃになっていた。
結婚するといった姉の顔が頭にこびりついて離れない。はっきりと細部まで思い出せないような姉の婚約者のことも離れない。
「お姉ちゃん、おめでとう」
「うん、ありがとう」
幸せそうな姉を見て、私の脳裏には茶色いテディベアがはっきりと映っていた。きっともう、姉はテディベアのことなんて覚えていない。
なぜだろう、私は姉の持つものが欲しかった。
「妹ちゃん、口紅持ってないの?」
姉の白く綺麗な手が私の頬に伸びる。
目を閉じて、という姉の声に従い目を閉じると、柔らかな感触が唇をなぞり、甘い香りが鼻腔をついた。
「妹ちゃんはあまり化粧しないのね。でもね、どんなときでも、女の子の唇は赤くあったほうがかわいいのよ」
ゆっくり目を開けば、姉の持つ鏡に唇を赤く彩った私が写っていた。
「ねぇ、お姉ちゃん。これ欲しい」
「いいよ、妹ちゃんにあげるわ。よく似合うもの」
口紅なんて好きじゃない。
でも、姉の口紅だと思えば不思議なことに欲しくなる。そして、姉よりも私の方がこの赤が似合うと思うのだ。
私は口紅で彩られた自分しか見えていなかった。だから、鏡を持つ姉の腕に紫の斑点があったことも、私を見つめる姉の目がいつもと違ったことも、なにも気づかなかった。
今、私の腕には紫の斑点がある。左手の薬指、指輪が光るその指は骨が折れたのか腫れており、痺れて動かない。
殴られた唇は切れ、血が滲み、まるで赤い口紅を塗ったかのようだ。
私の横に立つのは、大きな泣きぼくろのある男。その男が動くたびに私は殴られるのではないかと怯え、またそれが男の神経を逆撫でし、腕が振り上げられる。
その腕から逃げるようにして、私は洗面所へと駆け込んだ。後ろから男が追いかけてくるが、扉に鍵をかける。そのまま扉に寄りかかるようにして座り込み、震える手で携帯を操作した。
電話の相手はツーコールで出た。
プルルル、プルルル、ガチャ。
「も、もしもし、お姉ちゃん?」
『妹ちゃん?どうしたの』
「あの、あの人、おかしいよ。私、たくさん、たくさん殴られるの、怖い。怖いよ、助けて、お姉ちゃん」
『妹ちゃん・・・』
電話口ですすり泣く私に、お姉ちゃんは優しく、子供をあやすように言うのだ。
『妹ちゃんが欲しいっていったのよ?』
「え・・・」
『茶色のテディベア、本当はほしかったんでしょ?私のテディベアが、ほしかったんでしょう?』
ああ、姉はすべてわかっていたのだ。
「ごめ、ご、ごめんなさ・・・」
『いいのよ。妹ちゃんにあげるわ』
だって、私のかわいい妹だもの。
プツン。
通話が切れる音がした。