2.瞬と千代
「せんせぇ俺を殺す気はないの」
―。
「せんせぇだったら俺を逃がすってのはどぉ」
―。
決まりきった独り言。
「…出たいか」
少年の予想を大幅に裏切って、白衣の男が答えた。
一瞬少年は目を見開いたがすぐに表情を戻して口元に笑みを浮かべる。噛み付く様な笑みを。
「そりゃあね」
「十年か……長い事閉じ込めてるよな。正直閉じ込めてる側の俺も疲れたよ」
腹の底を重い物が這う。このパターンなら無い方がマシだ。
「そろそろ殺すか逃がすか決めねぇ?」
「そうだな。殺すのは寝覚めが悪いから逃がすか」
「その気もねぇのに言うな胸クソ悪ィ」
無い方がマシな不毛な会話。
―いやそもそも会話を求める事が間違いだ。
「出たいって言うなら出してやってもいい」
白衣の男の言葉に少年の笑みは深くなる。
「他に感染しない保証でも見つかったかよ」
まるで自分が全ての傍観者だと言うように。
「いいや」
この世の全てを嘲るように。
「だったら、クスリが出来たか」
「いいや」
―ふざけんな。
「それで俺を外へ出すなんて無理な話だろ」
逃げられない理由を自ら告げる。
―俺がそれを言えば満足なんだろ。狂ってるぜあんた。こんな仕事してりゃあ捌け口が欲しいのも分かるけどよ。
「お前が六万人の命の重みを知っていて良かったよ。逃がしてまたあの惨事が繰り返されると思うとぞっとしたが」
―六万だろうが何万だろうが他人の命に興味なんかねぇ。
少年は笑う。
「あんたは何にも分かっちゃいない」
―俺がここに居る理由。まさか本当に出られないとでも思ってんのか。
三食飯付き。労働を強いられる事は無い。生きるのに不便は無い。だからこそ「生きている」気がしない。気を抜けば腐っていく確信があるこの檻。
―いい加減逃げるか。
煙草を燻らせながら片隅に落ちたそれが「現実」への唯一の感情。
煙草も酒も簡単に与えられる。いくらでも。この場所から出る以外は大抵が叶う。それが少年には『そのまま壊れてしまえ』。
そんな意図を含んでいるように深く刺さる。
―六万が何だよ。俺は何なんだよ。
誰かに敵意がある訳じゃない。恨みも憎しみも無い。自分の置かれた状況を不条理だと思っても、その意味や理由まで否定する気はない。
―分かってる。俺一人閉じ込めときゃ丸く収まる。分かってるよ。
他人の命に興味はない。誰が死んでも構わない。哀しくない。だけど。
俺が、殺すのは。
ここから出るのは簡単なんだ。
出口なんて見つけなきゃ良かった。
魔が差して出たとして、
何の意味があるのだろうか。
殺人犯になりたい訳じゃない。
自由になりてぇよ。
生きている、実感が欲しい。それが無理だっていうなら。
もう、いいから。
「殺せよ」
冗談でも挑発でもないありのままの言葉。
狂う前に消してくれ。もうそんなに待てないんだ。
―六万のリスク。道連れに派手に死ぬのもいいかもな。
そんな事さえ考えてんだよ俺は。危ねぇって思う。自分でも。それでもそれが現実になりそうで恐いんだよ。早く。
「殺せ」
俺が理性を繋いでいるうちにこの世から消してくれ。
「言っただろ。殺すのは寝覚めが悪い」
ああ、いい加減にしてくれ。
「そういう事は考えるな」
溜め息混じりの、白衣の男の声がどうしようもなく耳障りだ。
「…殺すのが嫌なら楽に死ねる薬でもくれ。呑んでやるよ、今ここで」
そう吐き捨てる。
―全てが面倒くさい。
白衣の男の口元が静かに緩んだ。
―そうかよ。
自殺を望んでたのかよ。
―あんたも馬鹿だな。もっと早くそうだと分かってればこんなに縛られずに済んだものを。
あんたは俺に、俺はこの世に。
「相変わらずの堕落主義だな。瞬」
明らかに弧を描いた唇が、笑みをそのままに俺の名前を呼んだ。カウンターをくらう、というのか余りの驚きで自分の体が固まるのが分かる。「凝視する」ってのはこういう事か。
―何で呼んだ?
今確かにシュンと。
俺のいつに無い無防備な反応に満足したのか男は遂に声を出して笑い出した。
―何だ?これから死ぬって奴に向かってウゼェ。
残っていたともいないとも言えないような生に対する未練がきれいさっぱり消えていく。むしろさっさと死にぇ。滑稽な話だ。
「瞬」
呼ぶなクソヤロウ。
「死ぬな」
「は?」
男の一言が、知らない国の言葉に聞こえた。
「実は感染者の生き残りがもう一人いるんだ」
続けて紡がれる理解しがたい台詞。
「……なに言ってんだてめー」
「お前と同い年だ。会う気はないか」
「生き残りは俺一人だってずっと言い続けてたじゃねーか」
―一体何考えてんだ。それも今更。
「向こうが優等生でお前が問題児だから上の連中がごねてたんだよ。接触させるべきじゃないってな」
「だからなんで今更」
「今更、じゃないんだ。これでも今まで接触出来るように手を回してきてたんだぜ」
俺に向かってにやりと笑い、男は「俺だって情くらい湧くんだよ」と放ってくる。
―意味がわかんねー。
「つか…。その生き残りの奴が優等生で問題ねーなら俺も接触なんかしない方がいいと思うんだけど。あんたの上司懸命だな」
素直に認めてやる。実際そうだ。揃って脱出なんかしたら大事だ。隔離しといた方が良い。
「あのなー。好意を素直に受け取れよ。同じ境遇の奴と話せるんだぞ?」
この男こんな奴だったのか…。今の今までまともに話した事なかったけど。愕然とする。
「それよりてめーが冷静になれ。すげー危ねぇ」
思い出した煙草の存在を主張しながら煙を混ぜて吐き出す。わざわざ言わなくても良い事だが、実際俺の本心でもあるから仕方ない。それを受けてふうっと男は一息ついた。
「冷静すぎるんだよ。お前は。客観視ばっかしてるからいっそ死んじまった方が楽とか思うんだよ」
「はあ?」
「第三者の意見なんか聞き飽きたっつってんだよ。瞬がどう思ってんのか聞いてるんだ」
―俺が?俺がか。
「……せんせぇさあ…。真正面から受けてたら耐えられない事とか、ないわけ?客観的に見てやっと納得出来る事とか。渦中で身を裂く思いするくらいなら総体的な理論に委ねた方がまだマシとか」
男が眉間に皺を寄せる。何で俺はこいつにこんな話してんだ。
「今まで客観視して自分を繋いできた俺としては、自分の感情は殺すもんって持論があんだよ。あんま甘く見んな」
「お前がそれだから接触させたいと思ったんだよ」
「…駄目だもう喋んな無駄だ。噛み合ねー」
「そうは言っても千代は『会いたい』って言ったから連れてきてるんだ」
―千代?
「あ?ふざけんなっ…」
言葉に詰まる。ガラスの向こうに、宇宙服の様な「感染防護服」に身を包んだ少年。外界から自身を守るためではなく外界の自分以外を守るための防護。
「…―そいつが…?」
男が紹介をする前に、その少年は世の中に何の不満もないと言うような穏やかさでふわりと笑った。
「初めまして、瞬」
こいつが、感染者。もう一人の。優等生だって言う…。俺と同い年?幼い顔…。
「てゆーか重っ」
俺の観察を完璧に無視して「千代」と呼ばれた少年はずかずかとガラスのこちら側に入ってくる。
―誰が入っていいっつったよ。
ずかずかと入ってどかどかと防護服を脱ぎ捨てる。音からして相当重量がある事が分かる。
「大げさなんだよね。空気感染はしないって言ってるのにマジで重いこれ」
やれやれと自由になった体を軽そうに動かして俺を見る。防護服の下はTシャツにジーパン。それからいやに明るい茶髪。
正直拍子抜けだ。
「俺、千代。なんか作者の因縁感じるよね。千代って『永遠』って意味なんだって。で君が瞬でしょ。
『一瞬』の瞬。浅はか極まりないよね〜」
はははと笑って自己完結的に喋る。生憎答えてやる義理はない。そもそも言ってる意味がわかんねー。
本当にこいつ俺と同じ境遇で生きてきたのか?
「問題児だって聞いてたんだけど」「俺の想像と違う、瞬」
ああその言葉そっくり返してぇ。
「俺今まで話し相手いなくてつまんなかったんだよねー。周りオッサンばっかだしさ。だから会いに来たんだ」
そう言ってへらっと笑う。
―…なんか。うざいんだけど。
「そんなあからさまに迷惑そうな顔されるとさあ、……」
そっか顔に出てたか丁度いい。早く出てけ。
「いっそ面白いよね」
ははは。
―ちょっと待て仮にお前が面白いと感じるとしても俺は違う。まず同意を求めんな。
「ねー瞬」
「うっせぇ馴れ馴れしく呼ぶんじゃねぇ。…俺は会いたくねーっつったんだよ」
不毛だろ。
「ええ?孤独を愛する派?渋…」
「ちげーよ!」
「じゃ何。感染者同士積もる話だってあると思ったのに」
なんでこんな軽いんだ。くそ、苛々する。
「話なんかねぇ」
「あるって。少なくとも俺には」
「近寄んな俺は馴れ合いなんか求めてねー」
初めて沈黙が訪れる。
傷付けたか。―けどそれが必要だ。悪ィな。
「そのままそうやって孤独を守って死んでくつもりなの」
驚いた事に真面目な声音で聞かれた。なんだこんな声も出せるのか。真剣に馬鹿かと思ってた。
「要らねー罪は背負いたくねぇ。一人なら諦めるのも簡単だ」
一人なら未練なんか持たずにいられる。面倒くさい事はしたくねぇ。
「ふうん」
呆気無い返事だった。分かったのか分かってないのか。
「でもさぁ」
分かってないな……。うんざりする。でも、って何だ。
「俺暫くここで生活する予定なんだけど」
………
「はぁ!?」
「だって感染者の輸送なんてそう簡単に出来るもんじゃないしさ。ここに来るのだって手続きとかなんかで半年はかかったんだよ」
「―っここって……ここか?」
「そうそう」
―冗談じゃない。
「何とかなんねーのかよ?」
「無理。瞬が拒否るとか誰も思ってねーもん」
何だそれ…。
追い出す訳にもいかねー。俺が留まってもこいつが外に出たんじゃ意味がない。大げさだと言いながら防護服を纏うくらいだからウイルスを巻き散らかす気は全然ないらしいが。
一つ舌打ちをする。その舌打ちが“了承”を物語る。
こうして頼んでもない共同生活が始まった。