うたかたの恋
五月のある日、友人のナタリーと二人、紅海へ出かけた。
欧州のそれとは違って、空は青く海も青い。
イルカに会えるかもしれないというキャッチコピーのカタログに魅せられ、シュノーケリング・クルーズに申し込んだ。
これまでに体験ダイビングをしたことはあるけれど、器具を付けていても潜るのは怖かった。しかしシュノーケリングなら波打ち際から遠くないところで遊ぶもので、深いところへ潜ることはないから、危険なことなどないだろうと思い込んでいたのだ。
大きな船は、海の浅い桟橋に着けることができず、乗客は小さなボートに乗って沖で待つ船へと運ばれる。
ボートは20人乗りくらいだろうか。乗客は桟橋から段差がある上、揺れている船に乗り移るために、みんながペンギンのようなぎこちない動き方をしていた。
やがてボートが人でいっぱいになると、その小さなエンジンを震わせながらそれが滑りはじめ、フィッシングに出かける船やダイビングに出かける船、そしてシュノーケリングに出かける船へと順番に着けて行った。
私たちはテントでカバーされたブリッジ階に造りつけられたベンチシートに座り、乗客の揃うのを待つ。
同じボートに乗ったメンバーの内、下のデッキにいたメンバーはよく見えなかったけれど、イタリア国籍のナタリーと私以外をざっと数えてみると、2組のロシア人家族と1組のドイツ人家族、更に10組程のドイツ人カップルがいた。
乗船が終わるとインストラクターが大きな声で話し始める。
彼は20代後半くらいだろうか。よく締まって日に焼けた体をした青年が、これから3か所のポイントへ出かけること、器具の装着の仕方などについて、ひと通り説明をしてくれた。
その後、他のアニメーターたちは、乗船している家族連れの子供たちにタオルでターバンや鶴などの生き物の形を作って見せたりしていた。
それらを被せられた子どもたちは戸惑うような表情を浮かべたまま、カメラマンとして同行していた男性達の写真に収まる。
バカンスに出かけると、よく目にする光景だ。
私自身からは遠い出来事のような気がして、少し退屈気味にそれらを眺めながら、サングラスの隙間に垣間見える友人を横目で覗き見た。
彼女は朝から気難しく、体調が悪いというのは分かったけれど、あまりにも不機嫌そうなその様子に私は小さくため息を吐いた。
1時間近くを黙って過ごしていたと思う。
私はデッキに取り付けられた椅子にもたれ、シェードの隙間の青空を仰ぎ見た。
カモメが釣り船と間違え、翼を広げてついて来る姿が愛らしい。
写真を撮ろうとバッグからカメラを取り出した時、アラブ語の会話が飛び交い始め、私たちの船も既に停泊している船の横に停まろうとしているようだと気が付いた。
そのほんの少しの間にカモメはシェードの隙間から姿を消し、私は手に持っていたカメラをまたバッグの中に戻す。
やがてインストラクターは、ここが第一のポイントなので海に入るようにと声を掛けに来た。
ナタリーはシュノーケリングをしないと言い、一緒には来なかったので、私は一人インストラクターに従い海に入った。
そこからは全員が器具を付けているので会話はない。
ともかく私はみんなの移動する方向へついて行った。
しかし、ふと下を見てみると確かに美しい魚もサンゴ礁も見えたけれど、更にその下には大きな闇があるのが目に入った。
透明度が高いだけに、この闇の部分はどれだけ深いかわからない。
私は怖くて、足がすくみそうになった。
まるで高いビルの上から降りて来て、空中に浮かんでいるような錯覚を起こしてしまったのだ。
ところが、みんなの泳ぐスピードは速い。何とか追いつこうとするけれど、とても難しかった。
沖あいなので波がとても高く、人の姿は波に見え隠れする。私はシュノーケルごと、何度も大波に飲まれそうになった。それでも必死に動いていると、前日にディスコへ出かけて睡眠不足という体調が祟ったのか、疲れているので動悸が激しくなる。
そういう状況の中、近くに停泊していた他のボートからも私たちと同じようにドイツ人グループが降りて来てシュノーケリングを始めた。
こうなると私と同じ船の人の顔が見分けられない。自己紹介をしたわけでもなく、殆どの人が同じ種類の器具をレンタルしていたから、それも見分けるヒントにはならなかった。
あっという間にグループが混ざり合って、私たちのグループがどこへ向かっているのかが見えなくなってしまった。
もっと正確に言えば、私の所属するグループが、どれだか分からなくなってしまったのだ。
やがて波間から様子を眺めていると、グループが別れて動き始めた。
インストラクターの顔は憶えているけれど遠い。
確認の為にあちこち泳いで行くのは無理だと思った。何故ならシュノーケリングのフィンは結構重いので、ゆっくり動かさなければ息が続かなくなる可能性があって危険だったから。
私は呼吸が速くなると、そういう癖があるので過呼吸症に陥る危険もあった。
(こんなところで全身が痺れて動けなくなったらどうしよう)
そんなことを考えると本当にパニックに陥りそうで、呼吸が荒くなりマスクとチューブが邪魔に思えて来た。
そこへまた波が来て、チューブからは水が入って来る。すぐに吹き出すけれど、それでもまた入って来る。その間隔が短くなった時には怖いと本気で思った。
でもパニックになってはいけない。それが一番危険だ。
(この際申し訳ないけれど、少し離れた所に足の届くサンゴ礁が見えるから、そこまで移動して、サンゴの間にフィンを差し込むようにすれば安定するかも?)
落ち着くようにと自分に言い聞かせながら、やっと黄色のサンゴ礁にたどり着いた。
傷つけないように、そっとサンゴ礁の間にフィンを差し込んだら、ある程度は思い通りに固定できた。
この海域には、イルカもいるそうだけれど、サメもいることを知っていた。
出かける前にサメというアラブ語を調べて行ったくらいなのに、その時は不思議と怖くはなかった。
じっとしていると、別のグループのエジプト人インストラクターが通りかかり、大丈夫かと声を掛けてくれた。
「大丈夫ですが迷子になったのです。みなさんドイツ人だから顔が見分けられなくて、どこが私のグループだかわかりません」
「船の名前は?」
「ブルーポイントです」
「僕が連れて行ってあげるよ」
その人の案内で戻りかけた時、私の船のエジプト人インストラクターが迎えに来てくれた。
「マスクに水が入ってる」
彼がそう言った後、首に捕まるように指示を受けたので、言われる通りにした。すると波が高いので勝手に揺れて体がぶつかる。嫌な感じだけれど離れるわけには行かない。
水を追い出してマスクを装着し、何とかボートに着いた時「ごめんなさい。ありがとう」
とインストラクターに言った。
彼は「もう、君を一人にはしないよ。ずっと僕が一緒だから安心して」と冗談にも聞こえる言葉を掛けてくれたけれど、私は即座に先ほど体の触れた瞬間の不快感を思い出し、それには返事ができなかった。
梯子を伝ってデッキに上がると、他のスタッフたちがやって来て「大丈夫か」と笑いながら口々に声を掛ける。
私は、まだ恐怖心から解放されていなかったけれど、みんな遊びに来ているのだから楽しい気持ちに水を差したくはない。そこで、少し無理をしながら笑った。
そうしていると、一人だけ落ち着いた年齢のエジプト人男性がやって来て「いやー、サメに飲まれたかと思ったよ」と笑いながら私の手を掴み、それをどんどん引っ張って行った。
私はどこへ連れて行かれるのかと不安に思いながらも、とりあえず心配を掛けたことを謝った。
しかし彼は「大丈夫、大丈夫」と言いながら、私をキャビンに連れて行き、ひとり座らせた。
ほっとして椅子にもたれていると「お茶を入れてあげるよ、砂糖は、いくつ?」と尋ねてくれた。
そして船室の下にあるというキッチンへの階段を駆け下り、また駆け上がって来たかと思うと魚の図鑑を手に私の隣に座った。
(何? このおじさん)
私は疲れていたので椅子から動けないでいると、男性が図鑑を私の膝の上に広げ、ひとつずつ説明を始めた。
「これがね、ファイアーフィッシュで、こっちがストーンフィッシュ、どっちも古い魚で危険なんだ」
それから最後のページが終わるまで、当然ではあるけれど、ずっと魚のお話をしてくれた。
(きれいだけど聞くのに疲れたかな)と思ったタイミングで「さて、お湯が湧いたかな?」
男性はそう言ってから、また下に降り、今度はお茶と一緒に上って来た。
待つ間に痛みを感じて見てみると、珊瑚で傷つけたらしく足に血が滲んでいる。
脛の真ん中辺りで10㎝くらいの範囲にたくさんの引っかいた痕があり、その内のいくつかは少し深そうだった。
それでも海でできた傷は膿んだりすることもなく、大抵はすぐに治るので心配ないだろうと思った。
やがて男性の手から差し出されたお茶は、とてもおいしかった。
けれど壁の向こうには人がたくさん居るにしろ、キャビンに二人きりというその状況に気持ちが落ち着かなかったので、私は早くブリッジに戻りたいと思い、慌てて熱いお茶を飲んだお陰で軽く舌に火傷をした。
その時は気が付かなかった。
みんなにサービスするのだと思ったら、他の人たちはセルフサービスで水やコーラなどのソフトドリンクを飲んでいる。
あの男性は私の顔色を見て判断し、落ち着くまで話相手をしてくれたのだと後から気が付いた。
私がブリッジに戻って間もなく、次の目的地である小さな島に上陸するとアナウンスがあった。また小さなボートの迎えが来て、しばらくそこで遊ぶことになる。
ここなら浅いし大丈夫そうに思ったけれど、疲れていたので景色を楽しむだけにした。
スタッフの一人が私のところへやって来て「泳ごう」と誘ってくれた。でも、疲れていることを理由に断った。
「さっきのことで怖くなった?」
「うん、そうだと思う」
「僕が一緒に行くから大丈夫だよ」
「でも、いいの」
そんな会話をした後、イルカか鯨のような体型のその人は諦めた。
きれいな島だった。
海は、コバルト色で眩しく輝いている。
不機嫌だったナタリーも、実は私の思うよりも、もっと疲れていたのだろう。リラックスをしたおかげで元気になったのか、少しは機嫌が戻って来た。
その後、また小舟のお迎えが来て、船に戻る。
楽しみにしていた食事の時間だった。
土地のものだと聞いた料理は、レバノンやイスラエル料理とも似ている。
豆や香辛料がたくさん使われていたことと、ご飯がおいしいので嬉しかった。
ナタリーは、いつものようにイタリア料理と比較して言葉を並べるのだけれど、私もいつものように聞き流していた。
食後は移動して、また別のポイントへ行く。
辿り着いたところには他のボートがなく、私は安心した。これなら同じ失敗はしない。
それに水深は10mくらいだろうか。はっきり、底が見えた。
船の真ん前に大きなサンゴ礁があって、与えられた20分の時間なら、ちょうどその塊を一周できるのではないかと思った。
さっき、お茶を淹れてくれた年配の男性が、ライフベストを着て行くと安心だと言うのに従い、ベストとシュノーケリングの為の器具を付けて海に入った。
シュノーケリングはしないが泳ぐと言うナタリーと別れて、私はドイツ人の家族連れとは反対の方へ泳ぎ始めた。
さっき見た大きなサンゴ礁一周コースを泳ごうと、自分で決めていたのだ。
水の透明度が高いので、浅くなったところには海蛇やウニやイソギンチャクなどが見られ、数日前に水族館へ出かけたのが無駄だったと思えるくらい美しい魚もたくさんいた。
ふと影を感じて振り返ると、一人の筈なのに後ろからついて来る人があった。
(あ、さっきのイルカさんだ。)
ちょうど一周したところで、イルカさんが上がれと合図をして来たので船に戻った。
すると海水を流すため、私に真水のシャワーをかけながら、スタッフの一人が「きれいだった?」と尋ねてくれる。
「うん、きれいだった。それにイルカも見たわ」
「え、どこどこ?」
「でも、そのイルカは白いパンツを穿いていたの」
「あっはっは。あれはね、サメだよ」
ようやく自分に戻ったような気がして軽口を楽しみながらブリッジへ上がると、例の男性が舵を取っている。
スタッフ同士の会話から、彼がキャプテンだとわかった。よく見るとイタリア人のような顔立ちで、なかなかの美形だ。
明るく声を掛けてくれたので、少しだけ舵も握らせてもらった。
私は何だか恥ずかしい気がして、海の方を見ながら話しかけた。
「この生活で、ストレスはないでしょう?」
「うん、ないよ。いい仕事といい人たちに囲まれて生きているから」
「そうですよね。海はきれいだし」
「ここに住んでみたい?」
「どうかな、それは。難しいかも……」
「ははは……」
「このボート、大きいですね」
「うん、長さが25mあるしね、 エンジンは、米国製でCの作ったエンジンだから強い」
「あら、夫が喜びます。その会社でエンジンを開発しているので」
「そうか」
そこで会話は、途切れてしまった。
男と女の会話にしてはいけないと思う既婚者のブレーキがかかったのだと思う。
それでも、もっと違う表現ができると良かったような気がした。
その後、景色の写真を撮って、操舵席から2mくらい離れたベンチに座っていると、ずっと昔、車の助手席に初めて座り、運転席にいる人の横顔を飽きずに眺めていた日のことを思い出した。
(いいなぁ、この感じ)
それからの時間は短かった。
私たちは浜辺に近づくと、また小さなボートに乗り換えてビーチの桟橋へ戻る。
お別れに手を振りながら、ずっと彼の瞳を探していた。
お互いにかけていた濃いサングラスの奥で目が合ったような気もする。
もう、二度と会うことはないのだろう。
そう思うと、胸の辺りに小さな痛みが走った。