彼らが生きる、彼らも生きる。
暗い、木が鬱蒼と繁った林を、小動物の群れが駆け抜けていた。
茶色の体毛に大きな尻尾。目の周りだけは隈の様な黒い毛が被っている。
――狸。
日本に古来から生息している彼らが、十数匹の集団で走り続けていた。
否、正しくは、『何十匹いたものが減った上での』十数匹。
そして彼らはただ走っているのではなく、
「右だ、追え!!」
逃げていた、弓と短剣を持った狩人から。
狩人の数は三人。一人が、老齢だが壮健な顔立ちの熟練者。他の二人は、老人の弟子とおぼしき若者だ。
彼ら三人は素早く動き、狸達を包囲するように連携する。
もし、この場所に狸の生態に詳しい者か、狩猟に秀でた者が居たなら、違和感に気づくだろう。
本来は家族単位でしか行動しない狸が、何故徒党を組んでいるのか。そして、狩るのが簡単な狸を、何故狩人がわざわざ分け前を減らすように複数人で狩猟するのか。
二つの違和感には、同じひとつの回答が与えられる。
「――! 避けろバカ野郎!」
老人がそう叫び、片方の弟子が横に飛び退く。
その残像があった場所を通りすぎたのは、
『死ねッ! 人間!』
――狸。
その動きには、ただの狸とは思えない俊敏さと、命の奪い合いをするという必死さがあった。
化け狸。
長く生きた狸が妖怪になったのか。それともそういう生物なのか。
『右から囲め!』
何にせよ、人語を解す彼らは人と対立し、殺す殺されるの生存競争を行っていた。
『喰らえ!』
狸の一匹が叫ぶと、その口から炎の球が発射される。妖術の類いだ。
「効くかよ!」
だが、人がそれに対処しない訳もない。
猟師の一人が、特別に精錬し、神仏の加護を受けた短刀で火球を切り裂き、防御する。
また別の一方では、老狩人が果敢にも三匹の狸を相手取っていた。
「…………」
老人は静かに身構え、成熟した気風を漂わせる。
『…………』
三匹は円形に回りながら老人を包囲し、今にも飛びかかろうと構える。
『――!』
最初に動いたのは、老人の背後に回った一匹だった。
攻撃はただのかみつき。しかし、化け狸の脚力で生み出された跳躍は、人の常識を覆すほどの速度を作り出していた。
視覚外からの跳び付きは、
「…………ぬるい」
しかし、老人が素早く回転し、手刀を食らわせることで回避された。
だが、狸の攻撃はそれで終わらない。
一瞬できた隙を狙い、残りの二匹が、片方は高く飛んで頭上から、もう片方は身を低くして足下から老人に迫る。
それに対して老人が行ったのは、
「…………弱ぇ」
『!?』
まず、肩に背負った弓を高速で外し、その弦と弧の間に飛んできた頭上の一匹の頭を入れる。
頭を入れながら、その動作をするために生まれた体の回転を利用して、足下の一匹を蹴り上げる。
半回転したところで、弓を引き寄せ、本体ごと弦をひねり、弦が狸の首を閉める形にして、それをそのまま、
「ふんッ」
――ねじ切った。
細く、しなった弦に切られ、狸の首がゴロリと地面に落ちる。
次いで老人は、右手で腰から短刀を、左手で背中の矢筒から矢を取り出し、
「…………」
短刀を蹴りあげた狸に投げつけ、矢を、手刀を食らわせた方に刺した
三匹が声もあげず、ほぼ同時に絶命する。
狸の数が減った一方で、
「離れろ…………!」
『断る!』
別の場所では、弟子の一人が若い狸に噛みつかれ、妖術によって動きを止められていた。
『そのまま抑えてろ!』
年長者の狸が叫び、彼の周りに魔方陣が現れる。
『喰らえ!!』
そこから現れた炎が狩人に向かって伸びていき――
「アアァぁぁ…………!」
焼き尽くした。
殺し合いと仇の討ち合いが行われる光景から少し目を動かせば、
『兄弟を連れて早く逃げろ!』
家族の庇い合いが生まれていた。
呼び掛けていたのは、若い狩人を殺した、狸の族長。呼び掛けられていたのはその子。まだ若い小狸だ。
『父さん!』
子供は、戦いから少し離れた茂みに身を隠し、早く逃げようと父親に鳴く。その後ろには、雌や他の子狸、群れの守るべき者達が隠れていた。
『先に行け! お前は生きなきゃいけねぇんだよ!』
父親は前を向き直し、仲間たちと共に対峙する。
『…………俺達は、ここでこいつを仕留めねぇといけないんだよ』
目の前にいるのは、熟練の老狩人。彼の足元には、子供や伴侶を守るために散った、狸達の骸が転がっていた。
『でも…………!』
『早く行け!』
父親の叱咤に、子は唇を噛み、他の仲間たちと一緒に逃げていく。
『…………守ってやるよ、俺らの未来をよぉ』
「…………追え」
老狩人がそう、逃げた小狸達の追跡を命じた先は、後ろに控えた弟子だった。
「…………わかった、師匠」
頷きながらも、弟子は苦い顔をする。それは、師匠が十匹以上の狸を一度に相手できるのかという疑問であり、心配だった。
「…………気にすんじゃねぇ」
老人は、しかし笑って言葉を返す。
「元より、奴等をここで始末しなけりゃいけねぇんだ。ガキ供のためにもよ」
自分の子供や孫が、化け狸に襲われないように、安心して生活できるように。
まだ妻も子もいない弟子は、控え目な笑みを浮かべ、林の奥に走っていく。
「…………ガキのために、孫のために死ねるなんて、最高に幸せじゃねぇか、俺はよう」
一人と一匹の――否、二人の父親と老人は、向かい合った。
そして、諦めたようにどちらもが笑う。
その笑みには、子供達を守るという決意や、あるいはお前も大変だな、という労いがあった。
狩人は刀を抜き、狸は火の玉を用意する。
両者が得物を構え、踏み込む用意をした、達人的な一瞬の後、
―――― !
戦いを、始めた。
走った。
一人、それとも一匹は、闇の中を、木々の間を、月の下を駆け抜けた。
片方は追い、片方は追われて。
途中で仲間とはぐれ、獲物を見つけ、殺し殺される。
気付けば東から日が登り、自分の居場所も相手の居場所もわからなくなっていた。
両者は、周りを見渡しても誰一人として仲間がいないことに気付き、項垂れる。
もう、自分しかいないのか、と。
そして、逃げなくちゃ、追わなければ、と前を向き、仇敵を意識する。
そんな中、その一匹の身には――
虎ばさみ。初歩的な罠だった。
金属の仕掛けに、ある程度の加重が掛かれば作動し、動物を拘束する。
一晩中走り続けていなければ、疲れていなければ難なく逃れられた。
しかし、今は四足の自由を奪われ、血がとくとくと流れる。
つまり――族長の子供、小狸は、死の淵に瀕していた。
『こんなところで、死んじゃダメなんだ…………』
父が守ってくれた命を、こんなところでなくしてはいけない。
だが、願って助かるほど、文明の利器は優しくない。
抜け出そうと足を動かせば、刃が食い込み、体力と気力を奪う。
ああ、もうだめかもしれない。
ふっ、とおぼろ気にそう思って、
「おや、狸が捕まっておるわ」
人の声が聞こえた。
おしまいかな、と短絡に結論付けた。夕飯の狸汁になるのが関の山だろう、と。時間的に朝飯か、とも。
頭をあげて目に入ったのは、
「南無阿弥陀仏。死んどらんことを願おうかのぉ」
後光の眩しいハゲだった。
最初は、やけに太陽が近いと思った。まるで手の届くところにあるように。
ついで、太陽が徐々に近づいてきているのがわかった。しかもにこやかな表情を浮かべながら!
血の流れすぎで気が触れたのかと思った。太陽が笑いながら近づいてくるなんてどんな怪談だ。
すこしして、それが髪を剃った和尚ということに気づく。
状況は変わった。しかし、
狸汁はなくなったけど、お札張られて消滅かな。
ただ死に方が変わっただけだと言い聞かせる。
ほら今だって虎ばさみを外そうと…………
――?
え、と呟きかけて、慌ててやめる。ここで喋ったらどうなるか解らない。
和尚は老体に鞭打って罠を外したあと、服の袖を破り、こちらの足に巻いてきた。
やがて、妖怪の治癒力もあり、歩ける程度に回復する。
「ほお、もう大丈夫か」
虎ばさみをどけていた和尚は笑い、頭を撫でてくる。
「ほら、早く逃げなさい」
腹を叩かれ、森の中へと追い立てられる。足は痛むが動きに支障はない。
そそくさと木の裏に隠れ、一息つく。
どうして助けてくれたのだろうか。
人は、自分達を狩り、食らうものだと教わってきた。もちろん、仲間が食われるのも幾度となく見てきた。
だけどあの人は…………。
わからなかった。
人間に殺されかけて、人間に助けてもらう。
首をかしげながら、木から顔を出す。
そこには、谷から水を汲んできたとおぼしき和尚が、山の上に見える寺に帰る姿があった。
――命の恩人…………。
もらった恩は返せ、父から教わってきたことだ。
――返さないと。
その日の昼、狸が忍び込んだのは、寺の書物庫だった。
心地良く冷たい秋の空気を惜しみながら入ったその部屋は、紙と墨の匂いが漂う空間だった。
――どうやって恩を返そうか。
和尚にしてもらった恩を返す――そう決めたはいいが、人間がされて喜ぶことなど健闘もつかない。唯一浮かんだのは、狸汁を馳走することくらいだ。
それを調べるために、和尚の身辺調査を行おうと忍び込んだのだが、
――この部屋なら、何かわかるかも。
文を読むことはできないが、文字の意味ぐらいはわかる。
本を開けば何かわかるはずだ、と手近な本棚に登り、一冊をひっぱり出す。そして気付く。
捲れない…………。
自分の指は狸のそれで、本を捲るどころか両手で持ち上げることすらできない。
どうしよう、と悩んでいると。
『あっ…………』
本の重みにフラリとよろけて、本と一緒に床に落ちる。
顔面から床に衝突し、視界に星が飛ぶ。
『本は…………』
大丈夫か、と辺りを見回して、近くに落ちて、その拍子に開いていた本を見つけた。
丁度良い、捲らなくてもすんだ。
開いた項を見ると、文のとなりに挿し絵が描いてあった。
『ふ・かしこ…………ダメだ、わからない』
その説明は、『普賢菩薩乗像図』。線がぐちゃぐちゃとして、読む気にもなれなかった。
だが、文に『尊』や『神』、『仏』という字が書いてある辺り、とても縁起の良いものなのだろう。
――もし、これが目の前にいたら、和尚は喜ぶだろうか。
幸い、自分は変化の妖術を会得している。この絵のモノになるのも簡単だ。
和尚に御披露目するのは、明日の夜にしようか。それまで練習だ。
頑張ってみよう。
不思議と、心が跳ねていた。