BAR ブルームへようこそ
風が冷たく吹く夜のことだった。
いつものように大して意味もない資料集めに追われ、仕事をした気になる間もなく一日の労働時間が終わり、ぐったりとうだれてた帰宅途中に、蓮華加代子は小さなバーを見つけた。
今まで通っていた帰り道では通ることのない横道を抜けた先にそれはあった。なにげない気まぐれの行動だったが、加代子は幼い頃、自分だけしか知らない抜け道を発見した時のように高揚した。小さくポツンと佇む看板はひどく古臭いようにも真新しいようにも見える。独特の文字で『BAR ブルーム』と書かれている。
周りに人気はなく、店の中もあかり一つない様子に営業していないのかとも思ったが、せっかく見つけたのだからと加代子ははんば強引に自分を奮い立たせてバーの扉に手をかけた。
カランカランという無機質な音が鳴り、扉が開く。中はやはり薄暗く、一歩入った先に下に通じる階段があるのが見えた。どうやらバーは下の階にあるらしい。
周りを見渡しても人気はないが、人が住んでいる痕跡はあった。横に無造作に置かれている傘立てや散乱した靴の山がかろうじて目に映る。見た感じだと男物ばかりだからここに住んでいるのは男性なのだろう。地下で営業を行い、その上の階で暮らすという生活スタイルは自営業ではよくあることだ。
店の雰囲気をぶち壊していることは大目にみよう。
加代子はなるべく生活風景を見ないようにしながら階段へと足を運んだ。
下ではカチャカチャと鳴るグラスの音や、レトロな音楽が流れている。かすかに明かりも見えることから営業はしているのだろう。
なんせまだ夕方の6時だ。バーというものはだいたい夜からスタートするものだから時間的に開店したばかりだろう。
今日はここで憂さ晴らししよう。
加代子は頭で考えたことに頷いて階段を下りていった。
面白い雰囲気の店を見つけたもんだ。酒がまずくなかったら今度はここをたまり場にしようかな。
なんせ今の通っている居酒屋の味にそろそろ飽きてきていたのだから気分転換にはちょうどいいかもしれない。
階段を下り切り、あかりのこぼれる扉へ手をかける。ぐいっと押すと先ほどの扉のようにカランカランと鈴の乾いた音が鳴り響いた。
光の中へ足を踏み入れると、店の雰囲気にあった爽やかな声が応対してくれた。
「いらっしゃいませ。BARブルームへようこそ」
席に腰掛けた加代子が見た先にはまだ若いバーテンダーの男性がにこやかに笑いかけていた。店内に客はなくどうやら加代子が一番最初の客のようだ。バーの中は様々な酒のビンが所狭しと並べられている。それらをすべてこの目の前の若いバーテンダー一人で準備しているのだろう。彼以外に店員は見当たらない。
「お客様。なんにいたします?」
彼が手元でグラスをふきながら加代子に声をかけた。黒い短髪が清潔感を感じさせてとても良い、と加代子は内心で勝手に評価する。カウンターからゴソゴソと探っているのは、どうやらメニューを取り出しているようだ。
加代子はメニューを受け取りながら、上品に「そうね」とつぶやいたが、内心は焦っていた。
今日はとことん酔いたい気分だった。メニューを眺めまわし、横文字をおっていきながら息を吐く。正直言ってこんなこじゃれた場所へ足を運ぶことはあまりなかったため、字で書かれただけの洋酒の名前も見てもどれが今の気分にあった酒なのか分かりはしなかった。
いつもは居酒屋でビールをとりあえず頼むのがセオリーだが、ここでは何を選ぶべきなのか全くといって判断がつかない。
困り果てた加代子を救うようにバーテンの彼が「よければ僕がお選びしてもよろしいですか?」と聞いてくれた。
気が利く子だ。
加代子より年下なのだろうが、態度や気配りは立派な大人のようだ。
モテるんだろうなと思いながら加代子は安堵の息をバレないように吐いて頷いた。
「お願いするわ」
「かしこまりした」
そう言って彼はすぐに棚から一本のボトルを取り出すとカウンターの中で作業を始めた。メジャーカップを使いボトルの酒を数回に分けてシェーカーに注いでいく。すぐに蓋をして軽くシェイクしたあと、グラスに注いでから氷を入れ、ステア(グラス内で氷に触れないようバー・スプーンを回転)する。
見事な手技だ。
感心してみていると爽やかなグリーンのリキュールが差し出された。
「どうぞ。エメラルド・クーラーでございます」
ペパーミントの香りが鼻腔をくすぐる夏にピッタリの酒だなと加代子は思った。
受け取って礼を言ってから一口すると、さっぱりとしたレモンの酸味が口いっぱいに広がった。
「美味しいわ」
加代子の感想に彼は嬉しそうに笑った。笑うと子供っぽく見えた。
「喜んでいただけて光栄です。このカクテルはアルコールも強くなく、仕事のあとなどの疲れを癒してくれるんです」
「へえ。それで選んでくれたんだ。私、疲れてるように見えた?」
加代子の質問にバーテンダーは素直にうなずいた。
「入ってこられた時から、なにやら深刻そうな表情をされていましたよ。選んだ理由は、それが半分ともう半分はあなたにぴったりだと思ったからです」
「私に?」
加代子がキョトンとしてグラスの中のグリーンの液体を見ると、彼は明るく「はい」と子犬のように無邪気に笑った。
「エメラルド・クーラーは爽快感あふれる爽やかなカクテルです。あなたの雰囲気にピッタリだと思いまして」
それからすぐにハッと我に返ったように縮こまって、目を伏せた。
まるで捨てられた子犬のように妙な庇護欲をそそられる。
「すみません。勝手にイメージしたものをお出しして・・・本当のお客様がどういった方なのかも知らないのに」
加代子は、自分の中でなにかこの目の前の彼への気持ちが膨らんでいくのを感じた。
なんだろう。この子・・・可愛い。
「いいえ。嬉しかったわよ。ありがとう」
笑いかけると、彼はそれはそれは嬉しそうににっこりと微笑んだ。
男性に対して形容するべき言葉ではないことは承知しているが、まるで天使のようだと加代子は思った。
思ってからすぐに首を振る。彼は仕事をしているだけだ。変に意識して喜ぶなんて勘違いも甚だしい。
第一、年下ではないか。
ないない。絶対ありえない。
加代子はグラスを傾け、爽やかなカクテルで喉を潤しながら気持ちを落ち着かせようとした。
その様子を見ていた彼がもう一度爽やかに話しかけてきた。
「お客様。こちらに来られるのは初めてですか?」
「え、えぇ。なんとなくいつもと違う道を通ってみたらたまたま見かけたのがここだったのよ」
「そうだったんですか。それは嬉しいなあ」
花でも飛んでそうなほどゆるゆるの笑顔にまたしても心臓が鼓動を早くする。
落ち着きなさい私。相手は小僧よ。ガキんちょよ。
今まで、お付き合いしてきた男性はすべて年上か、同い年だった。年下なんて守備範囲外だと思ってきたのだが、どういうわけかこの若いバーテンダーにときめいている自分がいることに加代子は驚いていた。
彼がこちらの気も知らないで甘い声で尋ねる。
「まだいけそうでしたら、もう一度僕がお選びしてもよろしいですか?今度は僕のお気に入りのカクテルを、あなたに飲んでもらいたいんです」
そう言ってこちらを伺う彼の目はまるで捨てられそうになっているチワワのようだ。
くぅ・・・反則だそんなの。
加代子は努めて冷静な振りをしながら「構わないわ」と頷いた。
彼は再び嬉しそうに笑ってから礼を言ってカクテルを作り始めた。
手前の方から取り出したボトルで先ほどのように手際よく作業をしていく。その様子を見ながら加代子はエメラルド・クーラーを飲み干していた。
アルコールはそれほど高くないと彼は言っていたが、なんだかいつもより酒が回るのが早い気がする。飲みやすいお酒だから一気にあおりすぎたか、それとも変に鼓動が高鳴っているせいか。
どちらなのか、加代子にわかるはずもない。
「どうぞ。召し上がれ」
彼が綺麗な赤色のカクテルをよこしてきた。薔薇の香りが漂うこれまた美しいカクテルだった。
「キス・オブ・ローズといいます。僕のとっておきです」
そう言って微笑む彼に急かされてゆっくり口つけると、先ほどの爽やかなカクテルとは違った甘いすっきりとした味が口内を刺激した。
「甘いわね」
そのままに感想を言うと彼は「はい」と頷いた。
「その名の通り、薔薇に口づけをしているように感じさせてくれる、とてもロマンチックなカクテルなんです。お気に召されました?」
「えぇ。とっても」
普段口にすることがないようなお酒は妙に気分を良くしてくれた。なんだか夢を見ているようにふわふわと気持ちのいい酔を与えてくれる。
彼を見ると、少しだけ恥ずかしそうに照れた笑いをしている。
「どうしたの?」
「・・・じつはそのカクテルはなかなかお出しすることのないカクテルなんです」
それを聞いて佳代子は首をかしげた。
「こんなに美味しいのにどうして?」
彼は右手を口元に添えて加代子にだけ聞こえるように小声で答えた。
「えっとですね、それは、僕が素敵だなって思ったお客様にだけ出している、僕の最大級のアプローチ用だからです」
カランっと指先の震えに振動してグラスの中の氷が揺れた。彼は照れ顔のまま真剣にこちらを見ている。
どういうことだ。彼は今、なんて言った?
呆然とする加代子に構わず彼が続けた。
「いきなりこんなこと言って失礼だというのは重々承知してます・・・けど、言わせてください。馬鹿げてるって思われるかもしれませんが、一目惚れなんです。
さっきあなたがその扉を開いてきた時から、ドキドキが止まらないんです」
「え?え、ええぇ?だ、だって、私、年上だし・・・その、会ったばかりなのにそんな・・・」
顔が赤くなるのが抑えられない。あわててなにか言った気がしたが、正直なにも頭の中で整理できていなかった。
彼が真剣な眼差しで首を振る。
「確かに僕はあなたより年下かもしれません。けど、僕、本気なんです。どうかお名前を教えていただけませんか?お客様」
どうしようどうしようどうしよう。
頭の中ではそればかりが繰り返されて口が乾く。
あぁ。でもこの胸の高鳴りは、最近感じることのなかったものだ。加代子は気持ちの昂ぶりを抑えることなく、目の前の彼に自分の名前を教えようと口を開いた。
「私の名前は―――」
「やめといた方がいい」
突如聞こえてきた第三者の声に加代子はギョッとして声のした方向へ目を向けた。
いつの間にか真横に男が一人たっていた。赤茶色の髪をしたボサボサ頭に、そこら辺のスーパーで買えそうな安物のような変な柄のTシャツと下はどこかの高校の白い二本線の入った紺色のジャージだった。背格好や顔からバーテンの彼より若い、まだ十代の少年と言える年齢に見えた。
あまりの場違いさに加代子は一瞬言葉をなくしていた。
そんな加代子に見向きもせず、カウンターに腰を下ろしながら少年がバーテンに向けて意地の悪い笑みを見せた。
「節操ねぇなあお前。ついこないだ4人目の彼女作ったばっかじゃん。今度は年上狙いか?」
バーテンダーの彼は心底疲れたような顔で片手で顔をおおってうなだれていたが、すぐに立ち直ったように笑みを少年に向けた。
「こらこら。未成年は立ち入り禁止だぞ」
「あぁ?」
まゆを寄せる彼にバーテンダーはすまし顔で出て行くよう説得しているようだ。加代子はようやく我に返り、息を吐いた。
そ、そうよ。こんな子供の言っていたことを間に受ける方がどうかしている。
そう自分に言い聞かせていた加代子は少年の方を見て、彼と目が合いドキリとした。さっきのバーテンの彼に感じたものとは違う、なにか得体の知れないものを見たときの感じに似ていた。
少年がバーテンの彼と加代子を交互に見て納得したようににやりと笑う。
「なに?まだ諦めねえつもりかよ。ほんと懲りないねぇおたく」
バーテンの彼におちょくるようにそう言ってから、今度は加代子の方を見て口を開く。
「おねーさん、俺がいてあんた助かったんだぜ?こいつ女を見て落とせそうとみりゃ誰だって口説く、根っからの女ったらしなんだからよ。俺が知ってるだけでも既に4人は付き合ってる女がいるんだぜ」
「な、何言って・・・」
動揺する加代子に構わず少年は楽しそうに続ける。よく見ると彼は左頬にあざがある。喧嘩をしてきたのだろうか。
少年を観察しながらバーテンの彼を見ると、彼はこちらを一切見ようとしなかった。先ほどの甘い雰囲気からは想像もできないほどの無表情にぞわりとした。
「“好意”と“名前”をこいつに教えちゃいかんのよ。わかったらこんなとこからとっとと抜け出すことをおすすめするぜ。俺があんたを助けたのだって単なる偶然と気まぐれなんだからな。自分のラッキーと俺に感謝してさっさと消えな」
「・・・・なっ!」
あまりにもひどい暴言になにか言おうとしたが、バーテンの彼が動いたことで加代子の思考は一気に持って行かれた。
彼はカウンターを飛び越えて、少年に飛びかかりカウンターへと押し倒したからだ。ガシャンとグラスが割る音がする。ぎりぎりと首を絞めているその横顔にさっきのような微笑ましい笑顔はない。無表情なのがかえってこわかった。
加代子は冷水をかけられたように全身が悪寒で震えるのを感じ、後ずさり後ろ手でドアノブを触った。これを回せば、逃げられる。
「ねえ・・・」
呼び止められた声は冷淡なものでも甘いものでもない。どちらかというと子供のように無邪気にバーテンの彼が加代子を見つめていた。
「僕のことが好きですよね?お客様」
「ひ・・・っ!」
笑顔を向けられているのにさっきのような朗らかさが微塵も感じられなかった。それは彼が、少年を締め上げているからか、それとも現実を見て佳代子が彼の笑顔が真っ赤な偽物だと気がついたからか。
どちらかわからないまま、加代子は五千円札をカウンターに叩きつけると、ドアをひっつかんでバーから飛び出していた。後ろを振り返ることなく、酔いの冷め切った頭で必死にがむしゃらに走り出す。
もう二度と、あのバーへは行かないと心に誓って―――
***
「ふざけんなよお前。一体なんのつもりだよ」
イラつきながらBARブルームを切り盛りするバーテンダーは少年を乱暴に突き飛ばした。ガタンとおしゃれなテーブルが弾みで倒れるが、少年はピンピンした様子で立ち上がった。
「接客業のバーの店長がそんな乱暴働いていいのかぁ?」
「お前は客じゃないからな。ったく、何しに来たんだよマジで」
女性に見せていたような甘いマスクはどこへ行ったのか、タチの悪い不良のような態度を見せるバーテンはぶつくさと文句をいいながらカウンターへと戻っていった。
五千円札の回収と割れたコップを片付けるのだろう。
少年は自分の体が当たって倒れたテーブルを元に戻してからバーテンの目の前のカウンターに腰掛けた。
「まあそうカッカしないでさ。別にあの女のことが本気で好きだったわけでもないんだろ?」
「座るな。帰れ未成年」
「わーってるよ。用事済ましたら帰るからさ」
ぶっきらぼうに答えるバーテンだったが、少年の言葉にぴくりと反応して視線を上げた。
少年は左頬のあざをさすりながら笑った。
「なんだ。要件は。それは俺のナンパを遮ってまで伝える必要のあったことなんだろうな」
「なあ。女によってキャラ変えんのって疲れねえ?俺なら絶対に無理だな。確かこないだは強引な俺様系で、その前は・・・えーっと、そうそう!草食系だったな。今のは年下ワンコ系か?相変わらずスッゲー演技・・・ぶあッ!」
カウンター越しに突然水をかけられ、少年はむせながら突っ伏した。
「要件だけ。手短に言え」
「う~~~・・・了解・・・」
顔をゴシゴシと服の袖でぬぐいながら二枚の写真をカウンターに並べた。バーテンダーが写真を見たのを確認してから少年が口を開く。
「ついに残りの駒が出揃った。奴さんチームに先、越されないように速やかに回収しろ、だってさ」
「王様の命令か」
「イエース」
軽く答える少年に一瞥してからバーテンダーは目を細めてもう一度写真を眺める。
そこには二人の男女が写っていた。
どちらとも制服を着ていることからまだ学生のようだ。
「この制服は、どこのだ?」
「淀橋高校のだって。そいつらの名前もわかってる」
「ずいぶん仕事が早いな」
少年は両手をあげて首を振る。
「残念ながら突き止めたのは俺じゃねぇよ。竪山がこいつらと同じ高校に通ってたんだよ」
「なるほどな」
で、名前は?と聞くと、少年は写真を指差した。
「男の方は後藤暁良、高校1年。女の方は宮井米子高3だ」
「能力はなんだ」
少年は肩をすくめてみせた。
「さあ。竪山もさすがにそこまではわかんねぇってさ。実際に会ってみるしかねえな」
女と男、どっちがいい?と尋ねるとバーテンダーはここにきてようやく笑みを見せた。ただし、先ほどの人を安心させるような優しいものではなく獲物を狙うように鋭く、邪悪な笑みを。
「愚問だな」
「はいはい。わかってたよ。聞かなくてもな」
少年は呆れたように息を大きく吐いてから席をたった。
「じゃ、各自好きなように動くってことで解散」
「おい。竪山はどうする気だ」
バーテンの問いに少年は振り向いて苦笑いした。
「あいつはいつもどおりなんもしねぇだろうさ。勧誘なんて一番向いてねぇからな」
「それもそうか」
バーテンはそれ以降写真を懐に入れて会話を断った。少年の方も特に何も言うことなくバーをあとにする。数人の女性とすれ違い、狭い階段を少年は上っていく。
カランという音とともに女性の華やかな声がバーに響いていた。
「いらっしゃい。久しぶりだね」
背後で聞こえてきた声変わりしたのかと疑うほどの甘い声への変わりように呆れた笑いを一人しながら少年はすっかり夜へと化した賑やかな街を歩く。
誰もそこにいる彼が異質な存在だということに気がつかないまま周りに溶け込み、彼は自由気ままに歩を進める。
竪山龍牙の仲間である二人の男が巻き起こす波乱の事件の数日前の出来事である。