恋愛喜劇に終止符を
ここで章に一区切りです。
二人の因縁の一端が垣間見えますが、これ以上の因縁があと二つほどあります。
ーー体育館は大歓声に包まれていた。
それは驚きや感嘆の共鳴。ここにいる全員が奇跡を目撃したような高揚感で満たされていた。
生徒及び来校者の目線はみな一点に向けられている。ステージ上で満面の笑みを浮かべるその少女へと。
…ここに集まったほぼ全員が彼女の美しさ、あるいは変わり様に湧き立っている中、たった一人だけ、その様子に疑問を抱いている生徒がいた。
“なんだよ、あの笑顔…”
その少年は観衆の群れから離れたところで一人壁に寄りかかっており、周囲に生徒は皆無。
最近はこの状態にも慣れてきた為、他人に見られていても特に気にならなくなっていた。
“どうしてこの期に及んで演技なんか…“
そう疑問に思いながら、気づけば少年の足はステージへと向いていた。
舞台上では少女がインタビューを受けている。その表情は相変わらず笑顔。彼女が一番苦手としていた表情だ。
明らかに何かがおかしかった。しかし、そのことに気がつけるのは彼だけだ。他の奴らは彼女のことを何一つ知らないのだから。
彼女が質問に対して言葉を紡ぐ。しかしそれも虚飾だらけで少年には聞いていられなかった。
少年は体育館の隅にある扉を通り、ステージの端で少女が舞台から戻ってくるのを待つ。
付近には文化祭の実行委員が数人待機していたが、少年の顔を見ると虚をつかれた様子で後方へと消えて行った。
彼は舞台袖から改めて少女を見つめていた。
その曇り一つない笑顔とつつがない喋りは、ひたすらに少年の心に焦燥感を駆り立てる。
“俺の中学生活を犠牲にした一大作戦だぞ、分かっているのかよ玲ちゃん!”
舞台上の少女は、笑顔から一転し感極まって泣き出し始めた。鼻をすする程度のさり気ない泣き顔だが、観衆の心を揺さぶるには十分過ぎる効果があった。
ほんの一時間にも満たない間に、少女はこの場にいるほとんどの人を味方につけていた。これは二人の作戦の副次的な効果なのだが、後にこの事が大きな影響を及ぼす事となる。
大衆の万感の思いを一身に受け、少女はようやく舞台袖へと戻ってくる。
少年はそれを心配した面持ちで出迎えた。
“玲ちゃん、どうしてこんなこと…”
少年を見つけた少女は、一瞬だけ顔をくしゃくしゃにして大粒の涙を流した。それは少年が事ある毎に見てきた彼女の素の表情だ。
…しかし、今回はいつもと違って少年に抱きついてくることはなく、丁寧に仕立てられた舞台衣装で目元を拭い、そして泣き笑いのような表情を浮かべた。
少年は言葉が出てこなかった。舞台から戻ってきた彼女は、もはや彼の知る幼なじみの少女ではないように感じたからだ。
震える手を必死に隠し、少年は少女が何か声をかけてくれるのをひたすらに待った。
暗幕の向こうでは、未だに割れんばかりの歓声が響いていた。
それはそのまま少女のポテンシャルの具現であった。
少女は結局、何も言わずにそのまま少年の脇を通り過ぎようとする。少年はその行為の意味は理解したが、未だその理由を分かりかねていた。
“玲ちゃん!!”
少年…俺は、思わず後ろ姿の玲菜の肩を掴んでいた。ここで何も起こさなければ、信じられないことに俺たちの幼い頃からの関係が終わってしまう。それを最早疑う余地はなかった。
……。
玲菜は、それでも何も答えてくれなかった。
無表情が顔に張り付いていて、玲菜の心境が俺には窺えない。
“どうして何も言ってくれないんだよ!? ようやくお前も表舞台に出られたのに、これから俺たちの学校生活が始まるはずだったのに!”
俺は玲菜の為に全てを犠牲にしてきた。そんなことで恩を押し付けたりはしないが、俺は玲菜が幸せに暮らせる為にずっと彼女を守ってきたんだ。
それなのに…。
……。
濁った瞳をした玲菜は、何を言うでもなくその場に立ち尽くしていた。俺は更に何かを問いかけようとして、首元に雫が滴る感覚を始めて覚えた。
“……あれ?”
それは俺の目元から頬を伝い、一筋の輝く標を描いていた。
くそ…泣くなよ…。玲菜の前で泣かないって決めていたのに…。
俺の醜い様子を見て、玲菜は右手を口元に当て、とあるサインを俺に示した。
……。
俺は、ここでようやく彼女が俺を拒絶していることに気がついた。
何が悪かったのか…それは今でも分からない。俺は玲菜の為を思って彼女を舞台の上に立たせたつもりだったのに…。
玲菜の目元に、再び光の線が浮かぶ。
人差し指を口元に当て、同時に小指を垂直に立てるその動作が意味するものは…。
…………。
……。
ーーその後、俺は玲菜によって様々な悪事を表沙汰にされることなり、悲しみはやがて深い憎しみへと変わっていった。
……。
目が覚めると、陽はだいぶ傾き、カーテンの開け放たれた部屋の内部は真っ赤に染まっていた。
……。
開いた窓から入り込む鳩の鳴き声と風鈴の音色が、6畳ほどの俺の部屋の静寂さを際立たせている。
俺は制服のまま、自室のベッドの上でうずくまっていた。
「まったく、嫌な夢見たな…」
今までの人生の中でも選りすぐりの悪夢だ。ある意味劇的な過去なのだが、これだけはいつまで経っても苦い経験として拭うことができそうにない。
ーーでも、もういいんだ。
振り返ることは何百回としてきたさ。最初の頃は謝ろうとも思っていたよ。
けれども、今はそう思う以上にあいつが憎い。時々蘇る記憶は
、いつからか舞台袖での会話から放課後の教室での告発へと変わっていった。
奈留達と出会う前までは、時々思い出されるその忌まわしい記憶を理性で抑えられず、結果自身の体を傷つけることで無理やり抑制していたことすらあった。
犯罪的な妄想なんて当時は日常だった。そういうモチベーションだったから、中学時代はお互い完璧に関係を偽れたのだろう。
とにかく、玲菜との過去に最早価値も可能性も皆無ということだ。
「……はあ」
ーーそれで、俺はどうして眠ってしまったんだっけ?
ぼんやりした頭で天井を凝視しながら考えてみる。
瀬名家では、帰宅したらまず制服を着替えるのが決まり事だ。それで横にでもなれば皺ができてみすぼらしくなることを、母さんはとても嫌う人なのである。
…? 誰か家に連れてきたっけ?
奈留は昨日で、アオイとは外で会っただけだろ…。
…えーと、今日は六月のいつだ?
そういえば再来週はめんどくさいイベントがあるんだよな。確かあれは…。
「てんちょう、かい……」
…………。
……。
う、
「うわああああああああああ!!!!」
もう三軒先くらいまでとどいたんじゃないかってほどの絶叫だった。足を滑らせて高度四千メートルのヘリコプターからパラシュート無しで滑落したかのような、腹の底からの叫び声だったと思う。
「あ、あいつ、やりやがった!(推定)」
二乃舞亜理亜。やはりまともそうに振舞っていてもあいつを家に招くべきではなかった。
意識を失う前に見た蠱惑的過ぎる胸元やら生足やらが鮮明に思い出される。
そして何よりも見るものを骨抜きにするあの目線。こういう時だけ子どもで良かったと思う。耐性があったならあの後どうなっていたこと……って違う違う!
…既に無意識だっただけで体は穢されてしまっているかもしれないじゃないか。
俺はすぐさま制服を脱ぎ捨て、半裸を夕陽の下にさらした。
「うう…なんだこの尊厳を踏みにじられたかのような悲壮感は…」
上半身の状態を確認しながら俺は泣きたくなった。ここまでの屈辱を玲菜以外から受けることになるとは。やはり亜理亜は色々とぶっ飛んでいる。
っていうかあいつもやっぱり俺のことガキ扱いしてやがったんだな。少しでも異性として見てたら襲ってきたりとかしないと思うんだ。
うう…特に異常はないと思うけど。
何分半人前の知識しかない為に確実ではないのが何とも情けない。
余りにも自身の事に没頭していた為に、俺は部屋へと近づく足音にまたしても気がつけないでいた。
ガチャ。
「兄様、きゃっ!?」
「わわ!! 待った有夢!!」
「ごご、ごめんなさい! 起きたのかと思ってつい…」
妹こと瀬名有夢は、顔を真っ赤にしながら頭を何度も下げた後、自身の頭をぽかっと叩きながら部屋を出ていった。
アオイと同じくらい純粋で、奈留以上に人見知りでウブな箱入り娘なのが我が妹である。
とある事情から俺は彼女から複雑な目で見られており、15歳となった今でも目を合わせることすらままならない不憫な少女である。
まあこれも玲菜が関係していたりする訳で、本当にあいつの疫病神具合は異常だ。しかし、この件については俺も玲菜もどうすることも出来ないと諦めている。
「来年にはもう高校生なんだし、そろそろあいつもちゃんとしなきゃな」
自身の純潔の危機など脇に追いやり、俺は真剣に妹の先行きを心配していた。
しばらくすると、再びこちらを目指す足音が聞こえてきた。
「ん? もう夕飯か?」
そんな訳ないとは思いつつも、俺はとりあえず身なりを整える。
バンッ!
しかし、思いきり開かれた扉の前に立っていたのは、繊細で恥ずかしがり屋な妹君ではなかった。
「やっと起きたの? 土曜の午後から昼寝決め込むなんてどんだけ暇なのよ?」
「……」
俺は抵抗するのを諦めてされるがまま首を締め上げられるドラマの被害者役みたいな顔になった。
その後、小さく舌打ちをしてから布団にくるまり不貞寝を決め込むことにした。
「ちょっと、せっかくわざわざ来てるんだから話する態勢にくらいなりなさいよ」
「……」
俺は何も答えない。
こいつと喋ってもろくなことにならない。この二週間ばかしで嫌というほどそれを実感させられたぜ。もうどんなにお願いされても玲菜とは教室と店以外では口きかないもんね。
「有夢に昨日の奈留とのこと誇張して教えるわよ?」
「……。……ぬぅ」
俺の宣言は、字数で言えば二十文字程度で撤回するはめとなった。もう自分自身が嫌になる…。
俺はもそもそと布団にくるまったまま起き上がり、あぐらをかいて玲菜の方へ向き直った。
「学校サボった奴がえらそうにするなよな」
「昨日は悠里もサボってたじゃない」
……。
悪魔に正論を言われるのは不本意で仕方ない。
「…で? 二日続けて瀬名家に何の用だよ? お前がこの家跨ぐくらいなんだから相当大事なことなんだろ?」
「ええ、まあ、そうなんだけど…」
「?」
返事をしながらも、玲菜は何故か心ここにあらずといった面持ちだった。部屋の至る所を見回しては顔をしかめていた。
「…何してんの?」
「ん、なんか、香水の匂いしない?」
!!
そう言いながらちらと俺の方をを見やる玲菜。俺は悟られないよう平静を装っていたつもりなのだが…。
「……誰かいたのね」
例によってこいつには筒抜けのようであった。最早幼なじみなどという繋がりは呪いの鎖でしかない。
そして玲菜は久しぶりにマジギレしているようであった。
「…ったく。今度は誰よ? アオイ? 円城さん? まさかまた奈留なんてこと…」
「いや、違うって! お前は後輩やクラスメートにどんなイメージ持ってんだよ」
「みんな純粋だからあんたの悪だくみに騙されるのよ」
酷い言われようである。しかし困った。どう言い訳したものかな…。
何せここにいたのは、俺たちの黒歴史をクラスメートに暴露し、偽装恋愛なんて弱点もいいとこな罰ゲームを強いらせた張本人、二乃舞亜理亜なのだから。
これだけは、必ず隠し通さねば。
「で、誰なのよ?」
「誰でもない。お前は反社会性人格が悪化したが為に低俗な幻想でも見ているんじゃないか?」
「…ほう、この期に及んでまだ生意気な口を叩く余裕があるのね」
お前に反論するのに悪口言うなって方が無理だから。
と、心の中でだけ反論しておく自他共に認める小物魂の俺。
よし、このまま粘って母さんの帰宅を待てばこいつは家を出ざるを得なくなるぞ。それまでの辛抱…。
「ん? 悠里、シャツに何かついてるわよ?」
「え?」
そう言われて俺が胸元を確認しようとした時には、既に玲菜の手がそこまで伸びてきていた。
「……これは…」
玲菜が掴んだ物は、髪の毛だった。明るいブロンドの、長い髪の毛……。
「うわ!」
気づけば俺は天井を眺める態勢になっていた。そして下半身に何か温かくて柔らかいものが乗っかっている感触がある。
首だけ持ち上げて下腹部を見ると、なんて事はない。玲菜が俺に馬乗りの態勢になっていたのだ。
「お、おい! これは宇宙協定違反だぞ!?」
「うるさい。いいからちょっと大人しくして」
そう言って玲菜は俺のシャツのボタンを上から取り外しにかかった。
もちろん俺は必死に抵抗したのだが、何故か下半身を圧迫されていると上手く力が入らないのだ。
かくして、俺の胸元は玲菜の独善的な侵略によって強制的に開放されてしまう。
よもや玲菜までこんなことをしてくるとは予想すらしていなかった為、本来ならこちらもブチ切れるところをただただ罵るだけに留まってしまっている。
「…………ゆうくん」
「下りろこの変態おん…へ?」
玲菜が震える指で示している場所は、俺の鎖骨辺りのところだ。普段の生活では視界に入らない部分である為、俺は首を捻ってなんとかその部位を確認する。
「ったく、何なんだって…の…」
首元のその箇所を見、俺の罵声は途端にトーンダウンした。
そして、最早玲菜の表情など怖くて見ていられなくなった。
家のお菓子をくすねた子どもが、母親にそのお菓子のゴミを見つかってしまったかのように。首元には“彼女”を裏付ける赤く充血したキスマークが浮かび上がっていた。
「……」
「……」
お互い、言葉が出ない。
玲菜は単純な怒りの感情から。俺はそんな彼女と、この刻印をした反社会性お嬢様に対して恐怖していたからだ。
今ようやく分かった。亜理亜は恐らくこうなることを予想していたのだ。首筋のマークは誰かが気づけば必ずや騒ぎとなり、当然玲菜の耳にも入ったことだろう。学校でそんな事態ともなれば、それは相当な修羅場になっていたに違いない。
「……どうして?」
「え?」
黙り込むこと数分。ようやく口を開いた玲菜の顔には、意外にも怒りではなく悲しみの色合いが浮かんでいた。
「どうしてみんな悠里にこんなことしようなんて思うの?」
「…って、そういうことかよ」
何か修羅場のような雰囲気だったので俄かにドキドキしてしまっていたのがアホらしく思えてきた。
「こんなに子どもなのに。あの子たち真性の変態なのかしら…」
「いや、流石に怒るぞ俺も」
相変わらずの馬乗りのまま、玲菜は俺の頬を人差し指でつんつんと突ついて来た。俺はすぐにその手を払う。
無意識にディスってくるとか本当にやな奴!
なので、俺も少し今回の件を有効活用させてもらうことにした。
「俺に大人の魅力を感じてるってことだろ? お前には伝わってないようだけど」
「大人の魅力、って。部屋に子どもの頃のおもちゃがそのまま残ってる男がそれを言う?」
……。
どうしてこう、玲菜はこんな状況でも言葉がすらすらと出てくるのだろう。俺は密着した下半身を意識しない様必死なのに。
「別に、お前にどうこう言われる筋合いはないだろ。俺たちは早く大人になりたいからこういう事してるんだよ」
「……」
夕陽はかなり傾き、真っ赤だった部屋はそのコントラストをかなり下げている。暗闇の中、玲菜だけが赤いライトで照らされているような感覚だ。
表情も判別し辛くなってきており、玲菜がどんな顔をしているのか分からない。
「……何それ、篠井先生のことまだ気にしてるわけ?」
……。
外の風が鳴り止んだ。
部屋の中を真の静寂が支配した頃、玲菜はそうして、臆面もなく一線を超えてきた。
「ーーおい」
「……」
睨んでいるのか、蔑んでいるのか。表情は分からない。
俺は上半身を起こし、玲菜の首元を掴む。玲菜は抵抗しなかった。
鼻と鼻が触れ合う寸前まで近づいてようやく、玲菜の冷ややかな目線を確認することができた。
そこに嘲笑などのニュアンスは感じられなかったが、少なくとも仲の良い者へ向ける視線ではない。恐らくはおれも似た様な目をしているのだろう。
視線が交差すること数分。ある意味で昨日のアオイや奈留よりも密接なやりとりをしていたのかもしれない。物理的には。
やはり、俺たちの関係には恨みと怒りの感情しか生まれないのだと改めて悟った。
やがて、玲菜は俺の手を払い、立ち上がったその場で身なりを少し整え、何も言わずに部屋を出て行った。
陽は完全に没している。俺はその場でしばらく、久しく生まれなかった激情の波を抑える為、肩に深々と爪を立てていた。
第三章完
第四章へ続く




