「春、幕が上がる(中)」
法学の講義を終え、次の社会学の講義までは昼休みを挟んで三時間ほどある。書店員としては即刻正したくなるようなルーズなスケジュールで動くのが大学生だ。そして、その合間を縫って生徒が労働に従事することで、新星大学の各書店は切り盛りされている。
……。
俺は次のハードルまでのインターバルをどのように駆け抜けるかを考える。無難に店に顔を出すか…それとも…。
「いや、やっぱ少しは見に行ってやらないとな」
俺は意を決してイベントホールのある敷地内の東側へと歩を向ける。
途中、何を思ったかトイレで髪型や身なりなど整える。至流あたりにバレたら大笑いされるだろうな。
……。
…。
イベントホールの周りは着飾った学生とその親御さんたちで賑わっていた。その脇で声をかけようと躍起になっている集団は部活の勧誘だ。
そう、実をいうと、今日は本年度入学する新入生(附属上がりのみ)たちの入学式なのだ。
ウチは身内びいきが尋常ではなく、わざわざ春休みを一日繰り上げて附属生たちを大学へと招き入れる。ホールの収容人数に限りがあるからとかいう理由で通っているが、式典の後に開かれる食事会は受験編入組の式には組み込まれていない。こういうところがいかにも企業体質な我が校らしいところだ。
初々しい顔つきの生徒たちの中を分け入り、俺はとある少女を探している。
今日は雲一つない晴天だが、若干ながら春先特有の風が強い。時折散ったサクラの波が人の隙間を縫って舞い飛び、まるで花びらの中で溺れているような感覚だった。
「あ、いたいた」
探している少女とは、中学の時も高校の時も一年間しか一緒に通えなかった。俺が受験を考え始めた頃に彼女は同じ舞台に上がってきたが、いつも毎回ろくに関わることもなく、結局俺が先に次のステージへと進んでいってしまっていた。
「入学おめでとう」
家で話ができないからせめて学校で…なんて、普通の兄妹とは真逆の関係な俺たち。こうして偶然にもお互いの学年の差が縮まって、これからは三年間同じキャンパスで学ぶことができるようになったんだ。
「おめでとう、有夢」
「…ありがとう、兄様」
黒いスーツに身を通した妹の有夢は、この数年でずいぶんと成長した顔つきの恩恵もあって、ちょっと油断したらバリバリのキャリアウーマンにも見えかねない。まあ、俺がこいつの兄である限りそんな錯覚は絶対しないけどね。
「式に出られなくてごめんな。母さんも仕事だしせめて俺が出席できれば良かったんだけど…」
「いえ、大丈夫です。正直言うと入学式はとても眠たかったので」
「……それに、今こうして兄様は会いに来てくれましたし」
……。
そう言って頬を赤らめてうつむく有夢。春風に乗って背後の黒髪がきめ細かく揺れていた。
彼女の周りを通り過ぎる新入生たちの多くが、その可憐な姿に一度は視線を向けていく。
…なにぶん妹なので、兄である俺の中での有夢の評価は大幅に補正がかかっているが、それでもこいつはかなり可愛い方だと思う。どこかの文芸部員のように、油断すると骨抜きにされかねない優しい声色をしているし、なんだかとっても儚げなイメージを抱いてしまうのだ。それは手足が病的なほどに白くて細いせいもあるのだろう。
そして何より…。
「有夢、ちゃんとこっちを見ろよ」
「は、はいっ」
……。
キリッ、という擬音が耳の中の幻の器官の中で鳴っている気がする。
あるいは、刀を鞘から抜いた時のような、とにかくシャープな音。そんな音が似合う鋭さが目の前にある。目の前、というか目そのもの。
「ひゃっ! に、兄様、こんなところで恥ずかしいです…」
俺は思わず有夢の頭を撫でていた。
撫でた途端に瞳の鋭角さは削ぎ落とされ、目尻が垂れてリラックスした表情を見せる。
…まったく、神様の感性はムカつくくらい神がかり過ぎている。こんなシャイな性格の子にこんな鋭い目線なんかくれてやらなくても良かったのに。
中学時代からなんか可愛いだけではない違和感を感じていた。そして、いつかの夜中にたまたま彼女の目線だけを暗闇の中で見る機会があり(どんな状況だよ)、そこでようやくこいつの鋭角さに気づいたのだ。
それは年を重ねるごとに険しく、そして美しく成長していくものだから、俺は意識して有夢と距離を置くようになってしまった。
…いや、本当は別の大きな理由が二つあるのだけどさ。
……。
俺は有夢のフニャっとしたにやけ顔を十分に堪能した後、名残惜しくもその手を頭から離した。
…周りにはどう見えているだろう?
俺たちは兄妹にしては全然似ていないから、もしかしたらそういう風に見えているかもしれない。
そういう風に、っていうのはつまり、こ、恋…。
「あら、こんなところで何をしていますの?」
「っっ!!」
聞き慣れた声に飛び上がるほど驚く俺。有夢はその様子を目を丸くして見ていた。
「あ、亜理亜…。驚かすなよ」
「あらあら、まさか悠里ともあろうお方が新入生に……え?」
にやにやと腹黒い笑みを浮かべながら、亜理亜は俺の影に隠れていた妹へと目線を移し…。
「……………」
「……? あの、兄様?」
そして呆然と立ち尽くす。
有夢はそんな亜理亜が何を驚いているのか分からず、おろおろとしながらこちらへと助けを求めた。
…そっか。二年前に何度もウチに顔出していたけど、それって大体有夢の(というか家族の)いない日中か、家族の寝静まる夜更けだったな。
まったく、変な時間にばっかり来るからこうして説明が…。
「亜理亜、こいつは前にちょっと話した俺の…」
「あの、失礼だけど、あなたの名字はなんと言うの?」
「え?」
「…っ!」
「ですから、あなたの名字は何? もしかして、深千…」
「亜理亜っ!!」
気づけば、俺は大衆のど真ん中で叫んでいた。期待に満ち、笑顔の溢れるこの入学式の空気を一瞬でぶち壊すように怒鳴っていた。
……。
何人かの親子が不審げな視線を向けながら通り過ぎていく。
有夢は涙目で、最近見たこともないような怯えた表情。亜理亜は瞳をぎゅっと閉じて何かを我慢しているかのような、そんな今までみたことのない表情をしていた。
……しまった。つい、怖くなって。
「…ごめん、こいつは俺の妹だ、って言おうとしただけ…」
そう、怖かったのだ。今まで俺自身も心の中で気にしないふりをしてきた、とある事実。それを亜理亜が言葉にすることで、まるでその痛みが幻ではなくなるような気がして…。
「あ、あの、兄様。ごめんなさい!」
「違う有夢。俺が勝手にテンパっただけだから。ごめんな」
「……」
「……」
そう言いながら、俺は気持ちを切り替えようと必死だった。
高校生活後半と浪人時代を経て会得した心の鎮静方法。意識に流れ込んでくる記憶の奔流を、何重もの扉を閉じて錠前をガチャリとかけていく。そのいくつかの連続が過ぎた後、気持ちが落ち着いた頃には、頭の中にただ無機質な扉だけが物言わず立ち尽くしているのだ。
…………。
「本当にごめんね。昨日寝不足でちょっと混乱気味かも」
「そ、そうなのですか」
「……」
まだ目線では怖がっているものの幾分か落ち着いた有夢に対し、三年生の方は目こそ開けども視線を俺たちへと向けようとはしていなかった。
「紹介がまだだったね。彼女は三年生の二乃舞亜理亜。第二附属の店長をしていたっていう例の人だよ」
「そうなのですか? では兄様がずいぶんお世話になった人ですよね?」
「そうそう、それとお前が俺のベッドで長い金髪を見つけて静かに半狂乱した原因の人だよ」
「あわわわわ、兄様っ!」
「……くす」
しかし、そんな風にして兄妹らしいやりとりを見せつけられると、さすがに亜理亜も毒気を抜かれてしまったようで。
「…最年長なのに不遜な態度をとってしまってごめんなさい。紹介にありました通り、私は政治経済学三年の二乃舞亜理亜と申しますわ」
「えと、瀬名有夢です。映像身体学部の一年生です」
「あら、見た目通り芸術家タイプのようですわね。映画とかお好きなのかしら?」
「はい。映画に限らず小説や舞台も好きです」
……。
その後しばらく、二人は仲良く戦後からの国内外における創作物について自論を聞かせあっていた。
まあ亜理亜は変人だけど読む本の雑食具合は身内では飛び抜けているからな。こいつは本当、根っからの書店員気質しているよ。
……。
「ではまたお会いしましょう有夢。よろしければお店にも顔をだしてちょうだい」
「はい、ありがとうございます。二乃舞先輩」
おお、あの二面性が真骨頂の亜理亜が出会って十分足らずで下の名前で呼ぶとは。
そして、あの極度の人見知りが懸案事項の有夢が出会ったばかりの年上に対して笑顔を向けるとは。
これは良い兆しだ。まさかこの二人の波長が合うなんて。
二人とも付き合いが長いので、俺には彼女らが仮面を被っていないことは容易に分かる。
しかし、ホッと胸を撫で下ろしたのもつかの間。亜理亜は妹に挨拶をした後、俺にも同様の優雅な言葉をくれるのかと思ったら。
「オリ館最上階」
と、表向き用の最も可愛らしいタイプの笑顔を向けながらそんなことをのたまった。
…こいつの何が怖いって、二面性ある人は大抵表向きが笑顔だと裏じゃ鬼って感じが多いけど、亜理亜の場合は裏も笑顔なんだよな。
しかも呼び出す場所がオリジナル館の最上階とくれば、どうやら姫はあの文豪少女を巻き込んでの乱戦をご所望のようだ。
…はぁ、やれやれ。
「有夢、じゃあまたな」
「はい、来てくださって嬉しかったです」
うん、俺もお前の笑顔が見られて良かったよ。
……。
…少し、胸のどこかがまたチクリと痛みだした気がした。
……。
…。
二人と別れた後、俺はこの後の長丁場を想定して購買でパンをいくつか買い込んだ。
昔、『店にも出るのにお昼がパンだけなんて駄目だよ』と注意してきた放送部員がいた。今ではそいつも昼食をパンで済ませるばかりか、抜くこともしばしばといった有様だ。そのくせ俺には未だにちゃんとした昼食を勧めてくる。
それでも、今の俺には彼女の態度がちょうど良いと感じている。だからこうして足しげく彼女の個室を目指しているのだろう。
最上階といえども作りは他の階と代わりはなく、階段を登りきったところで無機質な扉がいくつも待ち受けているだけである。地上から三階まではこうしたフロアーをぶち抜いて全てを店舗スペースにしているのだ。
そんな人気のない、けれども手入れのゆき届いたフローリングの廊下を通り、俺は最奥にある古びた扉の前に立つ。木製に見せかけたその扉にはこんな表札が。
『221B Baker Street』
……。
これは簡単に言うとホームズがいるという意味だ。
そう、あのシャーロック・ホームズね。
他の部屋には『終星同人会』としか書かれていないのに、ここだけが異質な雰囲気を醸し出している。とくれば必然、中にいる人間も異質であるに違いない。
「毎回これをやらされるのも段々疲れてきたけどね…」
俺ははぁと息を吐いた後、扉を叩いて返事も聞かずに中へと入っていった。
……。
そこは、簡単にいうと小さな書庫のようだ。
二十畳ほどの部屋。その四方の壁に余すところなく並べられた本棚と、中心に並ぶようにして置かれている二つのアンティーク調の机。
机の片方には俺の背丈以上にまで本が積まれており、もう片方の机には何やらふわふわした毛色の生き物が横たわっている。よく見ればそれはうつ伏せにして眠る人間のそれであった。
俺はその彼女の様子を見て心底安らぎを感じる。そしてその安心を惜しむようにして声をかける。
「起きろよ奈留。もう昼だぞ」
「ん…う…」
セーター越しに肩を掴み軽く揺らすと、親友の秋篠奈留は微かに呻いた。
「お前、今朝も一番に学校来てただろ? 勤勉と不良はある意味紙一重だと実感させられたぞ」
「…うーん、頭働かない」
いくら三年生になって講義の数が減ったとはいえ、こうして日中を個室で寝て過ごしているなんてだらしないにもほどがある。
昔はこんな自堕落な行為とは無縁な、箱入りで温室育ちで深窓の令嬢タイプの文学少女だったのに。話し方だって高校生の頃はもっと柔らかくて温度があったのに。純粋であるが故にゆとり教育の弊害をもろに受けてしまったのだろうか。
「ふう。……で、何か問題ごとを起こしたね、ワトスン」
「なんだよ、冴えてるじゃないか」
人生を転げ落ちている最中の名探偵は、上半身を起こして軽く伸びをした後にそんなことをのたまった。
「クラッチバックの中に不自然な膨らみが見て取れる。妹の入学式だというのに早朝から店に顔を出す忙しさにも関わらず、そうして昼休みを菓子パンで過ごさざるを得ないのは何か別件で時間を取られるからだろう?」
「はい正解。そして来客だぞ」
足音の後に鳴らされるノック音。そして、俺と同様に返事も聞かずして扉は開かれる。
「あら、名作家と小悪党の組み合わせ」
「名探偵とその助手って呼んで」
「…どちらにせよ俺は異を唱えるぞ」
俺をここに呼び出した張本人は、手元にいくつかの資料といつもの弁当箱の入ったトートバッグを携えて部屋へ入ってきた。
…あれってやっぱ自分で毎朝作っているのかな。
「それで、アリア姫まで呼んで何の用?」
「ふふ、感謝してもよろしくてよ奈留。今日はあなたの拙い想像力をこの私のために活用させてあげるわ」
すげえ、上から目線で遠回しに他人に助力を求めるやつ始めて見た。
というか、こういういかにも高飛車な話し方する裏の亜理亜も結構な小物だよな。
そして亜理亜は奈留のいる机に腰かけ、足を組み替えて俺の方へと向き直る。俺と奈留・亜理亜組で向き合うような格好だ。
立たされている俺はさながら法廷における被告人だ。
「奈留、あなたはしばらく私たちの会話を聞いていなさい。それから法の番人の意見を聞くわ」
「大体のことは分かったけど、まあオッケー」
そう言って奈留は椅子に深々と腰かけてお腹の上で手を組んだ。余裕を思わせる姿勢だが、指先や目元には焦燥感が見てとれる。
「では悠里。単刀直入に聞きますわよ。あなたの妹、アレは何かしら?」
……。
人の妹を指してアレ呼ばわりする点を指摘したい衝動を抑え、俺は努めていつも通りの表情で言葉を返す。
「何って、ただの妹だよ。お前には何かこの世のものとは思えない怪物にでも見えたのかよ?」
「衝撃の度合いで言ったら、そうよ」
ぎりっ。
思わず奥歯を噛み締めてしまう。
平静を装うという建て前が数秒で崩れ去るところだった。
亜理亜の目つきは真剣そのもので、加えて彼女のそれは有夢のよりも目力があるために更に迫力がある。
しかし、今の俺はその高濃度の視線に臆するどころかむしろ怒りを感じていた。
こいつは本当、人の触れられたくない所に我が物顔で踏み込んでくる。それ故のカリスマ性なのかもしれないが、好奇心にしろお節介にしろ、もう少しこちらの気持ちを鑑みろよ。
「…言いたいことは分かった。でも、俺から話せることはさっきの解答で全てだ」
「あなたでは話せない真実があるということかしら?」
「違う、変に詮索するなよ。有夢は確かに俺の妹で、確かに瀬名家の血筋の人間だってことだ」
「……」
「……」
俺の言葉に対し、亜理亜はどこかに穴がないかと思案顔で、奈留は少し悲しそうな顔をしていた。
「なんなら、今から役所に行って戸籍謄本でも調べようか? 友達とはいえ他人のことに、そこまでしなくちゃ気が済まないかよ?」
「……ごめんなさい」
亜理亜から、いつもの余裕かつ優雅な雰囲気が消え去っていた。腰かけていた机からも離れ、俺の目の前で無様に頭を下げていた。
「決して興味本位なんかじゃなかったの。ただあなたの痛みを少しでも取り除くためには、ここで一度踏みこまないと、って…」
「……俺の痛みって、なんだよ。こうして大学で普通に暮らしているだけなのに、勝手に、勝手に人のこと、痛い奴みたいに決めつけてんじゃねぇよ!!」
「っ!」
ついに平静は崩壊し、俺は四年ぶりに声を荒げた。未だ顔を上げない亜理亜の肩がびくっと震えた。
…ああ、まさか、こんな最低な態度をまた、他人にとる日が来るなんて。
……。
顔を上げた亜理亜の顔を見て、俺はそのことを深刻に受け止めた。
「…………」
「…その、亜理亜、」
「………っく……ぅ」
ーーその時の彼女の表情、たとえ自身の内側であっても認識することは憚られた。
彼女は、今まで700坪はあろう大型店舗と、そこで働く人間たちを指揮してきた超エリートで。しかも、大学に進んでも人望が厚く、誰からも好かれる優等生で。
そんな未来有望なやつが、こんな場所でこんな俺なんかに…。
「……ごめん」
俺はいてもたってもいられず部屋を飛び出す。
別に、俺は亜理亜を論破したわけでも説得したわけでもない。ただ感情だけを行使して、俺の中でしか証明できない真実と踏み越えられたくない領域を訴えただけだ。
でも、本当なんだ。瀬名有夢は本当に母さんの血を引く娘で、それならば当然俺の妹ということなのだから。
結局、奈留は終始座りっぱなしで、意見を述べることも目立つことも一切なく脇役に徹していた。
…本当は、俺が17歳になったあの夜みたいに、ほとぼりが冷めたら叱ってほしかったけれど。
でも、今の奈留はもうそんな表情は見せてくれないのだった。
続




