驚愕のマジック【4】
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私は深海でふわふわしていた。
奇々怪々な深海魚たちがワルツを踊っている。私も躍らせてもらった。
猫を見つけた。その猫は私の手のひらに乗り、うずくまる。成猫のはずなのになぜかぴったりおさまり、いつのまにか猫はまるでスポンジのように四角く小さくなっていた。しばらく眺めていると起きた。それはもはや猫でなくモモンガになっていた。モモンガはコンクリート塀をするすると歩いて行った。
ふわふわとクラゲに乗っていると遠くの方から声が聞こえる。だけどそれは全く私とは無関係で、だから私は気にも留めない。
今度は内臓がくすぐられた。とってもむずがゆくてうめく。
さらに内臓がくすぐられる。今度は先ほどより強めで少々痛い。どこかでやかんが沸騰を告げる音を出していてうるさい。さらに内臓をくすぐる強さが強まり、私はやむをえず強制的に覚醒する。現実が脳に投影され、代わりに今までいた深海は崩壊し、虚無感が心を支配していく。夢が思い出へと風化してゆく。現実が色を取り戻していく。境界を取りもどしていく。意識が戻ってくる。
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柔らかな橙色の光線が私を包む。目が少し痛い。身体はカチコチで肩が痛い。深海魚たちのワルツが聞こえてくる。入り込もうとしてくる現実を虚無感が疎む。が、現実という刑務官には絶対に死刑執行まで逃げられない、これを受け止めるほかない。虚無感は大きくなりながらもそれ以上の速度でそれは消えてゆく、夢の思い出とともに消えてゆく。現実でないものはいらないと刑務官の支配する心が拒否する。どこかでひぐらしが鳴いている。はざまは徐々に消えゆき、はっきりとした境界線が今できようとしている。
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気が付くと私は机に突っ伏していた。未だに残る虚無感の潮騒を聞きながら私は辺りを観察する。するとそこにはつぶらな瞳があった。黒くて愛想もあり、健気で小さくかわいい瞳……
「ポール君……」
ポール君は私が突っ伏しているすぐ30センチほどのところにいた。そして会釈するように首を動かした―――気がした。
向かいには木村が座っている。
「お目覚めですか。どうです? “例の”鉄塔の情報は眠りながらで取得できました? あなたは情報収拾の仕事があるのですから責務はまっとうしてもらわなければ困ります」 厭味を言うなんて、木村にしては珍しいことだった。 「そう、たとえ大火砕流が来ても自らの愛する人を守ろうとしたポンペイ市民のように」
木村は不敵に笑った。
「ヘンな例え……」
そこまで言ったとき。私は奇妙な感覚に襲われていた。ポンペイ市民の状況に覚えがあった。この会話にもデジャヴを感じた。
そう、私は酷い目にあったのだ。断片的ながら夢の内容を思い出す。少しながら吐き気がした。
夢というのは見ている間は妙にリアリティを感じるけれども、醒めてしまった後は馬鹿々々しくてならないものだ。なぜなら夢と現実を比較してしまうから。夢を夢と言って切り捨ててしまうから。現実と夢を混濁しないように。だから私は思い出すと同時に記憶が薄れていった。酷い夢なのは憶えていた。真っ赤な光景は憶えていた。彼女たちが酷い目にあったことは憶えていた。具体的な内容こそ思い出せないものの。悪夢だったことは憶えていた。
そして私は右手がぎゅっと固く結ばれていることに気付く。そこに大切なものがある気がした。殴られた気もした。右手の中には幾何学的な模様が施された一枚の紙が入っていた。夢で見たものと全く同じだった。
「木村、お前は」 私は木村をにらむが木村は涼しい顔をしている。 「貴様は……図ったのか?」
「すみませんが何言ってるのだかさっぱり」
「もし、図ったのだとしたらお前はとんだ人でなしだ」
「僕は何言っているのか全くわかりませんが、あなたがそういうのならそうなのでしょう」
木村はニヤリと口角を持ち上げた。私は堪らず掴みかかる。それでも木村は笑っていた。
「もし僕が人でなしだとしたら。それは仕方なく人でなしになったんですよ。何の理由もなく人の嫌がることをするほど僕の根性は人でなしじゃないと思いますぜ。それにあなたがどんな夢を見たんだかは知らないけれど、それは夢に過ぎないはずですよ。川田さん。あなたはだんだん夢の記憶がなくなっているでしょう? ならいいじゃないですか」
私は反論しようと夢を思い出そうとするが、ついさっき見たものなのにもうほとんど忘れていた。残ったのは悪夢だったという記憶とこの紙だけだった。
「す、スグちゃん先輩! 落ち着いてくださいっ。と、とりあえず私の愛情たっぷり茶ですっ」 仲介しようと内藤さんが割り込んでくる。 「なかよくが一番ですって!」
樋宮さんも読んでいた推理小説を置きこちらを見て心配そうな目をしている。 「先輩……」
「反省は活かさなければそれはただのネガティブな妄想に過ぎないんですよ」 木村はそう言った。 私は木村を離し、椅子に倒れこむようにして座る。私にはもう言い返す気力など残っていなかった。
私の耳にはたった一匹のひぐらしの声が何度も反響していた。
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私と木村は巨大な「鉄塔反応」があるあの山奥へ、私が未来を体験したその日の夜に向かっていた。私がなるべく早いほうがいいと判断したからだ。
木村はあのトランプ大の紙の調査はもう終わっているらしい。仕事が早いようで何よりだ。
「だが、こんな単純な方法でいいのか?」 私は再び疑問と不安を持ち訊く。
「もっとも良い方法というのは常にシンプルで簡単なものですよ」 木村はなぜか得意げに言った。 「でもまさかねえ。調査結果がああなるとはねぇ。機関へ報告せねば」
私は機関とは何なのかなど訊かなかった。またうざったく白を切るに決まっているからだ。
その小さめの山小屋にに私はデジャヴを感じた。これがそうだという確信があった。それは確かな記憶だった。ここであれが起こったのだ。
私と木村はまっすぐ小屋へ向かう。
扉を開けるとやはりそこにはゴミが散乱し、英語のロゴと虎のマークが印刷されたシャツなどが壁に掛けられていたり棚に収納されていたりした。だが今が夜のこともあって、あの「記憶」の中の部屋の無機質さとは違い、周囲のあらゆるものが闇の中に私に強い敵意を持っているのではないかと錯覚した。
不自然なほど多すぎる部屋を何回も超えていく。そして細く窓もない廊下にたどり着く。その廊下は闇で重く沈み、その先の重厚な扉から漏れ出る赤い光を強調させた。
一歩一歩進んでいく。漏れ出る光は明滅を繰り返していた。木村とはつい何十秒か前に再打ち合わせをしたばかりなのに、間違えようもない単純な計画内容をまた確認したくなった。部屋へ入ったらすぐに行う。そしてようやく扉の前へたどり着いた。
私は少し夢がどんなものだったのか思い出そうとした。だけれどもやっぱり思い出せない。思い出せるのは、真っ赤な世界、泣き叫ぶ私の親しい人、絶望を浮かべる私の大切な人、変わり果てた私のかけがえのない人。覚悟は決まった。
木村は自分の家かのように自然にドアノブに手を伸ばし押す。部屋の真ん中に座り込んでいた男が驚愕してこちらを振り返る。
私はひとつ家から持参したものがあった。その水色をして取っ手のついた日用品―――ただのバケツを私は男へ向かい振る。すると中から水が放出される。男は慌ててあの紙を取り出そうとするが間に合わない。男は頭からもろに水をかぶった。トランプは水を浴びてやわらかくなっていた。男の周りに張りつくされた紙も水で幾何学的な模様がにじんでいた。
「ただ水をかける」 木村は心底楽しそうだ。 「単純明快この上ないですなぁ」
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「なんで先輩私を連れて行かなかったんです?」 魔術師(仮)を捕らえてから一週間たっても樋宮さんは私をねちねち責めていた。 「私だって世界の秘密を暴きたかった……」
部室から見える空は既に黄昏色に染まり、だんだんと紺色が見えてきていた。宵の明星が明るい。
「それは本当にすまない」 私は謝るしかない。樋宮さんと一緒に行くとまた“ああなる”気がしたから。だから私は樋宮さんと内藤さんを連れて行かなかった。樋宮さんは私の様子がおかしいと感じているらしく、私を訝しげに見つめていた。
「お茶入りましたよー」 内藤さんの間延びした声が耳に入り、彼女は私と樋宮さんの前に茶飲みを置いた。今日は木村は来ていなかった。
「ありがとう内藤さん」 私は礼を言う。 「だけどこれポールくんにもできるんじゃないの?」
「彼は」 内藤さんは妙な間を置く。 「私の好敵手です。ライバルです。私の仕事をどんどん奪っていくんです!。しかし、このわたしはそう簡単に倒せるもんじゃないんですよ、ポール君」 内藤さんはポール君を指さす。ただ“人に指をさしてはいけませんよ”という教えを律儀に守っているのか彼女はなぜか四本指でポール君を指していた。 「負けるわけにはいきません! この部活のメイドはわたしなんです! メイドになりたくばわたしを倒してから行きなさい!」 内藤さんは樋宮さんのほうを向く。 「りゅーちゃんも応援してくれるよね」
「どちらも頑張ってください」 樋宮さんは微笑む。
「ええー、わたしを応援してよぉ」 内藤さんはうわーんと樋宮さんに寄りかかる。
「よし、終わったぁ」 私は背もたれに体を投げ出す。上に提出する記事の内容を書き終わったのだ。
「あ、終わりましたか。ご苦労様です」 樋宮さんが私を労う。 「良かったら見せてくれませんか? 私今回の事件全くわかってないんですよ」
「そりゃあ我々が一切説明をしていないからね。記事を見せるのも面倒だし私も恥ずかしいし、口頭で説明する、でいいか? いわゆる“真相”ってやつもたいしたことないし」
「ええ構いませんよ」
すこし経緯を頭の中で整理しながら私は話し出す。 「まずあの鉄塔が東京周辺に配置されたわけはあの男によると東京を破壊するためだそうだ。あの鉄塔が東京を破壊しつくす予定だったらしい」
「ずいぶん東京に恨みを持った人なんですね」
「ああ。だから確実に東京を全壊させようと、東京周辺―――この松城を含めて鉄塔を仕込んだ。破壊漏れがないように」
「目的は破壊だけですか」
「そう理解してもらって構わない」
「それにしても東京を全開させたいだけの理由って何なのでしょう」 樋宮さんは首をかしげる。
「ああそれな」 私は“真相”に苦笑しつつ答える。 「なんでも東京に本拠地のある例の永久に不滅なプロ野球球団を恨んでの犯行だったようだ。彼の贔屓球団は今シーズンから主力選手が何人もその東京の球団に移籍してしまってね。しかもチームの成績もその東京球団との三連戦での三連敗後は急降下して今断トツの最下位らしい」
「冗談ですよね?」
「いいや全く」 あれだけ私たちを引っ張りまわしておきながらそんな理由である。 「奴が潜伏していた山小屋には奴の贔屓球団のグッズがたくさん置かれていた」 山小屋で見つけたロゴとマークが入った一見すると趣味の悪いシャツは野球のユニフォームのレプリカだったのだ。
「そもそも東京にはもう一球団ありますよね」
「そうだよなー。男曰く“巨悪を潰すためには仕方がなかった”そうだ」
「気持ちもちょこっとはわかりますが、そんな理由で東京を壊滅しようとしたなんていい迷惑です」 彼女はぷりぷり起こっている。 「あ、そういえば男は結局“魔術師”だったんですか?」
「木村曰く“そうとも言えるし違うとも言える。解釈次第”だそうだ」
「木村さんらしい回答です」 でも、と樋宮さんは言う。 「なんだかなー、って感じですよね」
私はうなずく。この日もひぐらしが鳴いていたが今日ばかりは鬱陶しくてしょうがなく、私は窓を閉めた。
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下校中どこからか飛んできて電柱に引っかかっていたスポーツ新聞を私はちらりと見た。そこには「早くもマジック点灯!!!」と一面に大きく取り上げられ、そこにはあの男が心の底から憎んでいた球団がマジックを点灯させたことを報じていた。写真は男の贔屓球団から移籍してきた選手の決勝タイムリー二塁打を打った場面だった。私はあの男のことを想い心の中で神や仏や稲尾和久に祈った。嗚呼、かの哀れな男を救いたまえ。
驚愕のマジックは終わりです
驚愕(笑)