第二章
第二章 ―来る逢瀬は仕事寮で待つ
秋も深まり、昼は暖かいというのに夕刻は冷え込みが厳しくなってきた。
そんな寒い中で床についた筈だったのだが、朝目が醒めようかという頃になって部屋の中が暖かい事に気付いた。
不思議に思って体を起こそうとすると、鈴を転がしたような心地よい綺麗な声が咒音の行動に制止を掛けた。
「まだ朝餉の支度が整っていたいので、もう少しお休みください」
「…有難う」
まだ開けきらない空の下、寝惚けたままに起き上がったせいもあってか少しふらついてしまった。
そんな咒音の背中を手で支え、晴明の式神らしい“依子”はゆっくりと布団に寝かせてくれた。まだ温もりのある布団に体を滑り込ませると、依子は朝餉の支度が終わったら起こしに来ると言って背を向けた
こんなに立派な布団で寝るのは初めてだった為、咒音は厚意に甘えてもう一度眠りについた。
それから半時が過ぎようなという頃。微睡みの中に居た咒音の耳に、些か可笑しな音が入った。
人の足音とも違う、かといって狐でもない不思議な足音。
それと一緒に聞こえてくるのは、昨日のうちに特徴を掴んだためにすぐにわかるが、これは晴明の足音だろう。
奇妙に思って体を起こすと、先程出ていった依子が咒音を起こしに来たところだった。
目が覚めましたか。そう言って微笑んだ依子は、どうやら昨日の丑三つ時より後に置かれたらしい火鉢を咒音の近くまで持ってきた。
「桜の薫りはお好きですか?」
懐から小さな袋を取り出した依子は、炭で出来ているらしい香木を火鉢の燻る日の近くに添えた。
少しするとその香木にも火が移ったらしく、部屋の中に甘い桜の薫りが漂い始めた。
心安らぐその薫りに頬が緩み、出来ることならこの薫りをずっと身に纏っていたいと思った咒音。
ふと横を見れば、狐が持ってきた紙切れに描いてあったような美しい桃色の打ち掛けが掛けられていた。
高木の近くにあるため、時期にこの打ち掛けにも薫りが移るだろう。
「この打ち掛けは…?」
「それは今日からお前が着るものだ」
依子との会話とこの桜の薫りに気を取られてすっかり忘れていたのだが、そういえば先程からこの部屋の入り口付近で晴明の気配があった。
彼の足元には、先程の奇妙な足音の原因と思われる動物が礼儀正しく腰をおろしていた。
晴明の合図で立ち上がった二匹の動物は、咒音の前までゆっくりと近付いてきた。
それを怖がらずに見ていた咒音は、傍まで来て腰を下ろした動物の頭を軽く撫でた。
その様子を面白そうに見ていた晴明は、この動物が一体何なのかを咒音に話して聞かせた。
この動物は“狼”といい咒音と同じ獣だと言うこと、この国の果てにある海と言う水の集まりを越えた雪しかないような極寒の地に、この狼の仲間は居るのだと言うこと。
他の獣と何ら変わらないが、唯一異なるとしたら神の御前で生まれるべくして生まれた神聖な神狼だということ。
「あと変わっているとすれば…」
「…?」
そう言って晴明が二匹の神狼に声を掛けると、目映い光を一瞬放ち、次の瞬間には咒音と同じような人間の姿に変わっていた。
何を見ても驚くことの無かった咒音だったが、流石にこれには驚いたらしい。
大きく肩を揺らしたかと思うと、急に立ち上がって依子の小さな背中に隠れた。
おっかな吃驚といったように顔を覗かせた咒音を見た二人の神狼は、困ったように固まっていた。
それからどうしたものかと考えだし、何かを思い出したように立ち上がった。
どうやらこの二人は人間で言う双子のようで顔がそっくりだが、容姿は少し違っているため見分けはつく。
今立ち上がった方は、短髪の黒髪でやんちゃな性格のようだ。
呆れたように溜め息をついた方は、髪の長さは彼方と同じだが、髪の色は美しい銀髪だ。
二人とも肌は透明感のある白で、瞳の色は両目供に濃い灰色だ。
背丈も然して変わらず、違うところと言えば一目瞭然なその性格だろう。
「…陰と陽」
「どうされました?」
今まで依子の背中に隠れていた咒音が、二人を見比べながらそう言った。
銀髪の方を見て“陰”黒髪の方を見て“陽”。
どうやら二人の名前にしようとしたらしい。
自分に名前を与えられた、そう自覚すると共に喜びの声をあげた。
神狼は目上の人の命令のみを聞き、それに従う。
彼らを付き従える前に、大体は名前をつける儀式から始まるのだとか。
生まれながらにその事を知っていた二人は、彼女が自分の主になる人なのだと考えたのだ。
「安倍様…?」
「彼らはお前の守護神、好きにしなさい」
何も言わずにこちらを見ていた晴明の反応が気になって声を掛けると、優しい微笑みを浮かべてそう返してきた。
嬉しそうに笑みを浮かべた咒音の前に、“陰”と“陽“と名付けられた神狼が膝をおる。
挨拶が済んだら広間に来いとだけ言い残し、晴明は咒音の部屋を出ていった。
それに倣う様にして立ち上がった依子は、着替えの入れてある底が浅い正方形の蓋の無い箱を持ってきた。
丈の短い赤い色の袴と、淡い色で纏められた何枚かの着物が入っている。
依子の無言の圧力により退室していった二人を見送り、咒音は手際よく着付けをしてもらった。袴と衣を着たあと、先程から気になっていた打ち掛けが咒音の肩に乗せられる。
静かに袖を通し、香木から移った桜の甘い薫りを身に纏う。
少し長い裾を引き摺りながら、咒音は晴明邸の長い廊下を歩く。着慣れない服ではあったものの、まるで自分が着るべき服であるかのようにしっくり来る。
きっと晴明が着易いように、色々と考えて選んでくれたのだろう。
踝丈の着物ではなく赤い袴と言うのは、きっと今まで座敷童のような格好をしていたからなのか。
そんな些細なことも嬉しく思い、咒音は軽やかに廊下を歩く。
角を曲がろうとして、黄色い髪色の背の高い男性が飛び出してきた。
驚いて後ろに倒れそうになった咒音を、誰かが抱き上げるようにしてそれを止めた。
「晴明の跡継ぎが怪我したらどうするんだ!」
「壱ぃ…そない怒らんでもええやんけ」
すまんなーと謝りながら、黄色い髪の男性は悪びれもせずにヘラヘラと笑っている。
“壱”と呼ばれた男性は、あからさまに苛ついたような顔をしている。
「おい弐紀…ぶつかってたら焼かれてたぞ」
「…ほんまごめんな、晴明には言わんとって」
壱と言うらしい男性の一言に真っ青になった“弐紀”は、何かを言い掛けて止まった。
どうやら背後に誰かが居るらしい。誰か、と言うのは勿論晴明に他ならないのだが。
いつもの様に口許に涼やかな笑みを貼り付けた晴明が、いつもなら笑っている目が最早笑うことを忘れている。
無言で伸ばされた手に引き摺られながら、それでも許しを請い続けている弐紀。
「主を此方に」
「ん?あぁ、頼んだ」
庭で陽の馬鹿に付き合わされていたらしい陰が、壱に近付いてきて手を差し伸べた。
そのまま咒音をゆっくりと立たせると、右手を取って広間へと連れて行った。
置いていかれたらしい陽がいじけていると、その肩に壱が手を置いた。
****
それから幾度も季節が巡り、月日が過ぎた。
昨日咒音の誕生が祝われ、咒音は晴明から新しく名を授けられた。
今までともに暮らしてきた晴明から見て、咒音はしっかりしているものの目を話すと宙を舞う蝶のように何処かに消えてしまう天然な所がある。
そんな性格に掛けて、新たな名前を“密虫”とつけたのだ。
晴明の思惑通り、彼女は物静かで有能な陰陽師として成長している。
そして、これは晴明の趣味の一貫でもあるのだが、密虫は本の少し我儘に育てられた。これも晴明の思惑でもあるのだが、この我儘も中々に可愛げのあるものだ。
今日は晴明の久々の出仕で、密虫からすれば始めての出仕になる。
朝餉を済ませた晴明一行は、大内裏にある仕事寮に向かうための支度を始める。
それから晴明と密虫、狼の姿の陰と陽が牛車に乗り込む。
壱と弐紀は警護もかねて牛車の傍を歩くらしい。
これから始まる仕事寮での仕事に、密虫は不安と期待の入り交じった微妙な表情を浮かべた。
それを見た晴明は、今までより少し忙しくなるだけだと言って密虫に励ましの言葉を掛けた。