7.to be free
「昔クリアしたテレビゲームのさ、」
「……」
「戦闘シーンのBGMが頭ん中で流れてんだ、さっきから」
今から緊迫度マックスで逃亡劇を始めるぞって瞬間に、そんなどこか間の抜けたコメントが聞こえてきた。そういう奴だって分かっていたつもりだったが、どうやら俺の解釈は甘かったらしい。
「千代、リプレイは出来ないんだぜ」
「おっ。ウマイこと言うね相棒!」
なんだそのテンション。
シリアスモードになっても千代はキャラを崩す気はまるでないらしい。
「今日は満月だよね」
相変わらず不親切な話し方だな。どうやったらゲームから月の話になるんだ。
「ああそうだっけな」
「雨は降りそうにないね」
「…ああ、そうだな」
だから。
「脱出成功したらさ、」
ああ。
「ガラス越しじゃない月が見れるよね」
なんかもうゲームとかBGMだとかウザイこと言いやがる、なんて、一気に飛散してしまった。
それがお前の望みか。
儚い。
予定通りに事が進めば、俺たちは6時間後には外にいて、自由の身だ。なのにたった360分先の未来に描いているのは月の光だけ。何を望んで良いかなんて、結局のところ俺にも千代にも分かったもんじゃない。
閉ざされた十年。諦め方が上手くなった代わりに、欲しがる方法は思い出せない。
だけど。
「うわーめっちゃ楽しみだなー。いいなー満月」
これだけ能天気に手放しで喜ばれると、それで良いという気がしてくるもまた事実。
「気楽だなお前は」
「まあねー」
曖昧な声のトーンと伸ばされた語尾が、一層緩さを強調する。
「なんか…、平和だな」
実際の状況は全然平和じゃないのに、それどころかこれから対極を味わうのに、なんだってんだこの緊張感の欠片もない空気は。
「いいね一人じゃないって」
いつも通りのくだけた言い方で、会話が噛み合っているんだかいないんだかの返事が紡がれる。いつも通りの言い方で、でもそれがいつもより真剣な意味を含んでいる事には気付いていた。
「千代、もし…」
「良くない方は聞きたくない」
だが生憎俺は、脱出が失敗する可能性に目を瞑ってそのまま実行出来るほどお気楽じゃない。
「聞きたくないなら耳でも塞いどけ。俺は勝手に話すから。けど後で聞いてなかったとかって恨むなよ」
「…なんだよそれ。聞くしかないじゃん」
千代は不貞腐れながらもどうにか聞く体勢を作る。
「手短に話すぜ。そろそろ時間だからな」
「出来ればカットしてよ。俺が聞きたくないこと分かってるだろ」
「二人とも失敗の可能性をか?それとも」
「後者」
言い切る前に即答された。それはどちらか一方だけが逃げ切れない状況に陥る可能性だ。有り得ないとは言い切れないことだ。なおさら今話しておかなければその時右往左往して結局共倒れだなんて、そんな馬鹿馬鹿しい事態を招きかねない。
「はっきり言うぜ。お前が逃げ切れなくなっても俺が行けそうだったら、俺はお前を切り捨てる。だからお前も俺を顧みたりするな」
「冗談だろ」
「冗談に聴こえるかよ?」
挑発するように笑い飛ばしてやった。
苦虫を噛み潰したような顔ってこういうのをいうのかと、千代の表情を見て思う。だがその不満を汲んでやるつもりはない。
「行くぞ。時間だ」
立ち上がってガラス戸に手をかけて。ゴーサインを出した俺の声は、まるで業務連絡のように硬かった。
―ああクソ、思ってもいない事を言ったせいだ。
「瞬」
凛として一点の振れもなく俺の隣に千代が並んだ。
「今の聞かなかったことにしとくよ」
俺を一瞥もせず、千代は硬化ガラスの先を見つめながらそう呟く。
「馬鹿が。前半はともかく後半は聞いとけ」
吐き捨てるように了承を強制する俺を、千代の視線が掠めた気配がして、その後肩を叩かれた。
「―んだよ、」
苛々と向き直ると、千代が人の悪い笑みを浮かべていた。
「失言。馬鹿だなー瞬」
へらっと気安いコメントを寄越して、そこには失笑さえ交っている。
「、なにがだよ」
何が面白いのか、笑いを堪えている千代の顔に心底むかついた。
もう知らねぇ。話を続けるのが面倒になってドアを引き開ける。ガチャンと、始まりを示す音がした。ロックの解除コードをホストコンピュータに潜り込ませたのは一時間も前だ。この調子なら他の解除コードも上手く回っているだろう。幸先良い徴候に少し機嫌が浮上した。
「あのさー、」
勘弁してよ、とでも続きそうな千代の切り出しは、気怠げに俺を引き止める。
「前半は『俺が切り捨てられる話』。後半は『俺が瞬を切り捨てる話』。で?前半はともかく後半は聞いとけって?後半の方が重要?それどういう理屈だよ。どうせさ、」
失言、って。
「瞬はさぁ、人を足蹴にしてクールに決めれるほど器用じゃないじゃん」
それか。
「見捨てる気がないならわざわざ言うなよあんなこと。それよりかさ、『俺はぜってー見捨てないから、千代、お前も俺を見捨てるな!』とか良いと思わない?」
…全く思わない。
「ダセェ」
「あー…、うんまぁちょっとダサイね。ないね。格好悪いね!」
いやお前そんな力強く認めて良いのかよこの流れで。俺もムスッとしてれば良いのに千代の話の行方が心配になってつい気を抜いてしまう。
「だろ、格好ワリー」
丁寧に相槌まで打って。
「まあでもこの際格好とか置いといてさ!」
ー強引だな!
華やかな笑顔と短絡的な結論に張り合う気も失せた。
「一緒じゃなきゃ意味ないんだよ」
「気持ち悪ィこと言うな意味ならあんだよ俺にはな」
一息に言う。そうだ。意味はある。
「二人して脱出失敗に終わるってのが、一番意味がねぇ」
嘘だ。
意味ならもう。充分過ぎるくらい。
「なぁ、千代。今ここにいるのがお前で良かったと、俺は思ってる」
「え、あ、どうも…。いや別に、てゆーか、あーえっと俺もそうだけどキャラじゃない事言うなよ、真剣照れるし、なんでだよ」
「お前に会ったから、俺はまともに生きてみる気になったんだ」
「いいってもう。ありがと分かったよ」
自分は当たり前な顔で似たような台詞を吐くのに、言われるのは居心地が悪いらしい。目を合わせようともしないで制止の素振りを見せる。
「けどそれとこれは、別物だ」
違う。同じだからこそ。
「別物?」
「このガラス戸の向こうは、感情論に足下を掬われて楽観視できる状況じゃないから」
「つまり?」
「逃げれる時は逃げろ。絶対に振り返るな」
千代が溜め息をつく。
「瞬は瞬でしかないってことだね要するに」
大方外れてはいないが理解して欲しいのはそこじゃない。
「平行線だよ、瞬」
「なにがだよ」
「俺は俺が信じた通りに行動する。逃げたきゃ逃げるし、…そうじゃないなら留まる。瞬だって、そうだろ」
「―…」
言われるまで、気付かなかった。
無理にでも、千代だけでも逃がしたいのは、俺の我侭でしかない。
そんな簡単なことに。
「俺にも選択権があるだろ。俺の未来なんだから」
静かな口調で千代が言う。
「俺は自分を欺いてまで逃げる真似はしたくない。自分を責め続けて生きなきゃいけない未来なんて欲しくもない」
―同じことを思っていた。1ミリの狂いもなく。
―“後悔したくない”。
「脱出に失敗するより、切り捨てるなんて行動をとる方が、きっと後悔する」
そうだろ。千代の目がそう訴える。
共感してしまう為に返す言葉がなかった。
「俺の未来は俺に任せてよ」
逃げろ、なんて言わずに。
「…ああ、そうだな……」
千代にとって良いだろうと思った事は、つまるところ俺に都合が良いだけの話だった。とりあえず千代さえ逃がせれば、最低限の満足は得られる。
とりあえずアイツは逃せたんだから。と。
とんでもなく利己主義な言い分だ。それを千代が迷惑がるなら余計に。
「もうなんも言わねーよ。悪かったな」
信じれば良いだけなのか。ただ。
そうやって、ふわりと笑う真実を。
「じゃ、改めて、行くぞ」
「了解」
ガラス戸の一枚目を抜けて、仰々しく備え付けられた二人分の防護服を視界の端に収めた。恐らくこの先、誰も袖を通しはしないだろう。
そして二枚目の扉。何もないただの通路。一枚目と三枚目を隔てるこの空間は、「隔離」という言葉を嫌でも思い起こさせる。埃一つ落ちていないせいでこの体積何立方メートルだかの空間は、空間として存在する事にこそ意義を持っているのだとうざったくも主張する。感染者と正常者の間に、一体何億の原子分子が介在しているのか。どれだけの空気の層で、俺たちと他者を隔てているのか。あくまでフラットなこの通路は、それ故に遠い距離を物語る。その重たい空気の層を自らの足で蹴散らして行くのは、快と苦の両面を会わせ持っていた。
施設の設計者は、何を思っていたのだろう。届かない世界を見せつけるようなガラス扉。進むほど自由に近付く気がする一方で、何か知りたくもない感情が渦巻いているのを感じた。しかしそれも束の間で、俺たちは三枚目の扉の前に行き着く。掠れたアイボリーの、色の割に随分重量のありそうなその扉。
「開けるぞ」
「オーケー」
不敵な笑みと共に千代が短く返事をする。俺は自然と口角が上がって、ついでにゾク、と体が脈打つのを感じた。
ゲームのBGM。
確かに似ていた。
これは、ゲーム。大丈夫だ。いける。
―楽しめる。
まさかそんなことを思うとは予想もしていなかった。もっと悩んで頭の痛い思いをしながら逃げなければいけないと。そんなのは払拭されて、さっさと飛び出したい衝動に駆られる。
ガチャン。
ガガ…
豪快な音を立て、本来なら全自動で開く扉を力任せに押し開ける。わざわざ強烈な口火を切るのは、今から逃げるという合図だ。
さあ来いよ。鬼ごっこをしようぜ。
運悪く扉の前の警備を担当していた奴のぎょっとした顔は笑えた。現状が理解出来ないからかひたすら凝視に凝視を重ね、声も出ず、といった風情だ。
「あっ、どおも。感染したらごめんね!」
千代がしれっと言い放ってその後の警備員の反応に吹き出しそうになった。
そりゃあ感染する可能性があると信じてればあんな反応もするか。
バタバタしているだけで100パーセント無駄な動きだ。おまけに「ぎゃあ」とか「わあ」とかおよそ人間らしくない言葉の連続で、たまに聞き取れても「そんな」、「いやだ」、「そんな」と端的な台詞が漏れるのみ。
―人が悪いぜ、千代。
当の本人はにやりと俺に目配せしただけで、別段悪びれる様子もない。軽い足取りでひらりと先へ進んでしまう。警備員を気の毒に思うが「感染しない」と言ったところで何の効果が得られるでもなし、そもそも俺の言葉を聞き取る余裕すら欠いているだろう。
―まあ発症しないのは時間が経てば分かることだし。
数時間か数日、死の恐怖に怯えなきゃならないのは、俺たちのこの十年と照らし合わてチャラにして欲しい。
千代の軽い身のこなしが臆することなく前方へ向かって行って、その後ろ姿を捉えながら俺は監視カメラの位置をチェックしていく。カメラはハッキングした位置関係通りに設置されていて、―ああ今千代はカメラに捕らえられたはずだ。続いて俺も。これが駆け引きの第一段階。どこに向かっているかをモニター室に教えてやる。
(瞬と千代、今すぐに止まれ)
施設内に放送の声がかかった。
―止まるか、ばぁか。
止まる気配のない俺たちをモニターで確認してか、再び同じ台詞が耳を突く。
(繰り返す。瞬と千代、今すぐに止まれ)
―一辺倒か。芸のない呼びかけだな。
放送を無視して走る先は、この施設のセキュリティー統括本部。一番人員も多く、守りも硬いその部屋は、俺たちと外の世界を決定的に隔てる壁だ。それを突破しなければ大地は踏めない。
(停止しろ。瞬。千代)
俺たちの行き着く部屋に思い到ったらしい声が、ただの苛立ちと呼ぶにはいくらか度を超した口調で言い放った。
停止…。
まるで人間扱いされていない。
自分の唇が嘲笑の形に歪む。
―ヘタクソ。
そんな事を思った。俺たちを止めるには浅はか過ぎる台詞だ。逆なでする、とは気付かないのか。
(今停止すれば咎めない。なかったことにしよう)
―ハ。
咎めない…か。つまりこの行動が“罪”か。
俺たちが施設の外で呼吸をしたいと思う事は、なかったことに出来る程度の話か。
しかし怒りより先立つ感情があった。
「ラッキーだね」
千代が余裕の笑みで振り返ってそう告げる。それは推測が確信に変わった瞬間だった。
「ああ」
―奴らは、俺たちを対当に見ていない。あの話し方は明らかに自分達の側が有利だと信じているものだ。その驕りは隙になる。
どうせ逃げられやしないとタカを括っている。セキュリティーは万全で、まして警備の人員も普段の倍以上。大方『間の悪いときに脱走したもんだ』とか呑気に構えているというのが関の山だろう。現状の過信。責任が分散されれば注意力も散漫になる。
「正面突破するぞ」
「all right!」
「日本語使え」
こんなときまで…と睨み付けかけた動作も、千代の浮き足立つような少し紅潮した笑みにかち合って消滅した。
「…落ち着け千代…」
走りながらじゃなければ溜め息の一つ二つ漏れるところだ。
―こっちまで冷静さを欠いたら結局プラマイゼロじゃねーか。
「うんごめん!」
ごめんじゃねぇよ。全然落ち着けてねーじゃねーか。
「気張り過ぎ…」
「瞬はクールすぎ」
はしゃいでいると形容して差し支えない千代の弾んだトーンに調子が狂う。
「冷静に越した事ねーだろ」
千代の返事を聞く前に、機械の作動音が耳に届いた。
「何の音?」
千代が前方後方ひと回りをぐるりと見渡す。
「手動のセキュリティーを作動させたんだろう。気合い入れて走れ」
詳しい説明をしないでも一秒後には何が起こるのか分かる。
「うわ。趣味わる」
千代にかかると「趣味わる」の一言で一掃されてしまうそれは、言う間でもないが決して趣味で作られたものではない。目測10メートル強の感覚で通路が遮断されていく。シャッターなんて可愛らしいものでじゃない。壁の上下から、規則的に並んだパイプのような突起物が出現して、それが互い違いに合わさっていく。
「檻じゃん」
見たままを千代が呟いた。
「いいから行けるとこまでは止まるな」
大層な仕掛けであっても今まで一度だって使う機会はなかった代物だ。いくら10メートル毎に設置してあっても肝心の操作がマニュアルではスムーズな作動は難しいだろう。それを裏付けるように檻の形相を示している場所はもう遥か後方だ。前方の天井と床を見る限り、同じ仕掛けが埋まっているのはほぼ間違いないだろうから、それが動かないのは単に操作者の不馴れが原因だろう。
俺たちが通路を走り抜ける時間と、操作完了までの総合計の時間を算出できていない。ぎりぎりで行く手を阻む筈が、ただ俺たちの後追いの遮断に留まっている。
―けどそろそろ…
止まるなと言った手前多少気まずい気もしたが、一秒を争うから何も言わずに千代の腕を思いっきり引いた。
「うわっっ」
反動で千代の実際の体重以上の力がかかって、俺も千代もほとんど同時に尻餅をつく。
「―っ!なに…」
なにするんだよと言いかけた千代が言葉を呑み込んだ。
目の前の檻が、すごいスピードで閉じられたからだった。ゴウンと腹に響く音が通路を揺する。あのスピードで閉まるその渦中にいたら、上からと下からのパイプに巻き込まれるのは必至だったろう。その最悪からは逃れたが結局俺たちは檻に行く手を阻まれる結果になった。かといって引き下がる気もないから、すぐ後ろのまだ閉めるかどうか考えあぐねているような檻が閉じられるのも時間の問題だろう。要するに俺たちは10メートルそこそこの通路に閉じ込められたということだ。
「ありがと、…って、これ…殺す気かな」
あのまま千代の腕を引かなかったら、そうなっていた可能性がないとも言えない。
「串刺しか。シュールだな」
それでもこの方が、にこやかに送り出されるよりよっぽど真実味がある。
―現実は、そんなもんだ。
「シュールじゃ済まないって、やりすぎだよ」
呆れを通り越してマイナスまで下がった千代の声は幾分か冷たい。確かに目の当たりにすればその『やりすぎ感』は否めない。否めないが、想定はしていた。逃がすくらいなら、死を。感染者の存在を明るみに出すくらいなら、たった二人殺すくらい……。
感染者である俺たちがわざわざ自分は感染していると吹聴するのもおかしな話だが、ごく僅かでも不安要素があるなら摘んでおきたいというのがお偉いさんの見解だろう。かなり不本意だが、俺はそれが理解出来る。本質的に俺も合理主義者だからだろう。社会の滞りない循環のために、黙殺すべきものがこの世にはある。その一つが俺たちだっただけのことだ。国内だけならまだしもグローバル化が謳われて昨今、脅威のウイルスを蒸す返すのは他国の目を意識しても封じておきたい痛手だろう。
そこまで考えて、ふと思い出す。
あのメールのやり取りは、海外とだった。
―それは。
「ついに閉じ込められちゃったね」
千代の声で現実に引き戻された。振り返れば背後2、3メートルのところで、規則正しい間隔を開けて床と天井を繋いだパイプが鈍く光っている。
マズイ。
「瞬?」
「ああ、…」
迷いが生じている。
本当に、逃げて、良いのか。
「どうした?」
俺は何か大事なことを、見落としているんじゃないのか。