てのひら
――きれいなおひとやけど、生臭くてかなわんわ。
煙管の淡い灰紫の煙を吐きながら、ねえさまはあのひとについてしばしばそう評した。幼い私にはねえさまの言う「生臭い」の意味が理解できず、酒臭いよりはマシではないかと小首を傾げるばかりだった。
きれいなひとだった。
私がその「きれいなひと」の生臭い部分を知ったのは、ねえさまの歳もあのひとの歳も追い越した、ずっとずっと後のことだった。
記憶の中の空がとびきり眩しいから、夏の日だったのだと思う。私は洗い物帰りで、たらいをよたよた運んでいた。
「……今日はあいつはいないのか」
門をくぐって開口一番、辺りを見回したあのひとは、私の首根っこを掴んでそう言った。狭くはないこの店先で、よくも私を見つけられたものだ。
「そうどす、ねえさまは今日はおやすみや」
「お前も休みか」
「せや。洗い物がおわったら、今日はおやすみいただいとる」
「……そうか」
思えばあのひとが昼間からここにくるのは珍しかった。背の高いひとを見上げるのはなれたものだが、あのひとはとりわけ見上げなければいけなかった。
あのひとはついと眉間に皺を寄せると、しゃがんで私に目線を合わせた。
「ひゃっ!?」
「なあ」
男だろうが女だろうが、別嬪さんに見つめられるのは緊張する。
肌が滑らかで白くて、月代がきれいだった。ねえさま方のような肌だった。とげとげしている、と思っていた切れ長の目も、間近で見れば自分をまっすぐに見てくれている。顎から首筋の線が、すっきりしてきれいだった。
こんな目で見つめられれば、ねえさまが気に入ってしまうのもわかる。
目の前にきれいなひとがいるせいで、出目金みたいに目をまんまるに見開いて、口をぱくぱくさせる私を見て、ぷっと吹き出しながら、あのひとは次に、こんなことを言い出した。
「外に出してやる」
心の臓が口から飛び出るかと思った。胸のあたりがばくばくとして身体が内からぐるぐる混ぜられるような気分になった。
私はあそこからでてはいけないのに。
「お侍さま、あきまへん、お侍さま!」
しばらくあのひとの無骨な手に掴まれるまま、コロコロと下駄を鳴らしていたが、やがてはっとして声をあげた。
「……うるせえ、目立つだろ」
「せやかて、うちは!」
あのひとはなぜ私が喚くのか心底理解できない、というように、きれいな顔をしかめた。私も訳が解らなかった。
いや、いまでも真意は分からない。
「兄さまだ」
「はい?」
「今から俺を兄さまと呼べ」
往来の端で立ち止まると、あのひとは私の禿頭をじゃりりと撫ぜた。
呆けて口を開いたままの私を、ひどくやわらかな目つきでみていた。
普段はねえさまねえさまと呼ぶことが多いし、私には弟妹しかいなかったから、兄さま、という響きにはいやに甘くこそばゆいものを感じた。
「兄さま」
女童を連れ回すお侍さんというのはあまりにも世間体が悪かったのだろう。仕方なくと言い聞かせて、存外私も楽しんでいた。
あの店から出て、「きれいな兄さまと市中を歩く幼いいもうと」の役を、楽しんでいたのだ。
なぜあのひとがねえさまでなく私の手を取り歩いてくれたのか、それは今でもわからない。ただ、あのひとの手は顔に似合わずごつごつとして、硬くて、刀胼胝があって、温かかった。
茶屋で団子を食べて、きれいな着物問屋を通りがかった。道で芸人たちが踊っているのを見た。
その間ずっと、わたしは「兄さま」に手を引かれていた。
日が傾き始めたころ、兄さまの脚はあの店に向かっていた。夢の時間は終わりかけていた。
「兄さま、あれはなあに?」
「あれ?」
私が指さすほうをみて、兄さまは目を細めた。
小さな屋台に、白い髪のおじいさんが座っていた。手元で何かをいじっている。屋台の手前には色とりどりの透き通ったものがクシに刺さって飾られていた。
「ああ、飴細工か」
「あめ? あれが飴なん?」
「見ていくか?」
「うん!」
きれいなおひとの、きれいなめが、優しく私を見下ろした。私は無邪気なふりをして、禿頭をぶんぶん振った。あのころ私は、飴など滅多に口に出来なかった。ときどきねえさまが、お客さまからいただいた金平糖をくださった程度だ。
そこで飴細工屋に目がとまったのは、なにも珍しさだけではなく、ただ単に帰りを遅くしたかったのかもしれない。
「おやこれは」
おじいさんは白いふさふさした眉毛を垂らして私を見た。年を取っているけど、かえって子犬のようだった。
「可愛らしいお嬢はんと、色男の兄さんやなあ」
日頃「可愛い」などと言われることのない私は、挨拶だと分かっていてもついつい照れてしまう。「兄さま」は何赤くなってんだと私の頭をこづいた。
「お嬢はんに特別に見せたるわ、なにが見たい?」
「なにって?」
「飴細工だって言っただろう、飴で色んな形を作るんだ」
「飴で!?」
そこで私はようやく、店先に飾られた透き通ったものが飴だと理解した。緑の龍や白い鶴は、まるで置物のようで、とても食べられそうになかった。
「そうや、飴や。なんでも作ったるで、ゆうてみ?」
おじいさんは柔らかな西の言葉で私に問いかけた。なんでも、と言われてもすぐに思いつかず、思わず兄さまを見上げてしまった。
――好きにしろ。
兄さまは素っ気なく、唇の動きだけでそう言った。
「……ほんなら、猫がいいわ」
そのとき、兄さまは私の手を握る力をわずかに強めた。兄さまの皮の下にある、硬い骨を感じながら、私はねえさまの白くてふわふわした、小さな手を思い浮かべた。
「猫か、よし、ちいと待っとってな」
おじいさんは皺だらけの顔をくしゃりとさらにしわくちゃにして微笑んだ。その手のなかで飴の塊がぶち猫になるのを、私は背伸びしながら見ていた。
結局おじいさんはタダみたいなお金で飴を売ってくれた。透明なからだに茶色や黒のぶちがぽつぽつ浮かんでいる。これはどういう仕組みなのだろう。猫の飴、あるいは飴の猫を右手に、兄さまの右手を左手に、一番星が赤紫色のそらに出始めた路を帰る。
「……お前も、」
前を見ながら、ぽつりと呟かれた兄さまの言葉は最後まで聞き取れなかったけれど、予測は出来る。
だって私は、それを覚悟して生きてきたのだから。
それからはもうずっと、からんころんと私の下駄と、すたすたぺたぺたした兄さまの雪駄の音が並んでいた。なにを言えばいいのか、お互い解らなかったから。
店の周りにはもう灯りがともっていて、弁柄格子と柳が暗がりに浮いていた。この妖しい色味は、嫌いではない。
「おハル!」
店の裏戸からこっそり入ると、血相変えたねえさまが私を抱き寄せた。甘やかな白粉の匂いがした。
「どこ行ってたん?探したわあ」
「ごめんなねえさま、あのな、」
柔らかな胸に抱かれながら、兄さまが、と続けようとしたとき、私は自分の手がねえさまを抱きしめ返していることに気付いた。右手に猫はいたけれど、左手は、もう兄さまから離れてしまっていた。
慌てて振り向くと、あのひとはもう通りの角を曲がるところだった。
私があのひとを見たのは、それが最後だった。いつの間にかあのひとは、あの店に来なくなっていた。
きれいなあのひとが生臭いのは、まとわりつく血のせいだと幼くはなくなった私が知ったのは、都が焼けてのちのこと。きれいなあのひとが来なくなったのは、北へ北へと向かったからだと知ったのは、 御維新のあとのこと。
けれどあのひとの手は温かくて優しくて、まさしく「兄さま」のような手だったのだ。
私は今まで誰の手にも、あの兄さまの手ほど「男」を感じたことはない。力強く張りのある肌と、硬い骨と、ざらついた掌。優しく強く、愛おしそうに、脆いつなぎ方をしてくれる手。男の手だった。
なぜあのひとが最後に手をつないでくれたのがねえさまでなく私だったのか、それは今でも解らない。私にわかるのは、あれは紛れもなく「兄さま」の手であったこと、ただそれだけだ。