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第一章


第一章 ―黄昏時に待つ逢瀬




物心が着いたのは本当に最近の事だが、身の回りの事が全く理解できていない頃から周りには人間というものが居なかったように思える。

幼子は親無しには生きていくことが不可能だと、咒音じゅいんは幼心ながらに理解しているつもりだった。


自分には親と言うものが居ないというのに、どうして五つになるまで怪我は未だしも病気に掛かったり獣に喰われずに生きてこれたのか、咒音には不思議で仕方がない。

もっと不思議なことがあるとすれば、怪我をしたとしても軽いものであれば数十分後には綺麗さっぱり完治していることが多々あることくらいだろう。簡単に済ませたが、普通であれば擦り傷が完治するまで、早くても四・五日は優に掛かる。


咒音自信も既に気付いているが、彼女は人間は人間でも『化狼』人呼ばれる人外的存在なのだ。

だから少しの傷や軽い風邪などは、持ち前の回復力や体力、それとある種生命力によってそれらが完治するまでの速度を無意識のうちに早めているのだ。


しかしここまで育つまで、良くもまあ食べ物や寝る場所等に困らずに生きてこれたものだと、咒音自信が一番驚いていた。

咒音の勘が正しいとすれば、目が見え始めた頃から傍に居た記憶のある白い狐のお陰ではないかと思っている。


それもこの狐は、咒音が思うに普通の狐とは違うような気もしていた。

狐が直接話しているわけではないのだが、言葉が無くとも頭の中に直接語り掛けてくるような感覚がいつもあるのだ。それでお互いに意思の疎通を図っているため、便利と言ってしまえばそれで済む話なのだが。


あまり深く考え込むのが苦手な性分らしく、咒音は考えることに見切りをつけて、狐と戯れることに。

獣ならぬ、何というか神々しい雰囲気を漂わせている狐は、来る度にお菓子や薬などが入った風呂敷を背負っている。

いつもそれを欲しいと思っているときに現れるため、狐は誰かの遣いなのではないかと思うことがしばしばある。



「お前は誰かに言われてここに来るの?」


『俺は本物の狐ではないからな』



気になった事を聞いても、いつもこのようにはぐらかされてしまうのだ。

いつ聞いても心安らぐような優しく低い声は、咒音のお気に入りだ。



「どうして咒音は、遠くの音が聞こえるの?」


『お前の優れた美点だ』



今まで聞くことはなかったが、それでも気になっていた疑問のうちの一つを口にした咒音。

いつもなら言葉を濁す狐も、この質問には不思議と心のこもった答えを返してきた。

それが嬉しかったため、咒音は今までは嫌いだったその事実を自慢事に思えるようになった。


嬉しそうに童歌わらべうたを口ずさむ咒音を見て、狐はそれを何処で覚えたのかと聞いた。

竹藪の外の村の、自分よりも年が上の子供達が歌っているのを聞いて覚えたらしい。

遠くまで歩いて行った訳ではなく、此処に居ても声が聞こえてくるのだ。


狐が教えてくれたのだが、咒音の耳は雲が通り過ぎる音も聞き分けらる聴力を持っている。それと共に、動物の息も嗅ぎ分けられる程鋭い嗅覚を持っているのという。


人間の血が僅かながらも入っているものの、その優れた能力には何ら影響はないようだ。


今日も狐の背中に携えられていた風呂敷の中にあった焼き菓子を食べた咒音は、そろそろ昼寝でもしようかと横になる。

しかし、うとうとしてきたと同時に、あまり人間の侵入の無いこの竹藪に誰かが足を踏み入れたらしい。枯れて地に落ちた笹の葉を、規則正しく踏む音が耳に入る。



「この臭い…」



警戒を最大まで引き上げ、その人物の目的や大まかな姿を掴もうとする。

まずは何処から来たのか臭いで確かめようとすると、その臭いは何処かで嗅いだことがあるように思えた。しかも頻繁に。


身の回りを確認しようとして、今まで近くに居た白い狐が何処かへ居なくなっていた事に気付く。聴力がいい咒音が、狐が立ち去る音を危機逃すなど万に一つもあり得ない事なのだが。



「…風呂敷?」



狐の気配も同時に探っていると、偶然風呂敷が視界に入る。

それを見て漸く、この臭いはいつも狐が背負って来る風呂敷についている臭いと同じだという事に気付いた。


まだ幼い咒音にも、大体は理解できた。この風呂敷の持ち主と思われる人物が、理由は定かではないにしろこの竹藪の近くに来ているのだ。

多分これは高価なお香の香りで、毎朝のようにお香を炊いている為にこの風呂敷にも香りが移ったのだろう。


そんな事を考えながら、ずっと向こうに居る人物が今居る所からどれくらい近くまで来るのかを足音のみで判断しようと試みる。

しかしその人物―足音から把握する限り、歩幅が広い為に男性と推測される―は、先程居た場所から少しも歩かない場所で立ち止まったままそれ以上は進まなくなった。


不思議に思う気持ちと年相応な所謂好奇心とに駆り立てられた咒音は、警戒心はそのままに少しだけ近付いてみることにした。


この場所から百歩進んだとしても、相手からは自分の姿が見えないことを咒音は知っている。


しかし前方のみに警戒を向けすぎたせいか、背後に対する警戒があまりにも無さすぎた。

そのせいで、背後に山賊が数人歩み寄っていることに気付くのが遅れてしまった。


まだ走ればどうにかなる距離でもないのだが、そうすると警戒を何処に向けて良いのか咒音にはまだ分からないのだ。


どうしたものかと焦りだしたとき、頭の中にあの狐の声と似通った声が響いた。



『俺の気配のある方に、後ろを振り向かずに全力で走りなさい』



その声と同時に迷っている暇はないと判断した咒音は、竹藪生活の中で身に付けた体力を出し惜しみせずに使った。

兎に角全力で走り、四半時もしないうちに白い冠直衣を身に纏った男性が見えた。



『そのまま俺の後ろに隠れていなさい』



言われた通りに男性の背後に隠れると、少し遅れて山賊も数人おってきたらしい。姿も少し見え、足音からすると少なくとも五人は居る。


不思議な形状の扇子で口元を隠し、目元には薄く笑みを浮かべている。

長い藍色の髪の前髪のみを後ろに撫で付け、白い烏帽子を被っている。


すらりとした長身の男性は微笑みを崩さぬまま一度右手を握り、中指と人差し指と親指とを立てたまま口許にあてがった。どうやら何かを呟いているらしい。

最後の方でやっと正しく聞き取ることに成功し、それは“夢幻奏雷むげんそうらい”という風に言っていた。


それから右手を開いて掌を上にして、その指先を山賊が居る方に向けた。

その掌の上に軽く息を吹き掛け、まるで掌の上に桜の花びらがあるかのように錯覚した。

それ程に美しい行動故に、そのあと山賊がどんな目に遭ったのかは記憶に残ることはなかった。


術を口にした男性が振り返り、目を瞑るように言ってから咒音の耳を塞いだからだ。

軽く塞がれただけで、周りの風の音も雲が流れる音も、まるで音の無い世界に変わってしまったのかのように錯覚する程に外界の音が遮断されたのだ。


少ししてから解放された耳に風の音が入ってくると、不思議と安心感に包まれた。

しゃがんだ男性の肩越しに先程まで山賊が居た方を除き見ると、この数秒の間に気配諸とも消え去ってしまったらしい。



「貴方は誰?」


「俺の名は安倍晴明、京の都で陰陽師をしている」



自らの役職を鼻に掛けるようでもなく、淡々と自信の名前と今就いている仕事を明かした晴明。

山賊を襲う前のように落ち着いた様子で扇子を口許にあてがうと、此処に未練が無いなら自分に付いて来ないかと表情一つ変えずに提案した。


この竹藪に未練とかそんなものを感じなかった咒音だったが、ただ一つ気になることが。それは毎日のように自分に会いに来てくれた、獣らしくない狐だった。



「…あの狐は?」


「あれは俺の式だ」



式というのは式神の略で、能力的には何ら関係ない。ただ名称が短くなっただけの事だ。


晴明はそう言って懐に手を差し入れ、咒音には読めない文字が幾つか並べられた紙を取り出した。

それを指を二本立てた右手で軽く撫でると、軽く息を吹き掛けた。

不思議に思って首を傾げた咒音の前の土の上に置いた。


晴明が小さな声で「目を冷ましなさい」と言うと、その声に反応するように浮き上がった紙は、一瞬であの狐に変わった。



「…通じた」



晴明の予想に反してあまり驚かなかった咒音を見て、彼はどうして驚かないのかを聞いた。

狐の頭を撫でながら口を開いた咒音によると、狐が先程話していた「普通の狐じゃない」といこうとがいまだに頭に残っていて、それが今やっと解決したとの事だ。


それを聞いた晴明は納得したように頷き、それから意図的に小さく咳をした。

またもや不思議そうにして晴明の方に顔を向けた咒音に、晴明は先程の話の続きを切り出す。



「で、来るのか?」


「この狐も居るなら」



では決まりだな。咒音が迷わずに答えたのを聞くや、晴明は口許の笑みをそのままに、無駄の無い動きで立ち上がった。

慌てて後を追うように立ち上がった咒音に目を向けると、ここから暫く歩いた所にしか牛車が無いからと言って咒音を抱き上げた。


それくらい化狼の自分には造作も無いことだと言って下りようとしたのだが、甘えておきなさいという一言により仕方なくそのまま大人しくすることにした。






****



初めて竹藪から外に出た咒音は、目に映るもの全てを物珍しそうにして見回している。

それを楽しそうに見詰めながら、晴明は竹藪の外に待たせていた自らの式神を呼び寄せる。


簡単に説明を済ませただけで、咒音はそれをしっかりと理解しているようだった。

これは自分の後を継いだら、有能な陰陽師になるのではないかという期待を抱いた。弟子をとることに全くの興味がない晴明がこんなにも楽しそうにしているところを見た式神達は、明日は雪でも降るのではと背筋を凍らせていたのは、晴明には内緒だ。




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