気さくな店長は常識人??
書店部の内部事情
ーー血。血だ。
視界に突然、鮮やかな色彩が映り込んだ。
フローリングされた真新しい床に、赤い雫が滴り落ちる。
見れば、左手の指先が割とザックリと切れていた。
冒頭二行だけを見れば、まだどこか学園異能力バトル的な雰囲気を醸し出せる可能性が感じられたが、当然、そんな要素はこの世界に皆無だ。空想上の産物である。
五行ほど読み進めても、まだ学園ミステリー的な崇高な駆け引きの一端を匂わせることもできたが、多分それも叶わぬことかと思う。
ここは書店、本屋さんだ。
在り方は少し特殊なのだが、別に黒髪ロングの女主人がいる古めかしい古書堂というわけでもなく、むしろこんな場所で殺人など起こったり考えたりしているだけでシュール過ぎて名推理が霞んでしまうくらいの色味のないところだ。
そんな面白みのない現実の、営業スマイルの似合う世俗まみれた書店というシチュエーションにおいて、ただ一つだけ枠外の理を抱く者がいる。
………お粗末な言い回しだが、そう、俺のことだ。俺の心がそれに該当する。
心は超常バトルの真っ最中が如く激しく昂り、思考はミステリー小説の犯人を思わせる、冷静で残酷な思想に充ち満ちていた。
常識と理性で構成されたリアルワールドにおいて、このような精神状態で書店にいる人間というのは、ともすれば犯罪者予備軍と思われることだろう。しかし、俺はそんな輩ではないと弁論させてほしい。
偏った思想や危険な癖、趣味なんか当然持ち合わせていないし、中学では信頼厚き生徒会副会長だった(何とも詭弁)
とにかく、頭の中はヤバいけど俺は普通なのだ。ある一点のことについてを除けば。
そのひとかけらの凶変が滲み出てしまう場所がたまたまこの書店というだけで……。
などと、気づけば一人でメダパニ状態になっていて一人で言い訳している痛い高校生がそこにいた。
時刻は午後10時を回ったところ。一時間前に店は閉まっているので、店内には本当に俺一人しかいない。照明もいくつか消えているので営業時より薄暗く、辺りは物音一つしない。
雑誌の角で切った親指に絆創膏を貼り(紙質が硬いと結構切れるのだ)、俺は作業を再開する。
エプロンにつけたバッチには「店長:瀬名」と印字してある。
俺こと瀬名悠里は、確かにこの本屋の店長であるのだが、同時に「この高校の」二年生に在籍する生徒でもある。
実は、この書店は「私立新星大学附属高等学校」の敷地内にあるのだ。
母体の新星大学は、古くから優秀な専門書を数多く出版している。そして、生徒に生の情報・知識を得る機会を身近に与えたいという学長らの意向もあって、全国に五つある附属高校の内部に独自の小売店を設けているのだ。
その上、各書店の経営の一部を在籍中の生徒らに一任させ(主要版元の新刊の入荷数などは大人が担ってはいるが)、いずれ社会に出る際の訓練場となっている。携わっているのは「書店部」という、部活動ながらも給料が出る、ある種ハイブリッドな部に在籍している生徒たちだ。
二年になって間もない俺が部長の久慈原先輩から店長に任命されてしまったのは、俺が部長と特別仲が良かったことと、先輩が急に国立大学を目指すなどと大いなる野望を打ちたてたからである。受験態勢に入ったらバイトとか辞める人いるよな。あの要領だ。
という訳で、若くしていち小売店の長を任されてしまった俺は、こうして今、閉店後も学校(もとい職場)に拘束されている。何をしているかというと、明日入ってくる雑誌を置くスペースを作っているのだ。
この店は学校の中にはあるが、その出入り口は外部の一般道に接しており、従って一般人に対しても門戸を開いている。
今となっては地域住民にも存在は認知されている為、客層は他の一般的書店とほとんど変わらない。
新刊は発売日の朝に届くのだが、ファッション雑誌だとかコミック雑誌だとか、比較的よく売れる本は数十冊単位で入ってくる。
発売日も重なることが多いので、それらを「一限の始まる前に」梱包から取り出して店頭に並べるには、朝だけでは時間が足りなさすぎるのだ。
全部員に招集をかけて総出で「朝練」に励むのも手なのだが、遠方から通う部員もいるのでローテーションで担うのが最善である。
それでも、俺に店長に見合う高度なマネジメント能力や商品管理能力があれば事前に下準備ができていたのだろうが、生憎そのような要領の良さとは無縁らしい。
そうなると、こうして閉店後も一人残っていそいそと場所を空けていくしかないのだ。
残業として給与への加算を申請しても良いのだが、能力の未熟によるものだと自覚しているので報告はしない。
感覚としてはレギュラー外の野球部の居残りバッティングに似ている。良い汗かいてるぜ!
……。
…。
一時間後、ようやく明日の雑誌を迎え入れる準備が整った。今回はやけに時間がかかってしまった。
最近の女性誌は付録として高級ブランドのポーチやらトートバッグやらを付けていて、それで客を釣ってる風潮がある。
おかげで売り上げを伸ばしている雑誌もいくつか見受けられ、出版業界不況のこの最中に入荷数がどんどん増えてきていて置き所にとても困っているのだ。
男の俺がそれを担うので、作業は女性のそれより格段に遅くなる。人気のブランドとかそういうの分かる男がいたら是非代わって頂きたいところだ。
…こんなことを考えていると、沈静化していた非現実的な感情がまた顔を覗かせてきそうだったので、さっさと照明を落として帰宅することにした。
校門を出、初夏の訪れを感じる温い風の吹く帰宅路をとぼとぼと歩く。外灯はまばらだ。
…はあ。二年生になって以来、
全く目まぐるしい毎日を過ごしている。正直放課後くらい家でゆっくりしたいとも思う。
だが、俺は何としてもこの状況を乗り越えなければならない。理由はいくつかあるが、これは後で語るとしよう。
………校門から少し歩いたところで、一度我が学び舎であり職場の方を振り返る。
住宅街にそびえ立つそれは、宮殿のような荘厳なシルエットを闇に写し出していた。
もしかしたらあの場所が現世と異世界の狭間なのかもしれない。今の時代、本屋くらい敷地まるごと異世界にピチュンと消えたって何ら不思議ではない。それは、日に日に新文芸というジャンルが売り場に幅を利かせていく様を見守る書店員なのでよくよく知っている。
あるいは逆にあそこで働く部員はあまねく皆異世界人かもしれない。銀髪の純真可憐な後輩とかイケメン女騎士とか、あと悲劇の忌み子の正義のヒーローとか。……まだ混乱してるのかな俺。
とにかく、街灯もまばらな夜道から見上げる学校のそれは、とても厳かで不気味だった。
そんな、ちょっと非日常的な光景を目にして、つい思ってしまう。
ーー今度こそここで、何もかも終わらせる。
これより語るは魔王と魔王の物語
高校の領域で繰り広げられるほんの半年足らずの後悔の記録だ